165.レーヴェン家当主
……と、言ったものの。やはり先に着替えた方がよかったのではと、後悔したのはすぐ後のことだった。
「本当にありがとうございます! あなたがたは娘の恩人です!」
感謝してもしきれないと、両手を握られブンブンと上下に振られて困惑しない人間は少ないだろう。実際、ディアンも悪い気はしないが少々複雑なところだった。
ふわふわ半熟のオムレツと塩気がバッチリ効いたベーコン。そして、みずみずしいサラダという豪華な朝食に舌を打つまでは問題なかったはずだ。
エルドがすすめたパンはほんのりと温かく、バターとの相性も抜群。
初めて飲んだコーヒーも思っていたより美味しく……とはいえ頻繁に飲みたいかと言えばそうでもなく。
そんな新鮮さも味わい、腹の虫が落ち着いたところで、ようやく本題に入りかけたところで部屋がノックされ……そうして、今に至ると言うことだ。
家に戻ったと思っていたが、どうやら目覚めるまで同じ宿に滞在していたらしい。
いや、彼らの所有なので滞在していること自体はなにもおかしくはないが、だとしてもディアンが目覚めてから来るまでも速度があまりにも早すぎる。エルドが伝えたのでなければ従業員か。
と言うわけで、ディアンは一人だけ寝間着姿のまま。過剰な評価を得て戸惑っているというわけだ。
「い、いえ、僕はなにも。実際に助けたのは……」
「あなたが私たちを庇ってくださったからこそ、娘は無事に帰ってきたのです! 本当になんとお礼を申し上げればよいのか!」
訂正したいが、聞く耳持たずとはこのことか。
確かに障壁を張ったのはディアンだが、エルドがいなければそもそも助けるどころか纏めて連れ去られていたし、もっと厳密に言うならここまで感謝されることもしていない。
「僕の方こそ彼女に……」
「いやはや、さすがあのヴァン様のご子息! 素晴らしい反射神経でした! 私など襲われるまであの男には気付かず」
僅かな強張りも、上下に振られる腕の力で有耶無耶にされる。ララーシュから聞いたのだろう。仕方のないことだ。そもそも口止めをしていなかったし、する理由もあの時はなかった。
英雄の息子としてなら、余計に褒められる通りはない。ディアンにはあれぐらいしかできなかったのだ。
本当に……感謝されるべきは、視線の先。戸惑うディアンを見守る彼で。
「お父様っ、彼の腕を取ってしまうおつもりですか!」
「おお、申し訳ない! 感謝のあまり、つい」
見かねたエルドよりも先に助けたのは、同じくこの光景を見ていたララーシュだ。
船で会った時よりも顔色がいいのに安心し、それから目線を合わせるために膝を折る。
「ごめんなさい、お父様ったらいつもこうで……お身体の方は、もう大丈夫?」
彼の父親にも聞かれたが、ニュアンスが違うのは服が寝間着のままだからだろうか。いや、実際に苦しんでいた姿を見ていたからだ……と、そう思いたい。
「……もう大丈夫だよ。ララーシュは、顔色が良くなったね」
「えぇ、私ももう大丈夫。昨日一日目覚めなかったと聞いて、心配していたの」
よかったと、吐いた息に含まれるのは純粋な安心感だ。
繰り返すが、ディアンの体感では昨日でも、彼女たちにとっては二日前。そうでなくても、一日気を失ったままであれば誰でも心配しただろう。
逆の立場だったなら間違いなく。……ならば、それを横で見守り続けていた彼も、きっと同じ。
「ここのベッドがあまりにも寝心地がよくて、寝過ごしてしまったみたいだ」
少しでも安心できるようにと捻りだした冗談も、少し味気ない。
だが、そう言える程度には元気だとは伝わったようで、クスクスと笑う顔は……やはり、妹に似ていて少し違う。
……彼女は、変わらず元気にしているだろうか。
『精霊の花嫁』としての教養を身に付けるべきだと。そうでなくとも、最低限学ぶべきことがあるはずだと、あの家で注意していたのはディアンだけだ。
むしろ、口うるさい兄がいなくなってよかったと思っているか。あるいは、そんな感情すら抱かないほどに無関心なのか。
ああ、そうだ。きっとなにも変わっていないのだろう。妹も、父も、あの地で関わった者全て。
「お兄さん? やっぱり調子が悪いの?」
緑の瞳に見上げられ、よく似ているのに面影が重ならないのは……こうしてメリアから心配された記憶がないからだろう。
ひどいとなじり、怒り、泣くばかりで。ああ、しかしそれはメリアに限らず父もそうだ。
例外はサリアナだけだったが……付随して思い返すのは、やはりどれも良い記憶ではなく。
「ううん、なんでもないよ。……改めて、こんなに良い部屋をお貸しいただき、ありがとうございます」
関係ないところで深く考え込むのは自分の悪い癖だと、立ち上がり改めて礼を言えば満面の笑みがディアンを見上げ、穏やかな微笑が上から注がれる。
どうやら、ララーシュの笑い方は父親ではなく母親に似たらしい。
「気に入っていただけてなにより……おおそうだ、もしよろしければ夕食をご馳走させてもらえませんか」
これほどもある海老を丸焼きにするのだと、示された大きさはディアンの思っていた倍以上。朝食を取った後でなければ、また腹が疼いていただろう。
魅力的な誘いだ。なにもなければ、素直に招待にあずかったかもしれない。
「いや」
……だが、そうできないのは、エルドの制止がなくとも理解していること。
「申し訳ないが、女王陛下より任務を仰せつかっている。準備ができ次第街を発つつもりだ」
本来なら、二日前にはもう着いているはずだった。
ここまで伸びたことが結果的に良かったのだとしても……それで、猶予が伸びることはないのだ。
それはエルドを信じていても、その別れに覚悟を決めた今でも、変わることはない唯一。
「それは……ううむ……無理にお止めするわけにはいきませんな……」
引き止められることを想定したが、案外すんなりと納得されたのに拍子抜けするのは理不尽であろうか。
表情からして、本当に残念そうであるのは疑っていないが……多分、先ほどの勢いのせいか。
「では、せめて港まで送らせていただけませんか」
「そこまでしていただく訳には……」
「私たちのできるせめてもの礼です。今の時間は特に混みますからな、徒歩よりも馬車で遠回りした方が早くつけますので」
早速手配をすると部屋から出て行った男を止める間はなく、盗み見たエルドの顔は少しあきらめ顔。
急いでいるのは事実だと肩をすくめられれば、ディアンもごねる理由を失う。
「そういうことでしたら……念のためにお持ちしてよかったですわ」
そんな夫の姿を微笑ましく見ていた奥方が、付き添っていたメイドに合図を送る。受け取り差しだされたそれは、手のひらに少しはみ出る程度の箱。黒塗りの表面に光沢はなく、それだけで高級なものであると予想するには容易い。
「昨日依頼された品になります。ご要望通り、無加工の物をご用意いたしました」
メイドから彼女へ、そうしてエルドへと箱が渡り、肝心の中身はディアンの角度からは見えない。
箱だけならば何かのアクセサリーに思えるが、無加工ということは素材か何かか。
昨日言っていたローブと関係があるのかと予測しても、エルドの反応からではそれが合っているかも判断できない。
「……いい品だ。よほどの目利きがいるようだ」
「恐れ入りますわ」
どうやら期待以上だったらしく、頷く笑みは満足そうだ。ディアンに中身を明かすことなく閉じられた箱は、そのままエルドの懐へ。
「無理を言ってすまなかった。代金は必ず後日……」
「いいえ、どうかお受け取りくださいませ」
「だが、これだけの品をタダというわけには……」
それでも奥方は首を振り、優雅な仕草でもがんと受け入れない姿勢だ。
よほど良いものだったのだろう。そのうえで、相当の高級品……いや、希少品とみられる。
エルドのことだ、必要だからこそ依頼したのだろう。それでも、彼女は笑みを浮かべたまま。
「確かに、それだけ質の良いものは滅多にございません。……ですが」
吊り目の瞳にキツイという印象はなく。足元……否、娘に向けるそれは、とても柔らかく愛おしいもので。
「それらがいくつあったとしても、娘の命には代えられません。そして、この感謝を正しくお伝えすることだって」
だからどうかと、娘を失わずに済んだ母親がエルドに願う。
言葉だけでは到底足らず、それでもこの気持ちを伝えたいのだと。その価値をなにかに喩えることなど、できはしないのだと。
髪と同じ栗色の瞳は強く、歪むことなくエルドを貫きぶれることはない。
僅かな間と、小さな吐息。そこに優しさが含まれていることは、顔を見なくても分かること。
「……では、ありがたく」
父親に向けたのと同じく、諦めた顔。だが、その心中が違うことも……やはり、確かめるまでもなかったのだ。
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