111.否定
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「……僕の父が、誰かはご存知ですよね?」
紫から迷いが消える。目的が分かれば、もう戸惑う理由はない。
ディアンが気付いた、というのにエルドも気付いたのだろう。眉が上がり、それから口元が緩む。どちらも変化としては僅かなものだが、正解だと知るにはそれで十分。
「英雄でもあり、現ギルド長。それにくわえて、精鋭を護衛に付ければ問題ないと判断したか?」
「概ねそう聞いています。父としては、妹が嫁ぐまではなに不自由なく、普通の子どものように過ごさせたいのだと」
二度目の洗礼を迎えれば、彼女は精霊界で暮らすことになる。そうなれば、もう自分たちと同じ世界には戻ってこないだろう。
今生の別れだ。人間として生きる僅か十数年を人らしく過ごさせたいと願うのは親としては当然。そして、ディアンだって彼女が苦しむことを望んでいるわけではない。
「これでも妥協した方と言っていました。でなければ、母親と街に出かけるなんてこともできなかったでしょうし」
「普通の子どもね……だったら、妹も学園には通っていたんだな?」
僅かな葛藤は、そのまま沈黙に置き換わる。
真実を告げるか否か。嘘を吐く理由はないのに、なぜかそのまま語るのははばかられ、即答できず。
「たしか、最初の洗礼が終わったら入学するんだったか」
「……基本的に、外に出ることはあまり」
これは嘘ではない。遊びに行くことはあるが、それも週に一度から二度。王城からの招集はともかく、個人で遊びに行くのは制限がかかっている。
『精霊の花嫁』としてはこれでも頻度が高いと思うが、普通の子どもなら少ない方か。
ディアンは遊びに行くことも許されていなかったので自分の経験では比較にならない。
「遊びには行くのにか? ……まぁ、教師は国が派遣しただろうし、同年代とはいえ交流を制限するって意味では正しいか」
説明しなかった分は勝手に補完してくれたようだ。嘘は吐いていないが、本当の事も言っていない。
真実とは違うかもしれないが……彼の言葉を借りるのなら、勘違いした方が悪い。
本当は知っているのか、こんな細かい部分は報告に上がっていないのか。どちらにせよ切り抜けられたと、安心したのが悪かったのだろう。
気の抜けた様子も、先ほどのエルドと同じく僅かなものだ。容易に見逃してしまうほどに小さな違和感。
だが、ディアンがそれに気付いたのと同じく。エルドが引っ掛かってしまうのも当然のこと。
「……派遣されてたんだよな?」
「……はい」
ディアンにとっては確認ではなく追撃だ。一度目は誤魔化せたが、二度目はそうはいかない。
僅かに目が泳ぎ、当たり障りのない返事をする。これも嘘ではない。
教師は派遣されたはずだ。それも王室からともなれば一流の……学園で習う以上の教育を、それも無償で。
『精霊の花嫁』なのだから当然だ。そして、金をいくら積んだってその機会に恵まれない者は何十人といる。
正直、その点に関しては羨ましいと思っていたが、全ては過去形。
派遣されて『いる』ではなく、『いた』だ。嘘ではない。嘘では、ないのだ。
「そうだよなぁ、派遣されて『いた』よなぁ」
だが、言葉遊びに引っ掛からないのがエルドという男だ。
もうその顔を見れば、気付かれているのは明らか。これからするのは無駄な抵抗とわかっていても、拒んでしまうのはなけなしの意地。
「話は変わるが……お前の妹、家でなにをしてた?」
「従者と共にお茶をしているか、読書をしているかですね」
「そうかそうか。で、教師が来ていたのはどのタイミングだ?」
……話が全く変わっていない。なんて無粋な突っ込みは無しにしよう。
思い出せるはずがない。そんな記憶、頭のどこを漁ったって見つかるはずがないのだから。
「その時間帯は学園に行っていたので、正確には……」
「週に何日来ている? 教えているのは? お前のことだ、ちゃんとどこの誰かまで分かってるんだろ?」
畳み掛けられ、いよいよ答えられなくなる。無意識に目を逸らしてしまい、誤魔化すことももうできず。
「勉強、してたんだよな?」
「……し、て、ました。本も読んでましたし……」
「何の?」
「……サミエル・ロッドや、リーシャ・エトワール……あとは、イメジアとか……」
「おいおい、小説ばっかりじゃねえか」
最後の抵抗も無駄に終わり、いよいよ諦めるしかない。
知っていて当然だ。今挙げた三人は皆、巷で人気になった恋愛小説作家なのだから。
逆に言えば、妹が読むのも同じく有名所……それも典型的で、なるべく単純なものだ。
策略が絡んでいたり、少々知識が求められるようなものは、よく分からないと言って途中で読むのを止めていた。
ディアンは元よりあまり好んで読むことはなかったし、父に知られれば読ませてももらえなかっただろう。
故にこの評価は周囲から盗み聞いた結果になるが、概ね間違ってはいないはず。
「……さすがに、大精霊の名称は言えるよな?」
これは確信ではなく、本当に疑問に思われている。
まさかそんなはずはないと、心なしか縋るような響きに聞こえるのは、頷くことができないせいか。
横にも縦にも動かせず、沈黙は続く。それを打ち切ったのはディアンではなく、やはりエルドで。
「……まじか」
溜め息こそ柔らかく、されど痛々しい。穴があったら入りたいとは、まさしくこの状況を言うのだろう。
信じられなくて当然だ。まさか『精霊の花嫁』が、精霊についても全く無知であったなんて。大精霊なんて、それこそ初等科で習う以前の常識だ。
だが、ディアンも何度か出題してもメリアが答えられた記憶はない。教えようとしても嫌がり、最後には追い出されて叱られた記憶は数え切れないほど。
大抵の子どもは、最初の洗礼を迎える前に全員を覚えている。多少間違っていたとしても、一人も答えられないなんてあり得ない。
それだけ大精霊は自分たちの生活に深く関わっており、恩恵をくださっている。自分を加護してくださっている精霊とは別に日々感謝を捧げなければならない存在だ。
今でも、ちゃんと答えられるかどうか……ディアンにはもう恐ろしくて、とても問いかけることはできない。
だが、できる限りディアンは忠告してきた。
普通の子どもでも知っていること。ならば、『精霊の花嫁』はそれ以上に理解していなければならないのだと。
興味が無いでは済まされないと。父に怒られ、母に非難され、妹に泣かれても、ディアンだけはずっと言い続けてきた。
仕置きと称して鍛錬を増やされるとわかっていても、そうしなければならないと理解していたから。
「お前、本当におかしいと思わなかったのか」
「――違うっ!」
――だからこそ、その言葉は深く、ディアンの心臓を抉り取ったのだ。
足元で見上げていたゼニスが驚き、その毛が逆立つのが視界に入っても止まらない。
腹の奥から湧き上がる温度は、目の前の鍋よりも熱く、そして勢いは強く。
違う。違う!
ディアンはずっと言い聞かせてきた。ディアンだけは、彼だけはずっと。
妹にひどいと言われようと、父に関係ないとはね除けられようと、何度だって。
だって、それは違うとわかっていたから。なにも学ばないまま、ただ日々を過ごすだけでいいはずがないと理解していたから。
だから、どれだけ言われようと、どれだけ非難されようと、ディアンだけは!
それなのに……!
「何度も言った! だけどっ――」
否定は、エルドの顔を見た途端に窄む。どんな表情をしていたかまでは認識できず、声を閉ざした原因はそうではない。
ここで訴えても……信じては、もらえないだろう。
ここまで違和感に気付かぬまま、ずっと暮らしてきたことは証明されている。この件だけ気付いていたなんて、説明したところで彼は納得しない。
妹の無知を許容していたという意味なら、過程がどうであれ同じだ。結局自分は妹に学ばせることはできなかったし、最後には諦めてしまった。
だから、この否定は……馬鹿にされたと思った子どもの癇癪と同じ。
「……す、み……ませ、ん」
俯けば、見上げる蒼と視線が絡む。それすら直視するのは辛く、なにもない空間へと逸らしても身体は逃げられない。
膝の上で握った手から力は抜けず、吐き出した息をどれだけ繕おうとも震えは隠せず。
違うのにと、なおも諦め悪く証明したがる感情を抑え付ける感覚は、今まで何度も体験してきたはずなのに慣れない。
「……お前が家を出たのは、それが原因か」
問いかけではない言葉に返せる声はなく、俯いたままの顔を上げることもできず。だが、納得したようなその声に、締め付けられるような感覚が薄らいでいく。
「父親たちは、それを咎めなかったんだな」
言葉はまだ返せない。否定しないのが答えだと、判断を委ねるのは甘えと理解しても、無意識に噛んだ唇を離すことだって難しい。
「……それも、本人が嫌がったからか」
パチンと、薪が爆ぜる。続く声も、促す声もなく。静寂は続き、ただじっと待ち続けるだけ。
やがて顎から力が抜け、指先は握り直し。そうして、ようやく視線が上がる。
赤に照らされる薄紫。その光は柔らかく、温かく……いつもと、同じ。
頷き、再び落ちかけた視線を吐かれた息が引き留める。寄せた眉はディアン以上に辛そうで、一度伏せた目蓋は耐えられないと言わんばかり。
「……悪かった」
そして……そして呟かれた謝罪は、ディアン以上に苦しそうなもの。
「い、いえ。あなたが、悪いわけじゃ……」
そうエルドは問いかけただけだ。なにも悪くはない。
悪いとするなら、それは……きっと、ディアンの方で。
「いや、そうなんだが、そうじゃないっつうか……」
落ち込みかければ、煮えきれない否定が引き留める。首を傾げるよりも先に髪が掻き混ぜられ、もう一度吐いた息は比較的軽いもの。
「傷を抉るようで悪いが、あの夜になにがあった」
脳裏をよぎるのは、妹の泣き声だ。
ディアンが全て悪いのだと喚き、なじり、責め立てるあの甲高い声。容赦なく殴りつけられた痛み。一週間前のはずの出来事なのに、もう遠い昔のよう。
そう、過去のことだ。もうあの家には戻らない。妹には二度と会わず……父にだって、会うことはない。
思い出として語るにはあまりに浅く、説明として話すには時間が経ちすぎた。
中途半端な記憶の中。確固として残るのは、揺らぐことのない決意。
「……少し、長くなります」
「元から暇つぶしだろ」
「あなたが知っていることも、繰り返し話すかもしれません」
「お前の口から聞くのはこれが初めてだな」
「……話している間に、鍋が煮えるかも」
「煮込んだ方が美味しくなる」
逃げ道は塞がれたが、最初から逃げようとは思っていない。
そう、だってこれは辛い記憶ではない。まだ吹っ切れてはいないけれど、それでも……もう、過去の話。
目の前にいるのは、ディアンの話を聞かずに否定し、最後には力でねじ伏せた男でも。一方的にディアンを責め立て、なにもかも拒絶した女でもない。
ディアンを愚かだと嗤う青年でも、盲目に信じ疑いもしなかった少女でもない。
目の前にいるのは彼だけ。ディアンを見つめ、大丈夫だと伝える光だけ。
背筋を伸ばし、一度だけ目を瞑って、それから拳をほどいて汗を拭う。
そうして鼻から息を吸えば、語り始めるのに抵抗はなかった。
「じつは――」
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