117.一人きりの『花嫁』
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今回からしばらく、王国側のお話になります。
「――どうして私の言うことが聞けないの!」
テーブルが揺れ、載っていたカップが大きく揺れる。中に入った紅茶が零れ、ソーサーどころかクロスまで汚れても、誰も気に留めるものはいない。
陶磁器の擦れ合う音よりも不快なのは、今まさに上がった甲高い声であろう。可憐な少女から出たとは思えない高音は、耳を塞いでもいいほどの声量。
だが、この部屋にいる誰一人として眉を寄せることもないし、なんならその表情が崩れることだってない。
彼女たちはこの部屋に入ってきた時と変わらず、睨み上げる緑を静かに見下ろすだけだ。
「何回も言わせないで! いつも飲んでるのがいいって言ってるの! 早く入れなおしてきてよ!」
こんなの飲みたくないと喚き、指し示すカップの中身はまだ十分すぎる熱を持っている。
たしかにメリアの気に入っている銘柄ではなく、その品質も数段低い。彼女の口には到底合わないだろう。
だが、そんな違いなど睨まれている彼女たちにわかるはずもなければ、従う理由すらない。
見た目は可愛らしい。服装だって、メリアに似合うデザインのものだ。無駄にレースがついているのでも、動きにくいドレープがあるのでもない。
本当に、外見だけなら貴族のご令嬢。しかし、その立ち振る舞いは癇癪を起こした子どもにしか見えない。
いや、我が儘を許され育った娘という点では身分など相違ないだろう。どちらにせよ、喚かれた側が苛立つことも鼻で笑うこともない。
もしメイドならこの時点で解雇されただろう。雇用主の命令も聞かぬ従者など必要ない。
だが、彼女たちはメイドではなく。そして、彼女たちの主はメリアではない。
彼女たちが仕えているのは、今も昔もただ一人。女王陛下だけなのだから。
「……何度も申し上げておりますが、我々の任務はあなたの身の回りの世話ではありません」
だからこそ、その声は凛と響く。一切の揺るぎもなく、堂々と。
メリアがなんと喚こうと、それこそカップの中身をこちらへ投げつけたって、彼女たちの対応が変わることはない。
「必要と判断したので紅茶は入れましたが、それ以上は聞き入れかねます」
「これじゃないって言ってるじゃない!」
「気に入らないのであればご自分でお入れください。そこまでの制限をかけろとは女王陛下も命じていませんので」
水分補給にしては贅沢ではあるが、喉が渇いたという理由なら仕方ないだろう。だが、用意したものを好みでないというだけで口に付けないのはただの我が儘。
そんなのに付き合う通りはないと説明したところで、この少女が納得できるわけもない。
メリアにとっては叶えられて当然の望み。むしろ、口に出さずとも用意されているはずのものだ。
これがいつものメイドなら、なにも言わずとも完璧に準備を進めてくれただろう。
そうしてお茶をしている間は、新しい小説や、街の話なんかで彼女を楽しませてくれるのに。この数日来るのは蒼い鎧を纏った見知らぬ女性ばかり。
彼女たちはここに来て日が浅く、メリアの好みを理解していないのも当然のこと。故に、メリアは間違いを指摘し、そうしてやり直すようにお願いしたのだ。
それなのに、彼女たちはダメだの一辺倒で謝る素振りすら見せやしない。
メリアだって最初から喚いていたわけではないし、失敗を許す寛容さだってある。それなのに言うことを聞かない彼女たちが悪いのだと、怒りは収まる様子はない。
メイドの代わりに来たはずなのに、なぜ言うことを聞いてくれないのか。なぜ、こんな目で見られなければならないのか。
メリアには何一つわからず、胸の内を支配するのは望み通りにならぬ怒りばかり。
こんな人たちに言っても無駄であると、立ち上がった身体はすぐさま行く手を阻まれる。
「どちらに行かれるおつもりで?」
「お父様のところよ!」
彼女たちは自分にひどいことをするのだから、追い出されて当然だ。
今までと同じ、父に言えば全て叶えてもらえる。いかに彼女たちがひどかったか、訴え泣きつけばすぐに『精霊の花嫁』に対してフケイだと罰してもらえる。
父に会えなければ母でもいい。彼女だって、伝えればすぐに可哀想だと言ってメリアを助けてくれる。
そうして新しい人に変えてもらえばいい。そもそも、今までいたメイドが戻ってくるまでの代理だというのになんて対応なのかと。
目の前を阻む蒼を睨んだところで、対峙する彼女に響くものはなにもない。
「ヴァン・エヴァンズの面会は禁止されておりますし、そもそもあなたがこの家から出ることも許可されていません」
「なによそれ! どこに行こうと私の自由じゃない!」
ここは自分の家で、会いに行くのは自分の父親だ。なぜそんなことを制限されなければならないのか。
そう叫んだって目線は冷ややかなまま。無理矢理通ろうとしたところで扉の前ではもう一人が立ち塞がっている。
「っ……お父様が戻ってきたら、あなたたちなんてすぐに追い出してやるんだから!」
父に会わないのは、自分にひどいことをしているのを知られて怒られるのを恐れているからだ。だが、ここはメリアの家でもあり、ヴァンの家でもある。
夜になれば必ず戻ってくる。そうすれば、どれだけ遠ざけようとしても無駄だ。
この腹立たしい時間は長く続かないと、そう声を張り上げてもひどい女たちの態度が変わることはない。
否、ますますその瞳は冷たく、耐えきれないというように吐かれた息は深い。
「そうですか。では、そうなさってください」
できるものなら、と。言葉の裏に込められた皮肉に気付くこともなく。服の裾を握り、睨みつける姿はただの幼子と同じ。
「私は『精霊の花嫁』なのよ!? お父様もライヒも、絶対に許さないんだから!」
そう、メリアは『精霊の花嫁』だ。特別で、大切な、ただ一人の存在。
精霊に求められ、愛される存在なのだ。だからひどいことをしてはいけないし、望みだって叶えられなければならない。
だって、今までがそうだったから。これまでずっと、そうして愛されてきたのだから。
この先だってそれは変わらない。変わるはずがない。
「どちらにせよ、我々が従うのは女王陛下ただお一人。過剰な要望を叶える道理はございません」
だというのに、この女はメリアを敬うどころかひどいことばかり強いてくる。
紅茶も変えてくれない。部屋からも出してくれない。父親に会うのでさえダメだという。
ダメだ、いけない、許されない。
そればかりを繰り返す口は……まるで、あの忌々しい兄のよう。
「女王陛下がなによ! そんなの知らないわ!」
そう考えると余計に腹の奥が煮えくり返るようで、声はますます甲高く、大きくなる。
ジョウオウヘイカ、なんて聞いたこともない。どんな相手なんかもわからない。だが、そんなものより、自分のほうがもっとずっと偉いに決まっている!
だって、『精霊の花嫁』なのだから!
「そんな奴なんかより――!」
「黙れ」
ひゅ、と。声になりそこなった空気が、喉の奥から漏れた。
まるで真冬のように冷たく、身体が震えるのに汗が流れ落ちる。
首元が締め付けられているな息苦しさにたまらず手をやっても、そこに触れているものはなく。
それがこの女性の圧に押されているせいだと少女は理解できない。
脅されるのも、他者から明確な怒りを突きつけられるのも。これが初めてである『花嫁』には。あらゆる悪意から遠ざけられた娘には、どうやったって。
「多少の失言は大目に見るよう仰せとはいえ、陛下を愚弄することは我々が許さない」
間髪入れずに挟まれた言葉は、まるで研ぎ澄まされたナイフのようだ。突き刺さったまま抉り、より深くへ潜り込もうとする。
事前に説明を受けていたからこそ、幼稚な言動も多少は寛容できた。しかし、主を侮辱され咎めぬ従者がいるだろうか。
それまで視線に込められていたのは呆れ。今は怒りを伴ったそれは幼い彼女にはさぞ辛く感じるだろう。
とはいえ、同情はしない。する余地もない。彼女たちにとって、仕えるべきは女王陛下だけなのだから。
緑から怒りが消え、代わりに浮かぶのは恐怖だ。後ずさり、椅子に躓いた拍子に腰をかけ俯く。
握り締められたドレスに皺が寄っても、震える手から力は抜けない。
メリアにとって、負の感情を向けられることは滅多にないことだ。近づく者だって限られ、見知らぬ者が呟くのはいつだって賞賛の言葉ばかり。
こんな怖い目で見られるのは、それこそ初めて。
泣き出したいのにそれもできず、縋る相手も居ない今、できるのは少しでもその視線から逃げようと身を小さくすることだけ。
――どうして、こんなことになっているの。
口に出さぬ疑問に答える者はいない。与えられるばかりのメリアが考えたところで、その答えが得られるわけもない。
満たされない疑問は、すぐに不満へとすり替わる。ここは嫌。お父様に会いたい。いつものメイドがいい。こんな女たちは嫌。
叶えられるべき願い。望むまでもなく差しだされるはずのもの。一つも満たされずに苛立ち、されどその感情をぶつけられないほどに怯えている。
どうして、こんな目に。どうして、こんなひどいことを。
視界が滲み、噛み締めた唇の隙間から呻き声が漏れる。今にも泣き出しそうなメリアを見て、さすがに彼女たちも思うところがあったのか、見つめていた瞳が逸れる。
……否、それはメリアの反応とは無関係に行われたこと。
響くノック音に対応したのは、塞いでいる方の女だ。メリアの伺いなく扉は開かれ、入室しないまま会話が始まる。
聞き慣れない言葉が行き交い、会話の内容はわからず。しばらく続いたそれは、十分に開かれた隙間によって終わりを告げる。
まずは同じ鎧を纏った女が。それから後ろに続いた人影の内、ようやく見知った姿を見つけ、衝動のままに立ち上がったのは歓喜と安堵から。
「ライヒ……!」
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