147.面影
まだ昼と思っていたのが勘違いだと知ったのは、飛び出した先の景色が赤に染まりつつあったからだ。
白と朱に揺れる海面。屋台にともされる明かり。止まぬどころかますます賑やかさを増したように思える喧騒。
少しでも余裕があったら異なる面影に感動を覚えただろうが、その目は先導する妖精から一時も外れることはない。
人混みを抜け、時折ぶつかりそうになり。後ろからの罵声に謝ることもできず、フードが外れないことだけを気にしていられたのも数メートルまでのこと。
一歩横道に入った途端、それはまた別の世界であった。
光の届かない路地。破れ、乱暴に剥がされた紙の上からさらに張られたなにかの告知。点在するゴミと薄汚い地面。
幅は狭く、人が一人すれ違えるかどうか。こんなところは王都と変わりないのかと、そんな感想も踏み込んだ瞬間に消えていく。
元の道に戻れるよう曲がった方向を覚えようとするのは、三度目の角にさしかかった時点で諦めた。
彼女たちは壁を通り抜けられるので問題ないかもしれないが、ディアンはそうはいかない。
十字路にY字、突き当たりかと思えば穴をくぐり、と思えば柵を乗り越えさせられて。
これでは目的地に着くのが先か、それともディアンの体力が尽きるのが先か。
耳を澄ませても悲鳴らしきものは聞こえず、なにかを追いかける足音も聞こえない。早く早くと急かす妖精の声と、自分の荒い呼吸だけ。
もうどれぐらい走り続けたのか。どのぐらい、教会から離れてしまったのか。
メモは残したが、あれだけでは理解できないだろう。なにも説明できぬまま飛び出してしまったのだから心配させている。
そうでなくても、ただでさえディアンの立場は重要だ。『候補者』の役割を理解できていなくても、聖国にとってなくてはならない存在。
自分の身になにかあれば、それこそエルドの立場も危うくなる。自分一人の問題ではない。
己がいかに軽率な行動をとっているか、その責任が自分だけではすまないこともわかっている。
それでも、待てなかった。待っていては手遅れになると、自分のなにかが告げていたから。
エルドの話が本当なら、妖精が自分の前に姿を現した時点で異常で緊迫しているのだ。
姿が見えたのが門の影響だったとしても、助けを求められたのは事実。そして、その相手は愛し子だという。
精霊から特別な加護を授かった者。そうだと理解して危害をくわえたなら、それこそ精霊の怒りを買う可能性だって。
なぜそうなっているかは、今の段階ではわからない。それでも、これは教会としても避けたい事態ではあるはずだ
軽率な真似を、と怒られるだろう。だが、無視できなかった。待てなかった。こうするべきだと、自分のなにかが訴えていたのだ。
見過ごせばそれこそ取り返しがつかないと……根拠はない。だけど、確かにそうだとディアンは確信したのだ。
胸騒ぎは収まらない。それはエルドとの約束を破ったことに対してか。あるいは、この先で待っているだろう出来事に対してなのか。
ディアンにできることはあまりにも少ない。武器もなく、あったとしても戦えず。できるのは、障壁を張って近づかせないようにすることぐらい。
最善は襲われている相手を救い、互いに無傷なまま教会に戻ること。
だが、武器がなければ疾患が出ないとは限らないし、そんな簡単にいくとは限らない。
連れて行かれる。愛し子。間に合わない。
妖精たちの叫んだ言葉をつなぎ合わせ、よぎる可能性が不安を煽る。もしこの予想が当たっていたなら、ディアンに勝ち目はないだろう。
ただでさえ自分の身を守るので精一杯なのに。それも武器も持てず、障壁しか張れず。逃げるしかできないのに。
だが、今更引き返すことはできない。
ディアンがいないことにはもう気付いているだろう。メモの内容から予想できずとも、街に出ていることは気付いてくれるはずだし、ゼニスなら自分の匂いを辿って追いついてくれるはず。
そう、無理に逃げる必要はない。ディアンは耐えればいいのだ。彼らが……エルドが、来てくれることを。
それまで信じていればいいのだと、だから怯えている場合ではないのだと。そう奮い立たせる意識が、角を曲がると同時に逸れる。
正確には、腹部に感じた衝撃によってだ。
「っきゃ……!」
「っ……大丈夫――」
短く甲高い悲鳴に、少女がぶつかってきたのだと知る。反射的に肩を支え、そして……視界に入った緑に、息を、呑む。
上質な生地だ。ドレスと呼ぶには質素すぎ、しかしワンピースというには豪華すぎる。
どこかのご令嬢がお忍びで来るにはあまりにも似つかわしくない場所。だが、ディアンが動揺したのはそうではない。
生地よりも滑らかな、美しいプラチナブロンド。流れる髪の光沢に混ざる薄い桃色は、服の反射でないことをディアンは知っている。
大きく開いた瞳。長く透き通った睫毛に彩られたエメラルドの瞳。
小さな唇。陶磁器と見間違うほどに白い肌。身体に添えられた、今にも折れそうな程に細い手。
誰が見ても可愛らしく、そして美しいと称する姿。だが、固まるのはその美しさに見惚れたのではない。
驚いたのは、その人とは思えぬ美しさではなく。その姿が記憶に重なったからだ。
あり得ない。だが、ディアンは知っている。その姿を、この髪を。特別な加護を授かった証拠に溢れる魔力が煌めくその光を。自分を見上げ、揺れる緑の瞳を。
あり得ない。あり得るはずがない。
だが、それは、
「っメリ……ア……?」
――間違いなく、自分の妹の姿だったのだ。
違うとは理解している。彼女はこんなに幼くはない。髪だって妹は癖がついていないし、なによりここは王都からあまりにも離れすぎている。
『精霊の花嫁』である彼女が、たった一人でこんな場所にいるわけがない。
別人だ。分かっている。だからこそ……こんなにも似ていることに、頭が追いつかない。
声も、顔も、幼い時のメリアそのものだ。偶然にしてはあまりにも似すぎている。あり得ない。あり得るはずが、ないのに。
「――いたぞ!」
大声に腕の中が大きく跳ね、弾かれるように顔を上げる。全身を黒で覆った男。その目元が僅かに出ていなければ、どこに立っているかさえ分からなかっただろう。
体格はディアンよりも良く、身長だって上。ディアンと比べてこうなら、この少女相手なら言わずもがな。
足音が増え、男の背後に影が増える。それだって一人や二人ではない。
もはや戸惑っている暇はなかった。
男が走り出すのと、障壁を張ったのはほぼ同時。通路を塞いでも安心はできず、後ろに庇った少女に光が集う。
「ララーシュ!」
「妖精さんっ……!」
シャラ、と響く音の合間で聞こえた名は少女のものだろう。そして、彼女の目にも妖精の姿が見えている。
彼女たちが言っていた愛し子。武装した複数の男たち。ただの誘拐でないのは明らか。
間違いなく相手はプロだ。この時点でディアンに勝ち目はない。
一緒に逃げるのは不可能だ。それどころか、ここに留まって耐えられるかさえ危うい。
――ならば、できることは一つ。
「大通りまで走って、早く!」
回り込まれる前に脇道も塞ぎ、彼らの背後も同様に。簡易的な檻がそう長くもたないことは承知の上。
だが、障壁を張ったまま走るのは無理だ。そうでなくとも誰かを守りながらなんて、そんな器用な真似。
であれば、ここで食い止めて彼女を逃がすのが今ディアンにできる最善。
「あなたはどうするの!?」
「いいから早く! 連れて行け!」
前者は少女へ、後者は飛び交う妖精たちに。語尾が荒くなるのはそれだけ必死だからだ。
視線は前に。なんとかして障壁を破ろうとする男たちから逸らすことなく、僅かにも緩むことがないように。
この子さえ無事に逃げられれば、あとはなんとかなる。否、エルドたちが来るまでなんとかしなければならない。
この行動がエルドを困らせないために、無事に彼の元へ戻るためにも。今はこうするしか――!
「――後ろ!」
のけぞったのは、その叫びが聞こえたからだ。
風を切る音、目の前を横切る拳。まるで時の流れが遅くなったような一瞬、自分を睨む瞳に息が止まる。
捉えられなかった拳が届かなかったのは、咄嗟に張り直した障壁に阻まれたからだ。
片手で庇った少女ごと後ろに下がれば、すぐに壁に当たる。同時にそれは、ディアンたちの逃げ場がないということを示していた。
遠目に見えていた影に取り囲まれ、怯えた呼吸は腰元から。打ち付ける鼓動は、己の胸から。
しくじった。失敗した。よぎる後悔を振り払いたくとも、突破口が見つからない。
油断していた。回り込まれないように脇道を警戒していたはずなのに、どうして正面だけ気にしていたのか。
あまりにも早すぎる。もう回り込まれていたなんて。違う。殴りかかってきた男の格好は、どう見ても一般人にしか見えない。
万が一、彼女が逃げ出した時のために変装していたのか? いいや、町中から真っ直ぐ来るなんて、ディアンの跡をつけてこなければ不可能だ。
だが、実際に彼らはそこにいて、ディアンの背後から襲ってきた。なんらかの方法で気付いたとしか思えない。
いや、いいや。
敵の仲間には違いないだろう。だが、違う行動をとっていて合流したと考えるのが納得できる。
そう、狙いが少女ではなく――ディアンで、あったなら。
「っ、わ、私が目的なら、この人は関係ないでしょ!」
必死にディアンの服を握り、恐怖を殺しながら声を張り上げ。しかし、男たちの表情が変わることはない。冷たく標的を見下ろすだけだ。
「大人しくついていくから……!」
「動かないでじっとしてて」
今にも飛び出しそうな少女を後ろ手で押さえ、障壁の厚みを増やす。白みが強くなった隔たりに対し、動揺することもない。
「でもっ……!」
「大丈夫」
なんの根拠もない。だが、言い聞かせるしかない。
大丈夫。大丈夫だ。まだ魔力はある。手を出せないのであれば、持久戦で有利なのはこちらだ。
ディアンが保持する限り、物理攻撃はどうやったって通らない。
きっともうすぐエルドたちが来る。そうすれば彼女も無事に教会で保護される。
「すぐに僕の友だちが――」
来てくれるから。だから、大丈夫だと。言い聞かせたかったのは彼女に対してなのか、自身に対してだったのか。
だから、と。続けたかった言葉が――呼吸ごと、止まる。
否、それは鼓動ごと。直接掴まれたかのように。そのまま握り潰すかのように。
なにが起きたか理解する間もなかった。呻く声ごと膝が地面に落ちる。受け身もとれず、糸の切れた人形のように呆気なく。
開閉する口に行き交う空気はなく、吸っているのか吐いているのかさえ判断できずに喘ぐ。
苦しいのに胸を掻きむしることも、首を押さえることもできない。指先は動かず、足は崩れ落ちたまま。背を丸め、消えていく障壁をぼやける視界に映すだけ。
確かにディアンの張った障壁は一切の物理を通さなかった。ディアンが保っている限り彼らを守るはずで……だが、それは物の話。
それが魔術ならば。妨害魔法であれば防げるはずもなく。点滅する世界の隙間、近づく影を見上げることも許されない。
知っている。ディアンはこれを、覚えている。
視界の明滅が強まるにつれて四肢の感覚が鈍っていく。遠ざかっていくのは悲鳴ではなくディアンの意識。
ダメだ。捕まってはいけない。逃げなければならないのに。
狙いが少女だけでなく、自分にもあるなら。それでも、彼女だけでも逃がしてあげなければ、ならないのに。
もうすぐ彼が来るのに。来る、はずなのに。
――エルド。
そう呟いたはずの声は、なり損なった呼吸に紛れて音になることはなく。不自然に途切れた悲鳴が、薄れる意識の中で聞こえた気がした。
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