143.束の間の平穏
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「お気をつけて」
「ああ、ご苦労さま」
そして、扉の窓越しに話しかけ、入室し。反対側の扉を抜けるまでにかかった時間は……僅か、数秒のことだった。
いや、本当に。メダルを見せて、挨拶をされて。扉が開いてそのまま真っ直ぐ。荷物を見ることもなければ、人数を確認することもない。
ゼニスを連れているのに対してもなにも言われないのだ。ディアンのフードなんて、それこそ気にすることもなく。
あまりの呆気なさに戸惑う間もなく、無事に街の中に入れてしまったのだ。
「こ……こんな、簡単に……?」
審査の『し』の字もない。思わず口に出るのだって当然のこと。
いくら教会といえど十数分は覚悟していたのに、本当に鞄を開けることすらしなかったなんて。
こんなに緩くて警備は大丈夫なのかと、そんな不安を解消するかのように、隣の門では様々な音が聞こえてくる。
許可書の提出を促す者。ギルド名を叫び審査を免除させようとする者。輸出禁止物が見つかり騒いでいる者。
それらを処理する係員も叫んだり淡々としていたりと、多種多様。
個室に連れていかれる者は見受けられないが、それはよっぽどの場合なのだろう。大抵はああやって他の者に見られながら審査を受けるらしい。
本来ならディアンたちもあちら側のはずだ。もし見られていたなら、それこそ喚き散らされていてもおかしくないぐらいには雰囲気は悪い。
長時間待たされたうえに、難癖……ではないだろうが、さらに面倒な手続きを踏むとなれば気が立つのも仕方ないのだろう。
まぁ、半分はそのまま何事もなく進んでいるので、騒いでいる者が悪目立ちしているだけだろうが。
「言っただろ、正しい使い方だって。ただの飾りと思ったか?」
早々にメダルをしまったエルドに腕を引かれ、強制的に視線を外される。喧騒は遠ざかるどころかますます近くなるのは、その正面の方が賑わっていたからだ。
石畳の敷き詰められた大通りの両側は屋台に埋め尽くされ、名産品や屋台物を売り込む声は競い合うかのよう。
門から通された馬車が人の間を縫ってゆっくりと進む傍らで、看板を持った者たちがなにかを必死に叫んでいる声も。
耳を傾ければなんてことはない。宿屋に武器、雑貨屋。道案内に観光案内。それぞれの店に雇われただろう売り子が勤めを果たしているだけだ。
その近くには、おそらく街を巡るための馬車も。この光景だけだと、王都よりも活気づいているように見える。
「本来、教会関係者は命じられた持ち場から離れることはない。動くとすれば緊急性のある時だけだ。だからこそ、煩雑な手続きを省略させるために我らが陛下は一定の職位以上にコレを授けてるんだ。ここで使わなくてどうする」
「そ、れは……そうなんですが……」
言葉が濁ってしまうのは、己の浅知恵を恥じたのではなく、繋がれた手に対して。
今までも手を繋ぐことぐらいあったのに伝わる温度が熱く感じ、滲む汗を拭うこともできず。
強張っているのか、脱力しているのか。どちらにせよ解放されずに思考は鈍くなる。
なんてことない。ただディアンが迷わないようにしているだけ。それだけなのに。
「なんだ?」
必死に言い聞かせようとしているのに、エルドが言葉の続きを促す。どうしてこういうときばかり見逃してくれないのかと、悪態付くのは心の中が精一杯。
「こ……こんなにも早く終わるなんて思っていなかったので……」
嘘ではない。本当に、簡単にでも荷物をあらためられると思っていたのだ。
名前と、所属と、目的と……何枚か書類に記載して、それで終わりだと。
それがまさか素通り同然だなんて。
「それだけ教会が信用されているってことだ。まぁ、色々と事情はあるが……それより、あんまりキョロキョロしてるとすぐ餌食にされるぞ」
「餌食って」
「王都出身でも、旅に慣れてない人間ってのはすぐにわかるもんだ」
ほら、と注視を促されれば、初々しい冒険者が看板を持った集団に囲まれる光景が映る。競り合いの筆頭は宿屋だが、武器や防具屋も負けてはいない。
似たような集団は他にもいくつか。だが、あまり目を向けられていないのはこれがこの街にとっての恒例だからだろう。
「ああいった客引きは連れてきた人数によって賃金が変わってくる。店の評判がいくら悪かろうと、人さえ連れて行けばあとは店が上手くやるってわけだな」
なんとか輪を抜け出そうとする者にも執拗についてくるのだ。満面の笑みや真剣な表情に囲まれ、困惑する初心者では太刀打ちできないだろう。
「比率としては、どれぐらいでしょうか」
「七対三で普通が優勢。三は言わなくてもわかるな?」
「……ちなみに、良いところは」
「わざわざ人を雇わなくても、利用した人間が広めてくれるからな」
つまり、着いていくべきではない……ということだ。
今後この街に来るかは別にして、他の港も似たようなものだろう。王都ではまず見ない光景は徐々に遠ざかり、それに連なって屋台の数も減っていく。
減らないのは道を行き交う人ぐらいだろう。
「とはいえ、名店ってのは予約待ちだったり人が多かったりするから、ろくに利用できないのが多いが……そんでも普通の店は普通に紹介されるから、宿なんかに困ることはないな」
「その判断はどうやって?」
「経験だな」
こればっかりは伝えられないと、肩をすくめられて眉を寄せる。結局、今のディアンに判断する手段はないということだ。
本当に経験を積めばわかるようになるのか。そんな疑問を抱いている間も手は引かれ、足は前へ進み続ける。
ゼニスはディアンの横につき、時折すれ違う人を避けながらも基本的に寄り添ったままだ。さすがの彼も、はぐれてしまうと合流するのは難しいだろう。
初めて来たディアンならなおのこと、このまま繋がれていたほうが安全といえる。
「ここから港までは、どれぐらいで?」
力強い指に握り返すのがいいのか、それとも力を抜いた方が良いのか。その答えはでずに、誤魔化すように口は動き続ける。
「馬車で直行するなら十分……と言いたいところだが、これだけ人が多けりゃ歩いて行った方が早い。寄り道しなけりゃ三十分で着くだろ」
言っているそばから香ばしい匂いが漂い、かと思えば甘い香りも。日に照らされて光るのは装飾品の類だろうか。
なんとも誘惑が多い。王都でも催し物がある日は屋台が並んでいるが、こうして眺めながら歩くのは今日がはじめて。
唯一参加が認められた建国祭でも、父に叱られて前しか見れなかった。こうして眺めることすら……。
『この程度で、騎士になれるなど――』
「……聖国の便は、いつ出るんでしょうか」
連鎖的に思い出しかけ、首を振る代わりに問いかける。僅かに力んでしまった指先に対する反応はない。
「聖国行きだと……一週間に二つか三つだったか。他国に比べりゃ頻度は高いが、片道三日だからな」
頭の中に浮かんだ地図を辿る。海を挟んで反対、確かに他国に比べれば距離は近いと言えるが、それでも三日もかかる。いや、三日で済んでいると言うのが正しいのか。
他国がどれぐらいで着くかわからないが、それでも簡単な旅路でないのは明らか。
「運が良けりゃ明日乗れるが、そうでなくても何日か待てば必ず乗れるから、焦る事もない」
「利用者もやっぱり多いんですか?」
「船に乗ることはあんまりないからなんとも……まぁ、貨物の関係もあるから、あんまり人がいなくても発つだろ」
まるで他人事のように呟かれ、疑問はやはり消えず。
聖国から来たならエルドも船には乗ったはずだが、その時を思い出している様子はない。
比較するほど乗れていない、という意味かもしれないけれど、なぜだか少し引っ掛かる。
「さすがに専用の船はないんですよね。それとも、教会関係者用の部屋でも?」
「いや、どっちもないな。まぁ、船はまた機会があったら乗ればいい」
それならまだ納得できると、軽い気持ちで問いかけたはずなのに、疑問は薄れるどころか膨れていく。
聞き間違い、だろうか。これではまるで自分たちが船には乗らないような言い方だ。
「この街の教会は港のすぐ前だ。とりあえず、そこまで歩くぞ」
手の力は変わらない。歩く速度も、変わりない。
見つめた後頭部がこちらを向くこともないし、エルドの表情を見れないことも。なにも、変わらない。
教会に行くのはいつも通りだ。街についたら先に報告することになっている。
それはディアンが『候補者』だと知らされる前から続いていること。なにもおかしいところはない。ないはずなのに、どうして、胸が騒ぐのだろうか。
「あの……宿はどうするんですか?」
あと数時間もしないうちに日が暮れてしまう。もう宿屋も埋まる頃だろう。
路地まで行けば空いているのもあるだろうが、ぼったくりか、相当に質がひどいか……普段以上に快適とは言い難い夜を過ごすことになる。
「問題ない」
エルドもそれを知っているはずなのに、返ってくるのはやはりそれだけ。
教会に泊まるつもりだろうか。しかし、エヴァドマ以外ではいつも宿に泊まっていた。この町だけ例外なんてありえるのだろうか。
だとすれば、その理由は? 手持ちの金貨が少ない? それとも安全を考えて?
浮かんだ端から否定する。いいや、それならエルドも説明するだろう。言葉が少ないのは、そうすることを避けているからだ。
エルドは嘘はつかない。だからこそ言葉で誤魔化そうとする。なのにそれすらもしないのは、なんの理由があってなのか。
説明したくないこと。説明するまでもないこと。自分に気づかれたくない、なにか。
宿もいらず、しかし教会に泊まることもない。船は既に出ていて、早くても明日になる。
最低でも一晩はこの街で過ごさなければならないのに、泊まる必要がない理由。
――そもそも、どうしてエルドは急いでいた?
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