152.異常
「おい、なんだ」
扉の開く音に顔を上げれば、一人の男が入ってくるところだった。リーダー格の男かと思っていたが、見張りの反応でそうではないと気付く。
なにかしらのトラブルか、それとも連絡だけか。どんな情報でも欲しいと耳を澄ませるよりも先に、感じ取った異変に身構える。
声をかけてきた仲間に反応することなく、ゆらり。こちらへ踏み出す動作の違和感。
向ける視線はディアンにのみ。横に立った仲間に、その顔が一切向く気配はない。
どうしたと、問いかける声が呻きに変わったのはすぐのこと。
腹部へ刺さる強烈な一撃。崩れ落ちた身体は蹲ったまま立ち上がることなく、何がおきたと目を見張る。
仲間割れ。もしくは、こちら味方なのか。
そんな淡い期待は向けられる瞳に否定される。
どろり。布の隙間から覗く濁った瞳。淀みながらギラギラと光る矛盾したそれに、悲鳴は喉の奥で堰き止められる。
言い難い感覚が背を駆け上がり、咄嗟に少女を遠ざけたのは直感から。
ぬめりつくようなソレは、やはりディアンを辿り、剥がれず、また一歩距離が縮まる。
「な、なに……!?」
「ララーシュ、離れて。様子がおかしい」
睨み付ける先で巻かれていた布が解かれていく。露わになった顔に見覚えはなく、記憶を掘り起こすよりも、変化した表情に背筋が凍る。
にたりと歪む唇、見開いた瞳は爛々と輝き、その奥に隠しきれない熱を孕む。それはダガンが抱いているものとよく似ていて、だがもっと深く、強く、恐ろしい。
本能的な恐怖に呼吸が止まり、無意識に張ろうとした障壁が形になるわけもない。ゆらり、ゆらり。近づくごとに身体が震えそうになる。
怖い。近づかれるのが、逃げられないのが、自分の身を守ることができないのが。
明らかにおかしいと分かっているのに、どうにも対処できない現状が。
「――ァ、あ」
歪な声が鼓膜を叩く。唇は歪んだまま、目はディアンを捉えたまま。それ以外はなにも目に映らないと、映したくないと、瞬くことなく手元だけが忙しなく動く。
ガチガチと擦れる鍵穴。定まらない手。そのまま開くなという願いは解錠音と共に虚しく消える。
開かれる扉が救いであれば、まだ希望もあっただろう。だが、そうではないとディアンは知っている。
ララーシュだけでは、このまま逃げても捕まってしまうだろう。されど、この男をやり過ごすのはあまりに困難。
「もっと、もっとだ、もっと……」
ブツブツと繰り返される言葉。そこに会話の余地がないのは明らか。意味も理解したくなければ、憶測だってしたくもない。
間違いなく正気ではない。まるでなにかに操られているかのように向けられる瞳に、奮い立たせた気力がなんの役に立ったのか。
「俺の――!」
雄叫びのような声と同時に伸ばされた腕を振り払う。だが、同時に詰められた距離を剥がすことはままならず、手首が掴まれてしまった。
骨の軋むような痛みに呻き、もう片手まで捕らえられる前にと突き飛ばした身体はよろめくだけで引き剥がすまでは至らず。
「お兄さんっ……!」
「来るな!」
加勢しようとする少女に怒鳴り、逆に男の手首を掴む。押し倒されないよう踏ん張り、それでも筋力の差は埋めがたい。
持ちこたえられるのは、あとどれだけか。だが、今なら彼女だけでも逃げられるだろう。
上手く立ち回ってくれれば見つからずに船の中に隠れられる。そこから先は、もう運に賭けるしかない。
間近に迫る、ギラギラと光る瞳に背筋が粟立つ。明らかにおかしい。先ほどもおかしかったが、ここまでではなかった。原因などそれこそどうでもいい。
狙いがディアンだけとは限らない。少なくとも、ここに留まるよりは外に逃げた方がよほど安全。
たとえここが海の上で、逃げ場なんてなくても。今の状況を教会に……エルドに知らせる方法がなくとも、それだけは間違っていない。
「っ、早く逃げ――!」
迷いはなかった。判断まではほんの一瞬。……ただ、隙を与えるのにはそれでも十分過ぎたのだ。
掴んでいた手首が振り払われ、後悔すると同時に腹部を殴られる。
だが、息が止まったのは痛みではなく、強く鼓動が脈打ったからだ。
なにがおきたか理解できないまま、藻掻きたかったはずの指から力が抜けていく。
直接心臓を掴まれるような痛み。首を絞められるような苦しさに崩れ落ちる身体が地面に倒れる音が遠い。
微かに聞こえる呼吸は息を吸ったのか、吐いたのか。肺は満たされず、目眩の中で光が舞う。
ろくに見えない視界の中、乗り上げる影を見る。逃げたいのに動かない。苦しいのに息ができない。
負荷魔法をかけられたと、そこでようやく理解が追いついたところでディアンになにができたのか。
点滅する視界の合間、伸びた手を払うことも。それによってシャツが破られ、ボタンが飛び散るのを止めることもできず。全て幻覚のようで、見えているのに、頭の理解が追いつかない。
脳の奥が痺れて、なにもかもが鈍く、感覚さえも麻痺していく。
感情が何拍も遅れて押し寄せ、それでも悲鳴が喉から出ることだって。
「ひ、ヒっ……俺の――だ、俺の――!」
繰り返される単語も頭の中に入らない。遠のきそうになる意識を必死で繋ぎ止めたくとも、耳鳴りが頭の中を支配して、なにも考えられない。
生温いなにかが露わになった鎖骨に触れ、次に鈍い痛みが襲う。荒れた生温い息が肌を舐め、噛み付かれたのだと気付くのだってあまりに遅く。
なにを、されている。なにが起きている?
苦しい。苦しいのに動けない。痛い。わからない。
「――離れ――っ――!」
「――、――!」
叫び声。視界の端で煌めく光。だが、それが突き飛ばされた少女だとわかったのは、悲鳴が聞こえてから。
助けなければと気持ちだけが焦って、唯一動いた首さえも掴まれ前に戻されてしまう。
なにか言われている。それはわかるのに、わからない。気持ちが悪い。動けない。苦しい。動かなくちゃ、動かなくちゃいけないのに。
ギラギラした光が見下ろしている。怖い。動けない。嫌だ。嫌なのに、息ができなくて、苦しくて、重くて、逃げられない。なにも、できない。
ゾワゾワと、形容できないなにかが這い上がってくる。怖い。嫌だ。いや、だ。
くやしい、きもちわるい、どうして、なんで、さわらないで、はなして、いやだ、いや、
「っ……る、ど……ッ……」
呼ぶ名に、返される声はなかった。そうだとわかっていて、届かないと知って、それでも求めてしまった。理屈ではなく、感情で。その本心で。
助けを、救いを。彼を……エルドを。
――だが、それは確かに届いたのだ。
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