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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第六章 聖国までの数日

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178.それは王子様ではなく ★

 締め切ったカーテン。差し込む光のない空間。床に散らばる道具や本たち。開け放たれたままのクローゼット、ハンガーにかけられず床に放置されたままのドレス。

 机の上には手をつけられていない食事が、来ることのない主人を待ち侘びている。

 何も知らないものなら、そこは廃墟の一室にも見えたかもしれない。

 しかし、注意深く見ればカーテンもドレスも汚れの類は見えず、本だって落ちているだけで破損はない。

 トレーに乗ったままの食事だって、湯気こそ冷めたが数十分前に届けられたものだ。

 それでも異様に思えるのは、この空間が暗すぎるのではなく、あまりにも静寂に包まれていたからだろう。

 耳鳴りがするほどに静かで、外から聞こえる音だってない。

 ほんの少し前なら、この部屋には笑いが満ちていた。街の噂話や称賛といった自身を楽しませる話。

 お気に入りの作家の小説だってすぐに届けられたし、見たい観劇だって頻度は多くなくとも少しだけ我慢すれば観に行くことだってできた。

 温かい紅茶に、彼女のためのメイドと護衛。望みはなんだって叶えられた。

 口うるさい兄さえいなければ完璧で。実際いなくなって清々したし、これ以上ないほど満たされていた。


 ……それなのに、彼女は今、一人きり。

 部屋の奥、まるで一国の姫を思わせるような寝台の上。シーツの中に閉じこもり、眠ることもできずに空虚を見つめるだけ。

 不快な女たちはいつ頃からかいなくなったが、それは部屋の中に常駐しないというだけ。

 あの日から変わらずメリアはこの部屋に閉じ込められ、誰にも会えぬまま一人きりであることには変わらない。

 与えられるのは一日三度の食事だけだ。

 部屋にある本は読み飽きて、話し相手などそれこそ存在せず。あの日からラインハルトも来なければ、ヴァンが戻ってくることだってない。

 理不尽さに苛立ち、喚き、怒りにかられるまま物を投げつけることもあった。

『花嫁』なのにどうしてこんな仕打ちを受けなければならないのかと涙に濡れ、そんな姿を見ているはずなのにあの女たちの態度は変わらず。

 やがて、なにをしても無駄だと気付かされ……今は、ただベッドの上で寝そべるだけ。

 目覚める度に終わってほしいと願うのに、何度太陽が沈もうと誰も助けてはくれない。

 もうこの生活を強いられるようになって何日が経過したかさえ、彼女は覚えていないだろう。シーツ越しの光も暗く、朝か夜かさえ曖昧に違いない。

 読書もできず、話もできず。眠気も来なければ、思考に耽るのは当然の流れだろう。

 だが、いつだって浮かぶのは同じ疑問ばかり。


 ――どうして、こんな目に。

 答えは得られない。否、最初から求めてなどいない。彼女の中で結論は既に出ているのだ。

 たとえ、それがただの言いがかりだったとしても、メリアにとってはそれが真実。

 お兄様がいなくなってから全てがおかしくなった。

 あの夜、私に酷いことを言ったのに謝らなかったから。謝りたくないからと、勝手に出て行ったから。そうして、まだ見つからないから。

 だからこうなってしまった。だから、お兄様が悪いのだと。

 何度も何度も、飽きることなく。その結論を導き出しても、胸の内が晴れることは一度もない。

 メリアにとって悪いのはディアンであり、自分ではない。閉じ込められる謂われもなければ、こんな扱いを受ける道理だって。

 自分は『精霊の花嫁』だ。いつか王子様のような精霊が迎えに来て、自分も精霊と同じになる。

 だから誰よりも大事にされなければならず、傷つくことなんて許されない。

 メリアはそう信じて生きてきた。そうであると疑うこともなかった。彼女にとって、それは揺るぎない真実であったのだから。

 それなのに、なぜ。『花嫁』の私が閉じ込められなければならないのか。どうして自由に出歩くことも許されないのか。

 どうしてひどい事ばかりされて、なのに誰も助けてくれないのか。

 親しい者を全て遠ざけられ、まるで悪人のように扱われなければならないのか。

 私は『花嫁』なのに。悪いのは全部、お兄様だというのに。

『花嫁』に嘘を吐くから。『花嫁』を罵倒するから。それを反省しないから。それなのに、逃げ出してしまったから。

 だから全部おかしくなった。だから父も母も、ライヒにだって会えなくなってしまった。

 お兄様のせいだ。お兄様のせいで。なにもかも全部、悪いのはお兄様なのに。

 執拗に繰り返すのは己に言い聞かせるのではなく、そうだと妄信しているからだ。

 理不尽だと喚く彼女の、その言いがかりこそディアンにとっては理不尽であろう。

 だが、そんな彼女を正す者はいない。故に拗らせた思考が露見することもなく、その内側でグツリと煮詰められていく。

 黒く、重く。不快な感覚。こんな気分になっているのだって、全部、全部。

 もし誰かが。それこそ、外で見張っている騎士の誰か一人にでもそれを零していたなら。その幼稚な思考を晒していたのならば、可能性としては限りなく低くとも、まだその過ちは正せたかもしれない。

 懇々と説教され、言い聞かされ。否定し、喚き、それでも……もしかしたら、今までの環境に疑念を抱く、その切っ掛けになったかもしれない。

 ――だが、そうするにはあまりにも遅すぎたのだ。


 コンコン、と。響くノックの音に反応することなく、一瞬向けた意識はすぐに逸らされる。

 どうせ拒絶しても勝手に入ってくるのだ。喚いたところで無意味だし、もはや怒る気力さえない。

 そう考えている間に扉は開き、誰かが入ってくる気配にも顔を上げるつもりはない。

 食事は先ほど持ってきたばかり。他になんの用事があるというのか。

 いや、自分の望みを叶えてくれない、ひどい人たちと話すつもりは毛頭ない。

 それでもシーツの中に埋まったまま耳を立てた少女が、近づいてくるそれが聞き慣れない足音であることに気付くことはなく。

 コツコツ。

 軽やかで、まるで踊っているようにリズム良く。高らかに響く音が、ベッドのすぐそばで止まる。

 ……そうして、その美しい音は。メリアにとても聞き覚えのある声は。まるで謳うように少女の名前を呼んだのだ。

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