148.不協和音
――息が苦しい。
真っ先に思い浮かんだのはそれだ。まるで肺に穴が空いたかのように、どれだけ吸っても身体に染みこまない空気。
うつ伏せから横向きになろうと、込めた力が指先から抜けていく。四肢は鉛のように重く、目蓋は縫い付けられたかのようにビクリとも動かない。
だというのに全身が揺さぶられているような不快感に眉を寄せることもままならず、呻くことさえ一苦労。
まともなのは聴覚だけだ。断続的に聞こえる軋む音は、この空間中から。
ゆっくりと傾き続けているような、何度も踏まれているような。聞き慣れぬそれもまた不快で、されど耳を塞ぐことだって満足にできず。
「ね、ねぇ……気がついたの?」
聞き慣れぬ声に一瞬考え、それから経緯を思い出す。
教会に辿り着き、妖精に助けを求められ……そして、この少女に出会った後のことも。
「苦しいの? 大丈夫?」
「……よこ、に、」
添えられた手に、互いに拘束されていないことを知る。
それがなんの救いになるかはともかく、楽になりたい一心で呟けば、強く肩を押されてようやく望んだ向きに。
視線は床から部屋へ。まず見えたのは、木の壁に似合わぬ鉄格子だ。
扉は一つ。その先に扉が見えるということは……閉じ込められているのは自分たちで間違いない。
窓はなく、薄暗くともそこまで視認できるのは僅かに照明が灯っているからだ。
頭の位置が少し高いのは、敷かれていた布のおかげか。誰が用意したかなど、それこそ考えるまでも無い。
「これでどう?」
「……あり、がとう」
まだ息は苦しいし、マシになったとは言えない。だが、心配そうに覗き込む少女に見栄を張る程度の気力は戻ってきている。
可能であれば起き上がりたいが、座って体勢をたもてるとも思えない。
深く呼吸をすれば、トクトクと流れる血流が耳を打つ。心臓が潰れていない、なんて安心感を抱くのはあまりにも馬鹿馬鹿しい。
だが、本当に死ぬかと思った。あのまま死んでしまうと……そう思うほどに苦しかったのも事実。
家を出たあの夜、エルドにかけられた時よりもひどかったというのに、あれでマシになったなんて。
エルドのときは手加減されていたとしても、今でこれなら当時なら本当に死んでいたかもしれない。
幸いにも今はまだ生きているが、それも時間の問題なのか。
「ごめんなさい、本当は回復魔法をかけたかったんだけど……これのせいで……」
これ、と称されたのは首に嵌められた枷のことだろう。
犯罪者に着けられる加護封じ。それが自分の首にも着けられているのは確認するまでもない。
自覚すれば余計に気持ち悪さが増したような気がして、深く息を繰り返すことで落ち着きを取り戻す。
「せめて『おすそわけ』ができたら……」
今にも泣きそうな瞳は、やはりかつての記憶を思い起こさせる。
とはいえ、幼い頃のメリアは泣くのを我慢することはなかったし、こんなにも悲しそうに呟くこともなかった。
きっと黙っていれば見分けもつかなかっただろう。
「……気持ちだけでも、嬉しいよ。ありがとう」
涙に潤む瞳を指でぬぐってやることはできず、代わりに力なく笑うのは、振り絞る兄としての意地か。
彼女が実の妹ではないことも、他人であることもわかってはいたけれど。そうやって気丈に振る舞わなければ、解決策なんて見つからない。
「ここは?」
「船の上よ。……もう、海に出てしまっているわ」
「……気を失ってから、どれぐらい経ったかわかる?」
先ほどから軋んだ音が聞こえるのは、そういうことだろう。窓はなくとも、今が夜であるのは間違いない。
初めての船がこんな形になるとは。せめてどれだけ前のことかわからないかと尋ねれば、弱々しく振る首に申し訳なさが込み上げる。
「ごめんなさい、私も気付いたときにはここで……あなたが起きるまで、たぶん二十分ぐらい経ったと思う」
「……そう、か」
長くはない。だが、短くもない。
陸路ならなんとか追いつけなくもないが、海路となれば……やはり、難しいだろう。
この船の規模にもよるが、教会専用の船はないと言っていた。用意するにしても、どこに向かったかもわからない船を追いかけるのは不可能。
だからといって、目につく全ての船を一隻ずつ確かめるわけにもいかない。
いくら教会が優れていたって……エルドがどんな力を持っていたとしても、ここまで来ることはできない。
選択を誤ったことは言うまでもない。だが、ディアンが行かなければこの子はもっと早く捕まっていただろう。
そして、連れ去られた先もわからず、助けも望めないまま、手の届かぬ場所に誘拐されていた。
とはいえ、その一人にディアンがくわわったのは悪手だ。
自分が重要人物だと理解したうえで単独で行動し、捕まるなんて。どう考えたって褒められる行動ではない。
……だけど、そうしなければと思った。待っていればきっと、全てが手遅れだった。
あれからどれだけの時間が経ったかはわからないが、間違いなくエルドは今、自分を探しているだろう。
心配している。戻ったら怒られるのは覚悟しなければならない。
いや、戻れるなんて自信過剰だろうか。ここがどこかも分かっていないし、脱出する見込みだって無に等しいというのに。
それでも、戻れないなんて考えてはいけない。間違っていると理解しながらも踏み込んだのはディアンだ。
こうなる可能性を理解し、それでも選択したのはディアン自身。
ならば、その始末は……己でとらなければならない。
「……ごめん、なさい」
ぽつり、呟かれた謝罪に思考を切り上げる。見上げた先、滲む緑はやはり馴染み深く、しかし知らないもの。
メリアであれば、今ごろ喚くか叫ぶか……いいや、そもそも妹がこんな事態に陥ることなどないと、たとえるのを諦めて首を振る。
「私のせいで、あなたまで……」
「君が悪いわけじゃない。きっと、僕も狙われていた」
薄れる前の記憶。徐々に思い出したその姿。
少女を追いかけていたのとは違う風貌。人混みに紛れれば違和感のないあの姿。ディアンの後ろから現れた男たち。
偶然ではない。彼らは間違いなくディアンを狙っていた。それだけは確実に言える。
だが、その目的がわからない。彼らが父の手配した追っ手ならともかく、彼らは専門の組織だ。
人身売買か、奴隷か。どちらにせよ、表だってできないことには違いない。
容姿の優れた子どもが攫われるのは珍しいことではない。しかし、ディアンは仮にも成人しており、この町に来たのだって数時間前のこと。
突発的にしては違和感が勝る。わざわざ追ってきたなら、なんらかの目的があったと考えるのが自然だ。
だが、それは一体……?
「それって、あなたがエヴァンズ家の人だから?」
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