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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第五章 一ヶ月後

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153.安堵と怒り

 一瞬のことだった。ディアンの思考が鈍っていたからでも、気付くのが遅れたからでもない。

 乗り上げる影が消え、重さが失われるのも。そこに違う影が現れたのだって、本当に……本当に、一瞬だったのだ。

 遠くで倒れるような音が聞こえる。だが、そんなものどうでもよかった。

 ぼやける視界。薄暗い景色の中で、確かな光が映る。その影を照らすように。その薄紫を彩るように。

 それは幻覚としか思えなかった。この意識はとうに失われ、今は都合のいい夢を見ているのだと。本当の自分は助からず、逃げられず、誰も助けられないまま倒れてしまったのだと。

 だが、何度瞬いても、どれだけ見つめても。その姿が……彼が、消えることは、なく。

 エルド、と。紡ぐはずだった名が音にならない。

 それは息苦しさも理由ではあっただろう。だが、それは魔術疾患からくるものだけではない。

 空気が張り詰め、震えている。あるはずのない光源は眩しく網膜を貫き、それでも目蓋を伏せることはできない。

 直視してはいけないような。目を逸らしては、ならないような。矛盾する衝動に支配され、力の入らない手足が僅かに震える。

 この感覚をディアンは覚えている。あの夜、仮の洗礼を受けたあの場所で。その鱗片を、確かに今感じているのだ。

 違うのは、その瞳がディアンではなく、床にいる男に向けられていることだろう。

 這いつくばっているのはエルドが殴り飛ばしたからだ。状況が理解できずに呻く男を見下ろす薄紫に温度はない。

 直接向けられていないディアンでさえ息が止まりそうになる。こんな、こんな恐ろしい光を、今まで一度も見たことはない。

 なんだ、誰だと。喚く声が途中で途切れる。歩いたと思った瞬間には、エルドは男に跨がっていた。

 一度、二度。鈍い打撲音は止まらない。短い悲鳴がその度に途切れ、込み上げ、繰り返しねじ伏せられる。


「っ……える、ど……っ……」


 懇願さえも拳で振り払う姿に、突き上げる衝動のまま名を叫ぶ。

 このままでは殺してしまう。そう確信できるほど冷静さを失っている彼を、止めなければならないと。


「だ、……めだ……エルド……!」


 手を伸ばし、這いずり、それでも音は止まらない。もう呻き声さえ聞こえないのに、拳は赤に染まっているのに止まらない。

 だめだ。このままでは、本当に……!


「エルドっ……!」


 伸ばした手が、彼の服を掴む。全ての力を使っても止められないと、そう分かっていてもしがみ付こうとして届かなかったそれは……振り上げたところで、ようやく、止まる。

 荒い呼吸は三人分。まだ男に息があることに安堵し、触れた感触が幻でないことに涙が滲みそうになる。

 ここにいる。彼は、エルドは……ここに。ディアンのそばに、いる。


「それ、いじょうは……っ……殺して、しまう……!」


 名前を呼ぶだけでも辛ければ、言葉を伝えようとするのはもっとだ。

 心臓は未だ苦しく、肺はまともに膨らまず。それでも、言わなければならない。彼を、止めなければならない。その衝動だけで、全てを押さえ込む。

 ここで止めなければ、それこそ後悔するとわかっているから。


「――お前は」


 薄紫がディアンを見る。その冷たい温度のまま。その奥に、隠しきれぬ怒りを携えたまま。

 轟々と燃える炎は熱く、それなのに身体の震えが止まらない。

 見てはいけない。直視してはいけない。それでも……目を逸らしては、いけない。


「自分がなにをされようとしたか、わかっているのか」


 わかっていて止めるのかと。なぜ、邪魔をするのかと。淡々とした声が告げる。

 負荷魔法とは違う圧迫感。この震えを、この恐怖をなんと形容すればいいかわからない。

 それでも、黙ってはいけない。伝えなければならない。

 そうだと、ディアンの中のなにかが訴えている。根拠はない。核心だってない。

 だけど、このまま間違えてはいけないと。たしかに、なにかが!


「こ、ろしては……っ、だめ、で、す」


 歯が噛み合わず、喉が震える。弱々しく、情けない声。船の軋む音にすら負けるほどに小さく、それでもエルドの視線が鋭くなる。


「こいつは――!」

「しんだって、いい」


 怒りが鼓膜を震わせる前に。それで息が止まる前に。絞り出した呟きに、薄紫が開く。


「その、人は……っ……死んでしまっても、かまわ、ない」


 本当は違う。この男がそれだけの罪を犯したかは、今の段階ではわからない。

 裁かれ、結局は死刑になるとしても、今この場で死んでしまってなにも思わないほど、ディアンは振り切っていない。

 殺さなければ逃げられないと言われても、簡単に命を奪うことはできない。

 兎とは訳が違う。自分が生きるためという理由こそ同じでも、違う。


「あなた、が、」


 それでも、そう伝えるのは。伝えなければならないのは……男の死よりも耐えられないのは、


「『人』を、殺しては……だめ、だ」


 薄紫が見開く。それこそが、ディアンの憶測を肯定し、衝動が間違っていなかったことを示していた。


「ディア――」

「あなたが、」


 息が苦しい。力もまともに入らず、服を掴むのだけで精一杯だ。少しでも気を抜けば、この意識は簡単にディアンの元から離れてしまう。

 彼に伝えなければならない。その意思だけが、ディアンを繋ぎ止める唯一。


「ころす、ぐらいなら……僕が、しま、す」


 人に手をかけるなど、考えるだけでも恐ろしい。

 だけど、それ以上に彼が……エルドが、『人』を殺めることのほうが、もっとずっと、耐えられない。

 人と精霊の中立を担う彼が。今までもそれだけはしてこなかったはずの彼が、自分のせいでそれを破るなんて、耐えられるわけがない。

 いや、ディアンがそう思っているだけ。考えすぎているだけで、なにも関係ない可能性だってある。

 だから、これはディアンの我が儘だ。彼が人を殺めるところを見たくないだけの……ただの、我が儘。

 それでも止めたかった。これ以上など、見たくなかった。

 だから……ああ、だから、


「お、ねが、い」


 いよいよ頭を上げる力さえなく、額が地面に擦れる。そのまま遠ざかる意識を引き留めたのは、なにか温かいものに包まれたからだ。

 目蓋に力が戻らずとも、自身がその腕の中にいると知るのは、それだけで十分に。

 不快感の中に、僅かな心地良さ。そこに似つかわしくない音は、首元から。

 軋むと共に首に感じていた重みが薄れ……心なしか、倦怠感も薄れていく。


「ゼニス。そっちを頼む」


 押し上げた目蓋。その先に白い影は見えずとも、足音だけで存在を認識する。

 ララーシュの方へ向かったのだと安心していれば、口元にあてがわれる冷たさに小さく呻いてしまった。


「苦いが吐き出すな。飲めるだけ飲め」


 流れ込んだ液体が舌に触れ、覚悟していた苦味は一瞬だけ。それよりも勝る甘味に疑問を抱くよりも先に不快感が薄れていく。

 心地良い冷たさに夢中で喉を動かし、気付いた時には全て飲み干していた。


「あま、い……?」


 遅れて疑問が口に出れば、聞こえたのは僅かに息を呑む音。


「苦味は」

「ちょっと、だけ」


 飲めないほどではなくとも、やはり苦かったと。そこまで伝えることはできなかったが、不安げな瞳が和らいだのを見て、それでよかったと知る。


「他に怪我はないな」


 まだ身体はだるいが、頷く力は先ほどよりも力強く。息苦しさも、圧迫感も、あと少しでなくなるだろう。

 首輪が外れたから……だけでは、説明がつけられない。

 口に残る苦味と、舌の奥にこびりつく甘み。誤魔化すように唾を飲んで、吐いた息はエルドによって掻き消される。

 深く、深く。肺の中を空にするほどに重い息。

 そして、一度閉じられた瞳が開き……貫く薄紫に、息が、止まる。


「――なぜ、一人で行動した」


 抱きしめる肩に力がこもる。強くとも痛みを感じないのは、これが抑えられているからだと考えるまでもない。

 抑揚のない声。その端が震えているのだって押さえつけているからだ。その感情を。今にも噴き出しそうなそれを。

 腹の奥が締め付けられ、ぎゅうと狭まる。そこから感じる冷たさは、先ほど飲み干した水でないのは明らか。

 落ち着きかけていた心臓が脈動する。だが、それは怒りでも恐怖でもなく、緊張からで。


「そ、れは、」

「なぜ誰にも声をかけずに、一人で助けようとした」


 返事は待たない。待つはずもない。口に出そうとしたのは言い訳で、理由ではないからだ。

 そうしなければならないと、そんな衝動にかられたからなんて。理解していてなお、そうするしかないと思ったからなんて。


「言ったはずだ。俺のそばから離れるなと。お前のすべきことは立ち向かうのではなく、自分の身を守ることだと」


 目を逸らしたい。だけど、逸らしてはいけない。どれだけその瞳が痛くとも、その薄紫からは決して。

 忘れていたわけじゃない。ちゃんと覚えている。でも、止められなかった。抑えられなかった。

 分かっていたのに。自分では助けられないと、分かっていたのに。


「ご、めん、なさ――」

「――分かっていて、なんでこんな無茶をした!」

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