169.偽装の花嫁
「お兄さん、すごく綺麗だわ!」
微笑みかけるララーシュの声がなければ、今頃この馬車は重苦しい空気で押し潰されていたかもしれない。
準備をしている間にレーヴェン家当主が船へ向かい、残っているのはララーシュとエルドの三人。
ゼニスはあれから姿を見せず、別の方法で乗り込むと聞いたのは先ほどのこと。
準備と言ったって、着ていたフードの代わりにベールを被っただけだ。化粧もなければ、下に着ている物だって変わっていないし、かかった時間は十数秒にも満たない。
女性でズボンは珍しいだろうが、旅装束と言えば誤魔化しきれるだろう。骨格も隠れているので、一見すれば本当に男女の区別はつかない。実際、今までのフードでも女と間違われたぐらいだ。
とはいえ、体格が良くないことに感謝したのは今日だけでありたいところ。
「……変じゃ、ないかな」
「変じゃないわ! とっても似合ってる!」
ベールの端を握りかけ、皺になってはいけないと慌てて外すも気は落ち着かず、尋ねてみても得られるのは複雑な気持ち。
違和感がないのはよかったが、綺麗なのも似合っているのも、男としてやはり悲しいところ。
そもそも、顔を見られないための変装に似合うも似合わないもあるのだろうか。
「ね、エルド様」
そんな現実逃避は許さないとでも言うのか。エルドに意見を振られ、なにも掴めない手が強張る。
聞きたいような、聞きたくないような。
これしか手がないとはいえ、エルドには無理強いをする形になってしまった。最後には納得してくれたが、それでも抵抗があるのは違いない。
その理由がディアンに対してではなくとも、気まずさがあるのは間違いなく。
「ああ、そうだな」
同意だけのそれは、生返事にも聞こえる。それは嫌悪ではなく、それを抱かないために無関心でいようとしているのだろう。
その努力を察したからこそ、必要以上に傷つくことはなく。それでも居心地の悪さに俯けば、握り締めていた手に触れられ顔を見てしまう。
やはり複雑そうな顔だ。眉は狭まり、口は苦笑を浮かべ。だが、ディアンを見つめる瞳はいつも以上に優しいもの。
「……よく、似合っている」
その言葉は、本心だろう。彼は嘘は吐かないし、お世辞だってきっと言わない。
ララーシュと同じことを言われたのに、込み上げるのは戸惑いではなく熱だ。まるで血液が沸騰したかのように轟々と巡り、顔中が熱くなる。
「あ……ありがとう、ございます」
咄嗟に横を向かなければ、耳まで赤くなったのを見られてしまっただろう。
それでもまだ熱は引かず、ベールの端を更に前へずらす。顔の半分を隠してもまだ足りず、熱は包み込む布の中でわだかまる。
どれだけディアンが隠そうとしても手は触れ合ったまま、少し上から撫でられるだけで跳ねた肩までは誤魔化しようがなく。
「船員と話をつけました。皆ララーシュの恩人であれば、協力は惜しまないと」
そんなことに必死になっていたせいで、ララーシュの父親が戻ってきたことに気付くのが遅れてしまった。
事情の説明と、危険性への承諾。雇い主からの命令という面もあるだろうが、本人たちも納得したならあとは実行に移すだけ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。そして、ありがとうございます」
「我々にできるのはこの程度のこと。娘の恩人の役に立つのであれば、これ以上のことはありません」
見つめ返す茶色の強い光が細まったかと思えば、お似合いですと続けられた言葉にディアンも苦笑するしかなく。僅かに緊張が薄まっても、四肢の動きはぎこちない。
「ララーシュ、お前は危ないからここで待っていなさい」
「いえ、私も参ります!」
ただの見送りならそれでも構わない。だが、今は非常事態だ。
間違いなく兵士とは一悶着あるし、その結果無事で済むとは限らない。なんらかの罰則で連行される可能性も考えられる。
そんな危険な場所へ連れて行けるはずもないのに、少女はそれでもと父親を見上げる。
「ララーシュ」
緑が煌めき、光が強まる。そこに僅かな魔力の気配を感じ、背筋に走ったのは悪寒か、緊張か。
父に強請るその光景に妹の幻覚を重ねてしまい、どう説得すればいいかと悩む間もなく、彼女の名が呼ばれる。
脳裏に浮かべていたのとは全く違う。強く、厳しく。まるで言い聞かせるように。
「彼らは無事に送り届ける。……いいね、ララーシュ」
口調こそ柔らかい。だが、それは間違いなく親が子に言い聞かせるものだ。そうしてはいけないと示し、我慢させようとする言葉。
そうやって叱る父親の姿も。言われてハッとし、俯くララーシュの姿も。思い出した記憶と重なるところはなにもなく、本当に息を呑んだのは誰だったのか。
きっとこれがメリアなら。そして、ヴァンだったなら……。
「……はい、お父様」
「いい子だ。……では、参りましょう」
娘を頼むと従者に言いつけ、扉を離れた彼に続こうとしたはずが、繋がれたままの手に引き止められて動けぬまま。
「俺が扉を開けるまで待っていろ。ここを出たら俯いて目を合わせないように。声も出さず、俺から決して離れるな」
いいなと言い聞かせる言葉は親子のものよりもっと強く、真剣なもの。だから頷くしかできず、エルドが扉を下りても留まったまま。
「あのっ!」
反対の扉に回り込むまでほんの数秒。その刹那にかけられた声に、扉が開いても動けず、動かず。
ディアンを貫く緑。だが、そこに宿る光に嫌な気配はなく。ただ、彼女の意思だけが強く、痛く。
「……本当に、ありがとう。どうか精霊の加護がありますように」
別れの言葉に、同じように返そうとして止まる。加護に苦しむ彼女に、同じ文言を返すのはあまりに酷だろう。
彼女は十分すぎるほどに加護を賜っている。だから、かけるべき言葉はそれではなく。
「……うん。君もどうか元気で、ララーシュ。きっといい|淑女≪レディ≫になれるよ」
くしゃりと、緊張した顔が笑顔に歪む。そうなれればいいと声なき返事に笑い返してからベールを正す。
誰からも顔が見えないことを確認してから改めて前を向き、差しだされたエルドの手を取る。強張る指を包まれ、肩を抱かれれば後ろを振り返ることはできない。
扉が閉まる前。最後に焼きつけた緑は、もう妹と重なることはなかった。
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