176.『海』の精霊
紫が見開かれ、呟く顔を凝視する。見下ろす薄紫に変化はなく、その口調は淡々としたものだ。
海の精霊は人を嫌っている。その起源も理由も不明だが、これは誰もが知っていること。
その相手が、かつては人に加護を与え、そうして番おうとしたなんて。エルドの口から聞いていなければ疑っていただろう。
番うはずだった。……はず、だった。
その言葉の示す意味を、ディアンはもう気付いている。
「まだこの地に精霊がいた頃の話だ」
薄紫はディアンから扉へ。茜色に染まる景色、穏やかな海……否、そこに広がっていた、
かつての景色へ向けられる。
「当時は報償代わりに娶る習慣はなく、望めば誰でも番うことができた。実際に多くの精霊が伴侶を娶ったし、今も……多くはないが、精霊界で暮らしている者もいる」
細まる瞳。感情がこもらないように吐き出された言葉の端に、それでも苦い感情が滲む。
睨み付けるような、哀れむような。悔やむ、ような。
それでも、言葉の真意を問うのは今ではないと口を噤み、その薄紫を見上げ続ける。
「海の……あいつとは古い知り合いだ。あの時のこともよく覚えている。強要されたのでも、そうしなければならないと自らに枷をかしたのでもない。互いに番うと望んだ二人は本当に幸せそうで……婚姻に対し、俺が祝福できる唯一の相手だった」
肩を抱く手に力がこもる。静かに吐かれた息は、込み上げる感情を抑えつけたもの。
「だが、タラサと愛し子は番うことはできなかった」
「……なぜ、ですか」
真っ先に思い浮かんだ可能性を否定し、とぼけようとしても直感は訴えかけてくる。
互いに望んだ婚姻。守るべき規則のない状況。それでも番えなかったとするなら、それは……。
「……愛し子が死んだからだ。殺されたと言ってもいい」
予想が当たり、唇に力が入る。
死別までは予想していた。だが、殺されたとは。
他の精霊か。それとも、婚姻を妬んだ他の人間によってなのか。
「精霊に魅入られた者は他の人間にも影響を与える。力におかされずとも、精霊が求めるほどの存在というだけで惹かれる者もいる。……いや、そうなる前からあの少女は人々に愛されていた」
だからこそタラサも惹かれたのだと、伏せられた目蓋の中では当時の光景が浮かんでいるのだろう。
海の精霊と、精霊に愛された人間。互いに手をとり、笑い合う幸せな姿が。祝福したいと思えるほどの光景が、そこに。
「彼女は、その内の一人に手籠めにされた。タラサとの婚姻を迎える前夜だった」
「な……っ……」
「大人の男に対し、まだ少女と呼べる年の女が敵うわけもない。だが、彼女は裏切ってしまったと嘆き……タラサが見つけたときにはもう、自らの命を絶っていた」
思い出したくもないと、その声は語る。
愛し子が穢され、その上で失った悲しみがどれほどのものか。もはや、ディアンには想像もつかない。
人が考える以上にそれは……あまりに、辛いことで。
「普段であればタラサも気付いただろう。だが、あの時あいつは祝いの酒に潰れ、目覚めたのは全てが終わった後だった。あいつは……」
言葉が息ごと止まる。浅い呼吸はなにを抑えつけたのだろうか。再び開いた瞳は、なにを映したのか。
「……不幸が重なったのであり、彼らにはなんの非もない。だが、あいつは己の行動を悔やみ続けた。一時でも離れるべきではなかったと、あの時浮かれて宴など出なければと。そうして、愛し子を死にいたらしめた者への怒りのままに報復した。彼女を死に追いやった者も、その家族も、村人も。一人残らず」
関係のない者たちを逃がすので精一杯だったと、海を眺める薄紫が揺らぐ。
愛しい者を失った精霊の怒りは、エルドでさえ止められなかったのだ。
「山も川も更地になった後、彼女の亡骸が崩れるまでタラサは嘆き苦しんだ。幾万、幾億の月日が流れても涙は涸れることなく。……やがて、その悲しみがこの世界を覆い尽くした」
視線の先を、辿る。赤みが薄れていく景色。揺蕩う波。やがて黒に染まる世界の底に、当時の名残はもうないのだろう。
「いつしか海と呼ばれるようになったこの水は、今も続くあいつの後悔と怒りが生み出したものだ」
船を撫でつける水面は穏やか。だが、本当はあの嵐こそが正しい姿なのだろう。
この深い底、終わらぬ感情は今も渦巻いているのか。
……かつて愛した人間が暮らしていた、その地で。
「今でこそ頻度は少なくなったが、それでもあいつが人に対して恨みを持っているのには変わらない。通りかかった人間が花嫁の衣装を着ていれば余計にな」
無関係と分かっていても抑えられないのだろう。己の辛い過去を思い出させる存在がいれば無理もない。
……そうと分かっている旧友が連れているとなれば、なおのこと。
「すみません……僕は……」
「お前は知らなかったし、俺たちも説明しなかった。……謝る必要はない」
教会にさえ記述の残っていない過去だ。エルドに説明されなければ、これからだって知ることのなかった事実。
それを悟れというのが無理な話でも、それで精霊の怒りを買ったことには変わりない。
知っていたならディアンもあの地に留まっただろう。傷つけたのはタラサだけではなく、やはりエルドに対してもなのだから。
「全ての精霊が愛し子に対して、そこまでの感情を抱いているわけではない。だが、全てがなんとも思っていないわけでもない。……程度が変われど、特別な相手には変わらないからな」
薄紫が落ちる。ディアンの瞳に、染められたその紫に。
「だからこそ、精霊は加護を与える。共に生けぬかわりに、自分が愛した者が苦無く生を謳歌できるように。それこそが人の幸せで、喜びであると疑いもなく」
欲しくなかったと、叫ぶ少女の姿がよぎる。普通に生きたかったのだと、そう訴えてなお、叶えられぬ望みを抱く悲痛な声が。
誰からも愛されるなんて望んでいなかったのにと。泣きたくとも泣けない、彼女の姿が。
「……でも、その加護が人のためになるとは、限らない」
呟いたそれに、エルドの目が細まる。その瞳に覗くのは、諦め。
「しかし、彼らはそれに気付かない。だからこそ人のために、人として止める存在が必要なんだ」
だから、花嫁は必要なのだと。それは……言い換えれば犠牲だと。
人々にとって名誉と言われているはずの婚姻が、そう捉えられている事に言葉を失う。
いや、喜ばしいことは変わらない。精霊と同じ存在となり、そうして後世を見守り続けるのだ。言い方が変わるだけで、すべきことは何も違わない。
だが、その重みは大きく違う。祝福ではなく目的を伴っての婚姻。ならば、それこそ……妹には務まらない。
『花嫁』として学ぶべき内容どころか、同世代の子どもが知っていなければならないことだって。今までの日々が変わらぬと疑いもしていないメリアには無理だ。
愛玩か、協力か。迎えようとしている精霊がどんな意図で彼女を求めるのか、それこそ精霊本人でしか分からない。
脳裏によぎるのは二つの泣き顔。だが、そこに込めた意味は大きく異なるもの。
メリアはひどいことをされたと。ララーシュは求めていなかったのにと。
同じ精霊に加護されているはずなのに、片や授かって当然だといい、片や嘆き苦しむ。
加護は精霊からの授かり物だ。誰もが授かり、なにも頂けない者はいない。
それがこの世界の普通で、あるべき形。……だが。
「……加護は、本当に必要なものなのでしょうか」
目を逸らす。それは、エルドに対して言っていい言葉ではないと理解していたからだ。
精霊にほど近い存在。教会関係者。どちらの立場であっても、それは精霊を否定することと同義だ。
授かりものに疑問を抱くなんて。本来なら、あってはいけないのに。
だが、そもそも加護を与えなければ婚姻を結ぶ理由だってない。
精霊を宥める目的のためだけに嫁ぐのならば、そもそもそんな力を授けなければと、そんなことさえよぎってしまう。
ダガンのように過剰な力を悪用し、それで同じく苦しめられる者もいる。与えられた加護の力に振り回され、望まぬ生き方を強いられる者もいる。
全てがそうでないことは理解している。加護によって人々の生活は支えられ、発展を遂げた。
数十年、数百年先にはディアンも想像できないほどの技術が生まれているだろう。
それも精霊がくださる加護のおかげ。そうだと分かっている。
……分かっている、のに。
「ディアン」
呼ぶ声は柔らかくなく、しかし鋭くもなかった。耳だけで悟ることはできず、されど見上げた瞳から感じ取ったのは強い光だけ。
「始めに人に加護を授けた精霊は誰か知っているか」
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