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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第五章 一ヶ月後

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160.目覚めと説明

 真っ先に意識したのは、全身に襲いかかる倦怠感だった。

 まるで筋肉が鉛に変わってしまったかのように重く、唯一軽いのは目蓋だけ。

 それも、何度か瞬きしなければ張り付いてまともに開けられない有様だったが……。

 まず目に入ったのは藍色の天井……いや、本来は白である壁が、月明かりに照らされてそう見えているのだ。

 頬を撫でる風は心地良く、微かに潮の香りを運んでくる。

 窓が開いているのだ。夜中なのに不用心だと考えたのは、まだ状況を理解できていないせい。

 起き上がるには身体が怠く、寝そべったまま周囲を見渡す。

 左側には小さなランプと、もう一つのベッド。いくつも置かれたクッションと、見るからにふかふかとしたシーツ。この時点で、ここが普段泊まっている宿と違うことに気付く。

 遠目に見えているのは植物の類か。調度品の数も、そもそもこの部屋の広さからして、なにもかもが違いすぎる。

 教会の一室……にしても豪華すぎる。そもそも、自分たちはいつ宿に辿り着いたのか。

 街について、それから教会へ向かって……そうだ、宿なんてとらなかったじゃないか。

 起き上がろうとして、腕の自由がきかずに倒れたまま。それは力が入らなかったのではなく、物理的に封じられていたからだ。

 正面から右へ。動かなかった腕よりも先に見えたのは……隣に座り、手を握り締め。祈るように目を伏せているエルドの姿。

 声をかけるよりも先にゼニスが吠え、音が静寂を裂く。

 ディアンが起きたことに気付いたのだろう。足元から左側へ、そうして空いていた手に顔を擦りつけてくる白は、やはり薄暗くともよく見える。


「……ディアン?」


 しばらくその頭を撫でていれば、右手を掴む手に圧がくわわる。

 導かれて見た先、己を見つめる光に息を呑んだのは、その不安げな表情のせいだったのか。

 ……それとも、その薄紫に人ならざる片鱗を見てしまったせいなのか。


「……エル、ド」

「具合はどうだ?」


 身体の底が震えるような感覚も、一つ瞬きを挟めば嘘のようにかき消える。見上げた瞳にあるのは、いつもと同じ温かな……だけど、少し不安に揺れる色。

 ゆっくりと思い出していく。妖精たちに助けを請われたこと。一緒に連れ去られてしまったこと。

 襲われて、逃げられなくて、でも彼が助けに来てくれたことも。

 ……そして、気を失う前の一連も。


「大丈夫、です。あの、僕はあれからどうなって……ララーシュは? 他の子どもたちは、」

「落ち着け、大丈夫だから」


 起き上がろうとした身体を制され、浮かしかけた背が再び沈む。全身を包み込む柔らかさは、こんな時でなければ感動の一つも覚えただろう。

 今はただ起きにくく、身体を支えるのには不向きという印象しか抱かない。


「どこまで覚えている」

「……あの男が向かってくるのが見えて、咄嗟に障壁を張ったところまでは。そこからは、どうなったのか……」


 思い出そうとしても、そもそもを認識できていなかったのだ。

 煙幕のようなものが焚かれて、掴まれて。気持ち悪さに翻弄されている間に、全てが終わっていた。

 間で強い光のようなものを見たのは幻覚だったのか。その答えは今から与えられるのだろう。

 深い溜め息は目の前から。握られたままの手に少しだけ力がくわわって、すぐにほどかれる。


「……まず、ここはレーヴェン家が所有している宿の一室だ。教会は今回の対応に追われ、身動きが取れないうえに空き部屋もない。故に、ご厚意で貸してもらっている」


 ご厚意にしては高級すぎる場所だが、警備の関係もあるのだろう。

 教会が誘拐されていた子どもたちの避難所として使われているのなら、部屋が空いていないのも仕方のないこと。

 レーヴェン家の財力がどれほど高いかわからないが、好待遇であることは間違いなく。

 これも教会の権力か。あるいは、レーヴェン家にとっては大したことではないのか。


「……あれから、どれくらい経ちましたか」

「あと数時間で丸一日ってところだな。……むしろこの程度で済んでよかった」


 手が解放されたかと思えば、すぐ横に置いてあった桶から布が引き上げられていく。

 固く絞られたそれを頬に当てられれば、触れたところから心地良い温度が広がって、小さく息を吐いたのは無意識から。

 拭う手つきも、その様子を見つめる瞳も、やはり優しい。


「加護封じの枷に、加減もされていない負荷魔法。回復しきってないところで障壁も張った上に、至近距離で門が展開されたんだ。あれで倒れないほうが無理がある」


 布が桶に戻されれば、手は再びディアンの指へ。流れ込む温かさは、体温だけではなく魔力……つまり『お裾分け』されているのもあるのだろう。

 サラリと言われたが、彼は今、門と言ったはずだ。

 この場合の門とは……一つしか考えられない。


「門、って」

「……お前の張った障壁でララーシュを連れていくのが困難と判断したあの男は、お前に標的を変えて精霊門を展開させた」


 正しく聞いても理解ができない。あり得ないはずだ、そんなこと。

 ただの人間では近づくだけでも影響を受け、実際にディアンは丸一日寝込むことになった。それを展開させるなんて、それこそ不可能のはずだ。

 いくら誘拐のプロであろうと、根本は人間。可能であるとすれば、それこそ教会の人間か……あるいは、精霊か。


「そんな、こと」

「普通の人間にはできない。……だが、実際に門は展開され、あと一歩遅ければお前は連れ去られていた」


 淡々と述べられる内容に、滲む苦味はエルド自身の後悔か。結果として助かったが、危険だったことには変わりない。

 震えるのは声でも指でもなく、その瞳だ。見つめる薄紫の奥、必死に隠そうとしている、深い場所。


「でも、全員眠っていたのでは?」

「眠っていたし、起きている奴がいれば気付いた。……だが、あの時あの男が見えていたのはお前だけだった」

「どういう……?」


 ……それこそ、あり得るのだろうか。

 多方向に注意を払っていたとはいえ、弱っているディアンよりも気付く点は多かったはずだ。

 それなのに、ディアンに見えていて、エルドには見えていなかったなんて。とても信じられる話ではない。


「ゼニスが手に入れた切れ端を調べたところ、あの男が着ていたローブに特殊な素材が使われていることがわかった。一般人にも見えないし、俺らにも……正確に言えば、見えにくい素材がな」

「そんな物が……? でも……」

「ああ、今のお前だからこそ見えていたんだ。……より詳しく調べるため、先に聖国に届けてあるが間違いないだろう」


 嘘ではないだろう。それでも、にわかには信じがたい。

 普通の人間にも見えて、エルドやゼニスにも見えにくい。だが、ディアンだけに見える素材。……そんなものが、この世界に存在するのだろうか。

 魔力の関係だけなら、それこそエルドだって見えていいはずだ。可能性として考えられるのは、『候補者』にだけ通用するなにか。

 ……それこそ、どんなものか想像できない。


「一体なにで作られた物なんですか」

「……悪い、ディアン。俺の口からは答えられない」


 明確な拒絶に身が強張る。その口調の強さに、機密に触れることなのかと身構えれば、緩く振られる首がそうではないと伝えてくる。

 覗く光の強さに息を呑む。葛藤ではない。怒り、嫌悪、苦痛。口にすることすらおぞましいと、絞り出した息は最低限でも伝えようと覚悟したもの。


「あれを作った者が判明すれば、そいつは間違いなく精霊自身の手によって処されるだろう」


 そのニュアンスが、宣言を破った時と異なることは、その瞳を見ればわかる。

 精霊が己の手で罰を裁くなど、過去にも聞いたことはない。どれだけの大罪を犯そうと、間には必ず教会が介入し、代行者としてその者の罪を裁く。

 だというのに、エルド自身がそう断言するのだ。その未来は避けられないのだろう。


「あれは禁忌だ。……絶対に、存在してはならない」


 そして、絶対に許すことはないと。声なく呟いた瞳が伏せられ、数秒経って再び開く。抑え込んだ怒りは、まだその奥底に残ったまま。


「ともかく、門に関してもローブに関しても、大きな力が関与していることは間違いない。男は逃してしまったが、判明まで時間はかからないだろう」


 教会がディアンに手を割けないのは、その件もあるのだろう。今、全力で男の行き先を追っているに違いない。

 言ってしまえば、ディアンにはエルドがついている。身の安全を守るだけなら、他に人は必要ない。

 対して子どもたちは、身元が分かるまで保護しておく必要がある。『候補者』がどれだけ重要だったとしても、優先させるべきを間違えてはならない。

 そう、まだディアンは彼といる。エルドと、一緒にいる。

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