145.港の教会
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それから迷うこともなく、寄り道をすることもなく。王都に劣らぬ広さでも、歩き続ければいつか辿り着くものだ。
緩やかな角を曲がった先、開けた視界に映るのは一面の海だ。
太陽に照らされる水面の眩しさに目を細め、慣れるよりも先に足は動く。
広くとられた階段と、その倍は確保された坂道。上がっていく荷車とすれ違いながら進む足取りに、戸惑いもためらいもない。
喧騒はますます賑やかになる。道の手前で積み荷を確認する者、朝にとれた魚を売る屋台の列。
いくつかは調理されているのか、ここでも香ばしい匂いが漂ってきて、何人かは串を手に道を進んでいる。
昼だというのにアルコールの匂いと酔っ払いの声も微かに。それらの賑やかさのさらに向こうでは、ディアンの想像していた倍以上の船が一等地を占拠している。
続く行列は長く、老若男女関係ない。背に大きな荷を背負っているのは行商人だろうか、それとも冒険者か。あるいは、その冒険者に雇われている荷物持ちか。
船へ続く板の前、立っているのは兵士だろうか。口頭で終えているので必要な手続きは別の場所で行っているようだ。
それがどこかは人混みに揉まれて目視できず、やがて行列も屋台も見えなくなる。
賑やかな海の都だ。爽やかな潮風、活気のある声、ここにしかない食べ物や文化もあるのだろう。
それは、本で読むだけでは得られない経験で……想像するだけでは、きっと物足りない。
さっきまでなら。なにも知らないままだったなら、きっと無邪気に問いかけただろう。
このあたりで売っているもの、わざわざ坂道と階段を作りわけた理由。どうして街の屋根が橙色に統一されているのか。あの船はどこ行きで、それこそ手続きを行うのはどこなのか。
そして、聞かずとも教えてくれるだろう。ここがどんな場所で、ここの人たちがどう生活を送っているのか。
いつものように笑いながら、たまに呆れながら。嬉しそうに、楽しそうに。
だが、ディアンの唇は閉じたままだ。なにも問わず、なにも言わず。ならば、エルドだってしゃべることはない。
周りはこんなにも賑やかで、時折やかましいと思うほどなのに、彼らの間に音はない。
一言も喋らず、喋れず。ただ手だけを繋いだまま、足は遅くも早くもない速度で進み続け……そうして、そこが見えてきた。
街に入る前から見えていた一際大きな建物。遠目からではわからなかったが、今ならその頂点に備えられたシンボルだってよく見える。
太陽を模した円。精霊王オルフェンを模したそれは、そこがどんな外見でも教会だと証明するためのもの。
ここが、この街の教会。そして……ディアンたちの、旅の終わる場所。
両開きの扉は開け放たれたまま。故に二人は立ち止まれず、足音は土から固い音へ変わる。
左右にわけて置かれた長椅子。一番奥、自分たちを見下ろす形で置かれた精霊王の石像。
空から降り注ぐステンドグラスこそなくとも、王都の教会によく似ている。
なにも変わっていなければ、ここでかつての恩師のことでも思い出しただろう。自分を嫌っていた幼なじみの顔も。
そうして、彼らがどう過ごしているのか考えて、すぐに忘れてしまっただろう。
だが、今はそれすら浮かばない。ただ、ディアンたちに気づいた何人かが向ける視線に気をとられ、それでも繋いだ手を離せずにいることしか考えられず。
祈りを捧げる者もいれば、数人で固まり休んでいる者も。船が出るまでの休憩所としても解放されているのだろう。
そんな理由で、なんて思わなくもないが、どんな用途で使っていいかは司祭の判断に任されている。
必要な者に、必要なように。教会は全ての人間に対してその手を差し伸べる。
……精霊が人間を加護する限り、変わることなく。
「ようこそ、旅のお方。どうかされましたか?」
真っ直ぐ向かってくる姿に気づいたのか、奥にいたシスターがすぐに近づいてくる。
揺れるスカート、髪を隠すフード。その蒼に、かつての山頂を思い出して目を逸らそうとも意味はない。
もうディアンの意思は関係なく、それは決められたことなのだから。
「……こんにちは、シスター」
口から出るのは当たり障りのない挨拶。だが、差しだしたメダルにその目が僅かに開くのを、俯くディアンが目視することはない。
「どうぞこちらへ」
驚いた気配は一瞬だけ。穏やかな口調のまま導く背を、やはり手を繋いだまま追いかける。
何人かの視線が向けられる気配も、扉を抜ければ感じなくなる。
つまりそれは、この後のことを紛らわせる要素がなくなったということで……無意識に込めた指先が、同じだけの力で返されるのに込み上げる感情はなんだったのか。
扉が閉まり、それから彼女が振り返る。そこに先ほどまでの穏やかな笑みはなく、鋭い瞳が二人を貫く。
「トゥメラ隊第二隊所属、アプリストスが娘、パルトと申します。司祭殿は先約のため、私が対応を」
膝は突かずとも、礼と取る動作は洗練された戦士のもの。シスターの服はあの衣に比べれば動きにくいだろうが、彼女には支障ないだろう。
トゥメラ隊……女王直属の部隊がここにいるのもそうだが、なによりもその口上に引っ掛かる。
アプリストス。強欲の精霊。……その娘と名乗ったのは、少なくとももう一人。
「リヴィ、様の……?」
トゥメラ隊。それをまとめ上げる隊長。その彼女が名乗ったのも、間違いなく彼の名だ。
考えられるのは姉妹だ。強欲、と名が付くのだから子どもも一人や二人ではないだろう。ただ、彼の子についてディアンはほとんど知らない。
確かに有名ではなくとも、忘れられるほど影も薄くはない。少なくとも、精霊史に残っているのなら名前や子どもの数ぐらいはどこかに記載されていてもおかしくないはずだが……。
零した名に視線が和らぐ。だが、そこには懐かしさや愛おしさは含まれていない。あるのは、ディアンに向けての隠しきれぬ哀れさ。
「……『候補者』様。ここまでよく、ご無事で」
心からの安堵と、言葉以上の棘。その矛先はディアンの手の先、まだ繋がれた男にあるのだろう。
彼女たちとエルドにどんな確執があるか、それもまたディアンは知らない。そして、知ることはない。
それこそ……ディアンに権利はない。
「……先に陛下と通信を。それが終わり次第、門を繋いでもらいたい」
覚悟していても、言葉にされることでこんなに衝撃を受けるなんて知りたくなかった。
そうだと知られたくなくて唇を噛んでも、握った指先に力が入れば結局は筒抜け。
「どういう心変わりですか」
一方、パルトと名乗った彼女は動揺することなく。鋭い視線は真意を見極めるかのようにエルドへ突き刺さる。
ディアンなら怯えただろうが、エルドの表情は変わらない。そう向けられるのは当然だと受け入れるだけ。弁明も説明もない。
答えが得られないと知り、吐き出した溜め息は小さく。一つ瞬けば、もう彼女に他の感情は見られない。
「司祭殿をお待ちする必要はないようですね。こちらへ」
「いや、その前に……」
するり、指が離れる。あまりにも呆気なく。惜しむ間もなく。声すらも出ず、握ったはずの手が掴んだのは自分の親指で。
「こいつに、なにか軽く食える物を。ここまで無茶をさせたからな」
「……仰せの通りに」
いつの間にそこにいたのだろう。控えていたシスターがディアンに近づき、そうして扉へ案内する。
だが、エルドが向かうのは廊下の先。目的が違えば、行き先が異なるのは当たり前。
「『候補者』様、こちらへ」
促され、微笑まれ。エルドを見上げて……苦笑する顔を見てしまえば、なにも言えず。
横を通り抜けるゼニスが一度こちらを見上げ、それからエルドのそばにいくのを引き留めることもできず、見送るだけ。
薄く開いた唇は再び閉じ、もうなにも掴めない指先に余分な力はいらない。
――ここで、別れだ。
理解していたはずなのに、わかってからずっと言い聞かせていたはずなのに。今でなくてもいつか来てしまうものだと……わかっていた、はずなのに。
「エル、ド」
なにか言わなければと、でもなにを言えばいいのかと。わからずとも口走るのは後悔したくないからだ。
これで最後。これで……もう、『エルド』に対して話しかけられるのは最後。
無言では別れられない。だって、今言わなければ、もう後なんてない。
ここで最後。これが、最後。だからこそ、声を。
最後の、言葉を。
「――また、あとで」
声が震え、笑みはぎこちなく。くしゃりと歪んだ顔は、とても普通には見えなかっただろう。その証拠に、目の前の顔が強張る。強張り、歪んで、伏せられる。
握り締めた指先に返ってくる力はない。それでもほどけないのは、視線の先に見える温度を求めてしまっているからなのか。ディアンにはわからない。
「――あぁ、」
震える声が、返ってくる。歪んで、開いて。そうして、苦笑する顔は……やはり、変わらないように見えて。
「後で、な」
だが、見つめ返す薄紫が揺れるのを。それを隠そうとして細まるその目蓋を、ディアンは見てしまう。見て、しまった。
叶わぬ約束だと。そうだとわかって返された言葉に、息さえもできなくなる。
薄紫が逸れ、再びディアンの足は促される。もう留まる理由はない。エルドは背を向け、ディアンは歩く。
……そうして、静かに閉まった扉が、二人の旅の終わりを告げた。
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