162.真実はまだ遠く
「――いや」
短い否定。小さく首を振る動作。それでも、薄紫はディアンから逸れることはない。
揺らぎが大きくなる。引きこむように、拒絶するように。なにかを噛み締め、諦めるように。
「お前は……あの時、考えられる最善を選んでいた」
「いいえ! 妖精に助けを求められた時、僕は誰かを呼ぶべきでした!」
首を振り、強く否定する。少しでも探していれば、あるいはその場で待ってさえいれば、シスターに事情を説明できたはずだ。
トゥメラ隊……否、精霊との間に設けられた愛し子なら、妖精との会話だって可能だった。
戦う術を持たないディアンが向かったところで何の力にもなれなかったし、実際に一緒に捕まってしまったではないか。
最善なんて慰めでもかけられるべき言葉ではないのに、エルドは否定してくれない。
「誰かを待ってから向かっていれば、ララーシュの行き先はわからなかっただろう。それこそ、何人もの子どもたちが誘拐されているとも気付かず、多くの人間を悲しませることになっていた」
「ですがっ……!」
「捕まらずに無事に戻ってくるのが一番だった。だが、そうしていれば他の子どもたちは誘拐されていたし、それを追えたとは思えない。……お前も連れ去られ、その跡を追えたからこそ助けることができた。お前はそう思わなくとも、結果的に見れば……これが、最善だった」
無茶苦茶だ。攫われてよかったなんて。だが、それは慰めではなく事実だと、しかめた顔が伝えてくる。
誰よりも認めたくないと、揺れる薄紫が、誰よりもそう訴えている。
望んでいなくても、そうなってしまったのだと。いくつもの結末を考えた上で、一番よかったのだと。
……教会の立場からして助けたくとも、居場所を特定できたかは別問題。それ以前に、実際に救出に向かえたかさえ。
『候補者』が連れ去られたからこそ、全力を注げたところもあるのだ。一つ一つを考えれば最悪なのに、組み上げた結果が一番いいなんて。
確かにララーシュも助かった。他の子どもたちも助かった。ダガンは捕らえられ、他の犯罪者も正しい場所へ送られた。
アンティルダの者が禁忌を犯していることも露見し、この国の裁くべき罪も新たに浮上した。
ディアンが一つでも違えていれば、ここまで明らかになることはなかった。そして、なにかが犠牲になっていただろう。
結果はよかった。結果だけは、よかった。
それでも……免罪符には決して、なりえない。
「……それでも、僕はあなたを不安にさせてしまった」
震えを誤魔化すように、それは伝わらないように。指先に込められた力はどれだけのものだったのか。
「自分の身を守ることもせず、あなたのそばを離れてしまった。……あなたとの約束を破ったのは僕だ」
自分の意思でそうしてしまった。なにが理由であろうと、それでエルドを傷つけてしまった事実は変わらない。
ララーシュも他の子どもたちも関係ない。それだけは、決して譲ってはならない。
「ごめんなさい」
「……違う」
違わないと、否定する動作が込められる力に遮られる。薄紫が逸れ、落ちて、合わなくなってしまう。
「謝るのは俺の方だ」
「エル……っ」
繋がれたままの手が持ち上げられる。導かれた先、エルドの額に押しつけられる力は強く。それ以上に……そうされたこと自体に戸惑い、息を呑む。
それは、その姿は。まるで祈りを捧げ、救いを求めるように。
「お前が別れを惜しまないように。俺を憎むことで悔やまないよう突き放したのも、それを押しつけたのも全部。……離れさせようとしたのは、俺の方だ」
息は、どちらから吐かれたものなのか。ディアンのそれは音にならなかっただけで、実際はなにを伝えたかったのか。
それは、それはまるで、彼も別れを惜しんでいるようではないか。
憎まれることで苦しまずにすむと。だから悲しくないのだと。そう言い訳をするための……あまりにも、ディアンにとって都合のいい考えが、頭をよぎってしまう。
彼も、彼も同じ気持ちだったと、そう考えてしまいそうになる。
「エル、ド、」
「……すまない、ディアン」
光は合わさらず、手は額に押しつけられたまま。口走る謝罪はディアンが感じる以上に重く、強く。
そして、それは懇願であると理解する。してしまう。
「俺は、まだお前に全てを明かせない」
拒絶ではない。今までのように誤魔化すのでもない。
そうしたくてもできないのだと、絞り出すような声をディアンは知らない。
轟々と巡る血潮が鼓膜を掠めてやかましい。それなのに彼の言葉が紛れることは、決して。
「聡いお前のことだ。俺が思っている以上に気付いたこともあるだろう。お前がその答えを待っていることも、理解した上で問わずにいることもわかっている。……それでも、俺はまだ、お前に全てを謝ることができない」
気付いていることに、気付いている。エルドが誤魔化し続けていたことも、それが自分にどんな影響を及ぼしていたかも。
もはや答えと変わらず、それでも目を背けようとしたことも。エルドは、気付いていた。
気付いた上で、ディアンと同じ選択を取った。明かしてしまえば終わってしまうから。確かめてしまえば、もう元には戻れないから。
恐れていたのは、そう。ディアンだけでは、なく。
「俺は……臆病者だ。自分一人では都合のいいことばかり説明してしまう」
「そんな、こと」
「いいや。お前に嫌われることを恐れ、真実を誤魔化し、理解されると押しつけ、納得すると期待して許しを請う。……お前の目の前にいるのは、そんな卑怯者なんだ」
震えている。それはディアンではなく、握る手が。温かいままの指が、凍えるように。
包み込みたい指は、未だ彼の額に押しつけられたまま。動くことも、否定することも許されず。
「ディアン」
手は剥がれ、されど目は合わず。見つめる薄紫は、シーツに沈んだまま。
「お前は知る権利がある。誰にも誤魔化されず、偽られず、お前自身が判断するための全てを。……そして、それは俺だけでは叶えることができない」
だからと、続く声を遮る指の力は弱く。絡む薄紫は、それ以上に弱々しく。
明かしたいこともあった。聞きたいことも、確かめたいことだって。
妹とララーシュの加護。自分自身に与えられた加護と、それを与えた精霊。どうやってあの時助けに来ることができたのか。
そして……何度も感じた、あの鈍い感触。それが、どう彼女たちと関係しているのか。
もう目を背けることはできない。逃げ続けることはできず、知らなければならないのだと。
だけど、それが今ではないのなら。そうだと、彼が言うのならば。
「エルド」
唇に浮かぶ笑みは演技ではない。不安にならなくていいのだと、安心させるためのそれは……いつも、エルドがディアンにしてくれたこと。
「あなたは僕に約束してくれました。聖国につけば、全てを明かすと」
ああ、そうだ。最初から焦る必要なんてなかった。戸惑うことも、疑うことも、なにも。
答えなら、最初から与えられていたではないか。
あの日。ディアンがエルドと出会ったすぐ。まだ、こうなるとは知らなかったあの日に。あの時に。
「そして、僕はそれを信じると。その誓約がある限り、僕は……あなたを信じます」
「ディア、」
「信じると、決めたんです」
その約束がある限り、自分は彼のそばにいる。彼のそばにいられる。
もうその猶予が残されていないと知っていても。もう二度と、こうして会うことができないと分かっていても。
それでも、その日までは。その時が来るまでは、まだ。
「だから。……だか、ら、」
声が震えてしまう。なにも揺らぐことはないのに、怯えることなどないのに。悲しむことだって、ないはずなのに。
まだその時は来ていないのに。まだ……一緒に、いられるのに。
「その時までは、あなたを……っ……」
世界が滲んでしまう。薄紫がぼやけて、とけて、見えなくて。どんな顔をしているのか、わからない。
それでも、言わなければならない。その時まで、その瞬間までは、どうか、どうか。
「『エルド』と、呼んでも……いいですか……?」
あなたのそばに、いたいのだと。
「――ああ」
それは、息だったのか。出すつもりのない、呟きだったのか。
まるで押し出されるように響いた音は鼓膜を震わせ、染みこんでいく。
「ああ、ああ……馬鹿だな、お前」
くつりと、喉の奥で笑う音。聞き慣れたその音に馴染まぬ震えを感じて。目元を拭われ、確かめた顔はくしゃりと歪んだもの。
笑みとも、泣き顔ともつかないそれは……それでも、温かくて、優しくて。愛おしくて。
「いいに、決まってるだろ」
見えないように、見ないように。抱き寄せられた身体の強張りなど、一瞬だけ。
回した腕で背中にしがみ付き、泣いている顔が見えないように強く、強く。剥がれないように、離れないように。強く。
好きだ。好きだ。好き、なのだ。
この人を――愛している。
声に出せずとも。言葉にできずともきっと伝わってしまうだろうと、そう分かっていても腕の力を弱めることはできなくて。
抱きしめ返す力のあまりの強さに、訳も分からず泣き叫びたくなる衝動は、喉の奥で鈍く落ちていった。
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