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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第五章 一ヶ月後

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154.インビエルノ

 その声は鼓膜を貫き、そうしてディアンの喉を締め付けた。風のような音が絞り出されて、僅かに開いたままの唇が震える。

 今まで怒られた回数は、それこそ数え切れないほどある。だが、それは己の父からに限ってのこと。

 他人……否、エルドに怒られたことはない。

 呆れられたことも、少し馬鹿にされたこともあった。

 でも、一度だって。ただの一度だって、エルドは怒らなかった。

 ディアンがしてはならぬと理解し、それを守っていたから。怒る理由がなかったから。どんな失敗をしても、叱られることはなかった。

 だからこそ、身体が震える。否、震えているのは肩を掴む手だ。ディアンを見下ろす、その瞳だ。

 寄せられた眉も、怒りだけではない光も、全て……全て、知らないもので。


「どれだけ心配したとっ……!」


 苦しそうに絞り出される声。耐えるように吐き出された息は深く、強く。抱き寄せられ、締められ、背中に触れる手はあまりにも……あまりにも、温かくて。

 息ができない。喉も唇も震え、声が音にならない。

 心配させているなんて、分かったつもりだった。怒られるなんて、理解していたつもりだった。

 助からないなんて、達観していたつもりだった。でも、それは間違いだった。間違いだと、こうして抱きしめられるまで気付くこともできなかった!

 指が震える。それはエルドの服を掴んでもおさまらず、やっと吐き出せた息ごと揺さぶるように。

 視界が滲む。息が苦しいからじゃない。頭が痛いからでもない。それよりも、もっとずっと苦しくて、痛い衝動に突き上げられるまま。


「っぁ……ぁ、」


 謝罪が音にならない。なってくれない。しゃっくりが上がって、引き攣って、喋れなくて。

 それでも伝えなければならないと、出したかった言葉は呻きに変わってしまう。

 不安にさせてしまった。怖がらせてしまった。自分の愚かな行動で、彼を――こんなにも、傷つけてしまった。

 こんな形で別れるなんて望んでいなかったのに。そうだと不安にさせては、いけなかったのに!


「ぁ……ああぁあ……!」


 ごめん。ごめんなさい。エルド。……エルド。

 一つも形にできなくて、背中に回した腕から力が抜けない。

 離れたくなかった。離れたくない。

 いつかそうなるとしたって、それが避けられないとしても……こんな形でなんて、望んでいなかったのに!

 強く。より強く抱きしめられ、嗚咽がくぐもる。

 どれだけそうしていたか、やがて背中を叩かれ……そっと解放されてから、涙を拭う指は見つめる瞳と同じく優しいもの。


「本当に……無事でよかった」


 心からの安堵が、肩を掴む手から伝わる。それだけでまた込み上げてくる涙を、今度は自身の腕で拭う。

 そう、彼が来た。来てくれた。だから、もう大丈夫だ。

 泣く必要はない。泣いている場合ではない。

 それでも鼻は啜ってしまうし、視界は涙で揺れている。


「ど、やって、ここに」


 安心感が勝っていたが、ここは海の上だ。追跡できたとは思えないし、妖精たちが彼らを案内した可能性も低い。

 手がかりになるようなものは、なにもなかったはずだ。いくらエルドが優れていても、ここまでこられられる手立てなどなかったはず。

 ……浮かぶ、唯一の方法を除けばだが。


「説明は後だ。とにかく陸に戻るぞ」


 立てるかと、問いかけ起こそうとする動作に首を振る。足に力は入りにくいが、否定したのはそうではない。


「待ってください。あの子も一緒に……それに、他の子どもたちも置いていくわけには」


 ディアン一人だけなら、同じ方法で戻れるかもしれない。

 無傷というわけにはいかないし、ある程度の犠牲を払うにしても、ここから出るだけならば。

『中立者』として『候補者』を確保するために、門を使うのであれば。

 だが、助けなければならない存在は他にもいる。

 たとえそれが最善ではないとしても、わかっていて簡単に見捨てることはできない。

 甘いと言われるだろうか。あるいは、こうなってまで懲りていないと咎められるだろうか。

 それでも。全員が厳しくとも、せめて彼女だけは。

 今救えるとわかっている人間だけでも助けられないかと、見上げた顔の眉が寄る。


「他にもいるのか。……厄介だな」


 それはディアンに対してではなく、犠牲者が多いことに対してであることに気付くのと、ゼニスの声が聞こえたのに差はない。

 控えめでも十分過ぎる呼びかけ。身動ぐ少女の姿に駆け寄ろうとし、それよりも先に肩を押さえられる。

 素肌に触れる温もりに、エルドが着ていたローブをかけられたのだと気付き……自分の状況を今になって思い返す。

 異様だったあの目も、なにかに取り付かれたかのような形相も。そうして、なにをされようとしたかも。

 震えよりも先に、肩に手を置かれる。絡む視線、柔らかな薄紫は大丈夫だと伝えるように細まり、それからようやく少女の元へ。


「教会の者だ。……大丈夫か?」

「ん……大、丈夫。意識は、ありましたから……」


 彼女も見せられたメダルの意味は理解できるのだろう。抱き起こされた顔色は、思っていたよりは悪くない。

 倒れていたのは負荷魔法のせいだ。ディアンほど影響は受けていないだろうが、それでも未成年者にかけていいものではない。


「お兄さんは?」

「大丈夫だ、怪我はない。……お嬢ちゃんは、愛し子だな?」


 触るぞと、断りを入れてからまずは首枷が外され、その視線が手首に落ちる前に確認される。

 それだけで、普段接している教会の人間ではないと気付いたのだろう。不安げな表情が、瞬きの後に引き締まる。


「ララーシュ・レーヴェンと申します。……あの、あなたが『中立者』様?」

「そう言われているが、エルドと呼んでくれ」

「じゃあ……そちらが、インビエルノ様ですか?」


 固まったのはエルドの苦笑だけではない。その会話を見ていたディアンも、少女の横にいた彼も、同じく。

 そのうち、血の気が引いたのは一人だけ。


「なぜ?」

「っぼ、くが、言ったんです」


 視線は三つ。向けられる青から目を逸らしてしまったのは……もはや、言い訳はできないだろう。


「妖精たちに助けを呼んでもらおうとして、あなたの名では伝わらず……」

「あー……」


 予想していたものではない間延びした声は、普段から聞いているものだ。どう説明したものかと。そう悩み、間を取り持つためのもの。

 今回のそれは……納得と困惑と、それから多少の諦めも。

 その反応こそがディアンの憶測を肯定し、そして少女に正体をばらしてしまったことも示していた。

 たとえそれが非常事態でも、事実は変わらない。


「申し訳――」

「ララーシュ、見えていた妖精は普段と違う服を着ていただろう?」

「えっ……は、はい。見慣れない子ばかりでした」


 謝罪が問いに遮られるも、その相手はディアンではなく少女だ。この流れで聞かれると思っていなかったのか、驚いたのは一瞬だけ。


「なら仕方ない。ここの妖精は俺の名前を知らないし、知ったところで嫌っているから手は貸してくれなかっただろう」


 溜め息混じりのそれは、ディアンを慰めるためではなく事実として。

 どちらにせよ意味はなかったと伝えられても、やらかしてしまったことは変わらない。


「見えていたのはララーシュだけで、お前は見えていなかったんだろう? 状況から考えて、妖精たちに助けを求めたのは間違っていない。……そうだろ、ゼニス」


 知らぬところで名を明かされた本人……否、本獣がディアンに近づく。

 見上げる青に含まれるのは怒りや呆れではなく、しかし安堵だけでもない。


「……申し訳――うっ」


 なんとも言えぬそれにもう一度謝罪を呟けば、軽く腕を噛まれて呻く。

 本気で噛み付こうとしているのでないのは、その顔を見れば明らか。


「……一人で、行動して……ごめんなさい……?」


 そうではないと咎められ、本気で考えて。もうそれ以外にはないと謝り直せば、鼻でわらう息が想像以上に突き刺さる。

 そう、心配させたのはエルドだけではなく彼も同じ。謝るべきは、彼に対しても。

 痛みはないまま解放され、突きつけられた額を撫でる。

 ……本来ならこうして触ることのほうが怒られそうなのにと、そう考えてしまうのは現実逃避の他ならない。


「さて、あとの話は逃げてからだな。……ララーシュ、他の子どもは何人いたかわかるか?」

「……少なくとも十人はいたと思います。全員同じ場所にいるかと」


 どこにいるかはわからないけれどと、首を振る少女に十分だと返される声は心強い。

 とはいえ、いくらエルドでもあの人数を相手にするのは難しい。

 相手は誘拐のプロで、人質はあまりに多い。彼らだけでも厄介なのに、そのうえあの男までいる。


「まずは見つけるところからだな」

「エルド、おそらく子どもたちのいる部屋はダガンが見張っています」


 彼が命令を素直に聞いていればだが……自分の枷が外れるまでは、いくらあの男でも反抗することはないだろう。


「ダガン……あぁ、ブラキオラスの。搬送途中ってわけじゃなさそうだな」


 ディアンにとっては忘れられない出来事だったが、エルドの中ではその程度。思い出し方からして、最初からあまり印象に残っていなかったと考えられる。

 そんな相手でも、今の状況では脅威……であるはずだ。


「事情はわかりませんが、商人と手を組んでいるようです。……アンティルダに着けば解放してやると」

「……なるほどな。となると、船ごと乗っ取った方が早いな」


 国の名を出せば、なにか思い当たることがあったらしい。

 納得し、顎を擦りながら呟く言葉は、とても軽い調子で言われるものではない。


「ですが、敵の数もわかりません。いくらあなたでも、全員を相手にするのは……」

「子どもたちの安全さえ確保できりゃ方法はいくらでもある。元より、相手に気付かれないで全員を助ける方こそ無理がある」


 そもそも手遅れだと指差した床には、気絶している男たちの姿。

 騒ぎに気付くか、あるいは様子を見に来られればその時点で戦闘は避けられない。

 ならば、戦うにしても子どもたちを確保するまでは最小限で。……というのが理想だろうが、いくらなんでも無茶だ。


「ですが……ゼニスと二人がかりでも……」

「おいおい、俺もこいつも戦ったら誰がガキどもを守るってんだ。言っとくがお前もそっち側だぞ」


 元より戦力外だと突かれ、痛みではなく疑問符が浮かぶ。では、まさか一人で戦うつもりか? それこそ無茶ではないか。

 自分では邪魔にしかならないのは承知している。しかし、だからといって彼だけだなんて……!


「お前は守られる側。守るのはこいつ。で、俺は船を乗っ取る係」

「……えーっと……?」


 ララーシュが首を傾げるのも無理はない。むしろディアンだってわかっていない。


「……他に援軍が?」

「いるなら、そもそも船を乗っ取る必要なんてないだろ。ようするに、戦うのは俺らでなくてもいいってことだ」


 言われている意味がよくわからず、互いに顔を合わせても疑問は晴れない。

 戦うが、それは味方ではなく……となれば、一体誰を指しているのか。

 問いが声にならなかったのは、響く足音のせいだ。

 荒々しいそれは真っ直ぐにこちらへ向かってきている。


「出迎える手間が省けたな。……ゼニス」


 呼ばれたゼニスに、部屋の隅へと誘導される。

 少女を背に庇い、ディアンも彼の後ろに立ったところで……地響きのような足音が、荒々しく開かれる扉によって終わりを告げた。

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