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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第三章 一週間

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104.くだらない話

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「……たしかに、犬は飼っていました。僕が子どもの頃にですけど」


 小さな沈黙に続くのは薪の爆ぜる音。姿勢はそのまま、見上げた男に促され、視線は無意識に落ちていく。


「街で見かけたからって、妹が欲しがったんです。大きさは……多分、このぐらいだったはず」


 示したサイズは腕の半分ほど。当時はディアンも幼く誇張も入っているだろうが、小さな妹が抱えられたことを考えれば大きく外れてはいないはず。

 経緯こそ知っているが、その姿を実際に見たわけではない。

 観劇か、買い物か。いつだって付き添うのは母親と護衛で、ディアンがその類の娯楽に連れて行かれたことはない。

 残っている記憶も、王国側……つまりは英雄繋がりで招かれたものばかりで、ディアンの意思はいつだって関係なかった。


「当時の流行はわかりませんが、今でも人気の種だったはずです。次の日には妹が望んだ通りの子が家に来ました。クリーム色の、ふわふわの毛をした可愛い女の子。まだ産まれて数ヶ月程度の小さい子でした」


 話が逸れたと筋を戻し、その頃からなら記憶があると思い返す。

 可愛らしく包装された箱、中から聞こえる鳴き声。喜び開封した妹が両親に礼を言う姿もまだ覚えている。

 大切にすると約束し、同じく与えられたオモチャで遊んでいる姿。それを可愛いと、愛らしいと、そう微笑む周囲だって。

 そして、それが長く続かなかったことも。今だってこんなに鮮明だ。


「最初の頃は気に入っていたようですが、妹は欲しがるわりにはすぐ飽きやすくて。生き物……それも子犬でしたから、自分の言うことを聞かないことも相まって、一ヶ月もしないうちにいらないと言いだしたんです」


 切っ掛けこそ些細すぎて覚えていない。

 芸を覚えなかったか、呼んでもそばに来ないことがあったからか。あるいは、手に入ったという事実に欲求が満たされたからか。

 もういらないと言いだした頃、まだ彼女が子犬と呼べる大きさだったかまでは覚えていない。


「物なんかはそのまま捨てられることが多かったんですが、さすがに生き物でしたから。目につかない場所にと、中庭に小屋を建ててそこに繋ぐようになったんです」

「目につかないだけなら、他の部屋もあっただろ。わざわざ外に?」

「……母が、嫌がったもので」


 可愛い娘の願いだからこそ、嫌いな動物を中に棲まわせることも我慢できた。

 その娘が不要と言い、しかし処分することもできないのなら、隅にでも追いやるしかない。

 いっそ他の者に譲渡すればよかったのに、そうしなかったのは人目を気にしたからか。『花嫁』自らが生き物の命を弄ぶような真似、たしかに知られればなんと言われることか。

 鎖に繋がれ、毎日餌を与えられるだけの生活。開放する気もなく、まるで奴隷のような扱い。

 最初から興味のなかった父も、王城から遣わされているメイドたちも、必要以上に接することはなく。

 ……そこでやっと、ディアンが触れ合うことを許されたとは、今考えれば皮肉なものだ。


「それからは僕が世話をしていたんです。と言っても、したのは躾だけで……ご飯やトイレは他の人がしていたので、世話と言っていいものか」

「順調だったか?」

「正直に言うと、かなり手こずりました。それまでずっと愛玩用として育てられていたので、躾らしいことはなにも。躾だって本を見ながらだったし、何度父に怒られたことか」


 そんなのに構っている暇があれば剣を振るえと。無駄なことに費やす時間はないのだと見下ろす金は、あの頃も今も変わっていない。

 本だったなら素直に閉じた。食事であれば手を置いただろう。なにかを話していたなら口を閉ざし、言われるままに従っていた。

 逆らったのは犬のことだけだ。鍛錬と称して走り込みに行く時に散歩にも連れて行ったし、無駄吠えも甘噛みも根気強く向き合い、してはならないことだと教え込んだ。

 お風呂こそ入れられなかったが、ブラッシングは数日おきに。

 食べてはいけないもの、してはいけないこと、ディアンが教えられる限りのことはほとんど行ったはずだ。


「でも、数ヶ月すれば教えることもほとんどなくなって。僕が剣の練習をすればそばで見守ってくれたし、無理をしたなら心配してくれるいい子だったんです」


 今思えば、それがあったからこそ訓練も続けられたのかもしれない。

 夕食抜きで剣を振るうよう言いつけられた時も、日が暮れるまで走れと言われた時も、なにもかも上手くいかずに苛立ちを抱いていた時だって。

 ただ寄り添ってくれる相手がいるだけで救われるのだと、当時の自分が理解していなかったとしても……それは、確かに幼いディアンにとっては救いだったはず。


「たまにやんちゃもされましたけど、大きくなってからは変な悪戯だってしなかったし……本当に、優しい子で……」

「……いなくなったのは」


 視線は落ちない。もう、既に地を見つめているから。唇は閉じない。思い出している間に、自然と閉じていたから。

 ただ、当時を思い出すように。ゆっくりと瞬きが、一つ。


「……あの子が成犬になって、しばらくしてから。ある日、学園から帰ってきたときにはもういませんでした」

「なぜ?」

「妹が、」


 思い出し、込み上げ。途切れる理由などないのに、言葉が、詰まる。

 もう昔のこと。あの子の名前さえも忘れてしまうほどの前。辛かったのはその時だけ。なんてことはない。

 だって、今さら思い出しても、なにも変わらない話ではないか。


「……あの子に、襲われたからと」


 覚えている。ディアンは覚えている。

 抜け殻になった犬小屋も。鎖ごとはずされた首輪も。泣き喚く妹の姿も、なじる母の声も。否定する自分を叱りつける父の声だって全部、全部。


「なにもしていないのに突然飛びかかってきたと。妹に怪我こそありませんでしたが、それでも危険だからと……そこからどこに連れて行ったかまでは……」


 聞いたところで連れ戻すことはできなかった。

 どんな理由であれ、『精霊の花嫁』に危害をくわえようとした存在を放置しておく訳にはいかない。それが人でないならばなおのこと。

 言葉が通じないなら引き離すしかない。正当な理由があれば誰も非難はせず、されたとしてもディアン一人だけ。

 躾と称し、実際は妹を害するように仕向けたのであろうと。

 根も葉もない噂だ。それがいつ広がり、いつ収まったかだって覚えていない。その度に何度否定し、言い争い、そしてねじ伏せられたことか。

 事実でなかろうと、そう思われるような態度を取っていたお前が悪いと。何度も、何度も、何度も。

 あの子が襲うわけがないと。そもそも妹が近づかなければ、あの子だってなにもしなかったと。

 反論する度に妹は泣き、母は非難し、父は怒り……いつから、考えないようになってしまったのだろう。

 小屋もいつの間にか無くなり、首輪はあの子ごと持って行かれてしまった。形としてあるものはなく、残っているのは自分の記憶だけ。


「今思えば、香水に反応したんだと思うんです。あの日は街に出かけたと言っていたから、もしかしたら母に連れられた先で付けたのかもしれません」

「材料にもよるが、獣が興奮する物も確かにあるな。……その感じだと、本当の理由はわからずじまいか」

「……僕が、」


 指先の力を抜き、息を吐く。無意識に行ったそれで、どれだけ力が入っていたかを自覚したって。全て、無意味。


「妹に飛びかからないよう、躾をしなかったのが悪いと」

「……父親か、母親か」


 肘は膝の上。だが、頬をつく手はなく。組まれた指は、落ちたディアンの視界に辛うじて入り込む。


「父親だな」


 確信めいた響きを否定することはできず。それでも、頷き一つ返せないまま。吐き出された溜め息だって、エルドの唇から漏れたものだ。


「なるほどな。そんな気はしていたが……そうか」


 謝るでも、追求するでもなく。納得できたと呟く声はとても静か。続く言葉だって、あまりにも呆気なく。


「随分と甘やかされたようだな。『花嫁』様は」


 ――ゆえに、反応が遅れたのは言い訳だろうか。

 目を見開き、顔を上げ。見たはずの薄紫は重ならない。視線は開けた鍋の中、立ちのぼる湯気に向かって。

 まだ煮込んで数分と経っていないのだから、焦げ付く心配もないはず。必要の無い動作だと理解したのは、その手つきがあまりにもゆっくりとしていたから。

 衝動こそ強かったが、押し上げられた鼓動が落ち着いていく。まずは目が、それから手が。順番に力が抜け、最後にようやく……息を、吐く。


「……最初から気付いていたんでしょう」


 予想していたことだ、驚くことなんてない。むしろ、まだバレていないと思う方がおかしいのだ。

 気付く要因はいくらでもあった。そう、ディアンが意識していたって避けられないほどには。


「自分の名前がどれだけ広まっているか自覚するべきだったな」

「いいえ」


 それも確かにあっただろう。だが、否定が出たのはそうではないと分かっていたから。

 瞳が絡めば、強い光に鼓動が跳ねる。息を吸い、背を伸ばし、声を紡ぐのは覚悟から。


「町からここに来るまでに、整理がつきました。今までこの話題を避けていたのは、僕が知るべきではないと判断していたからです」


 蓋が閉まる。レードルから離された手は膝の上に戻り、再び組まれた指はどこか固い。

 視線は絡んだまま。離さないまま。逸らしては、いけないまま。


「……エルド」


 もう一度、息を吸う。絡む光は促すことも拒否することもなくただ待っている。

 ディアンが、ディアン自身の言葉で語り出すその瞬間を。ただ、じっと。


「僕が家を出たあの夜、あの場にいたのは……僕に用があったからなんですね」

「……改めてなにを言うかと思えば」


 深い溜め息は心底呆れるものだ。もう聞き飽きたと繰り返されるそれに、もう騙されることはない。


「言っただろ、野暮用だって。その理由だって散々――」

「否定はしないんですね」


 苦笑が歪む。ゆっくりと元に戻る口から漏れる息は先ほどよりも軽く、しかし重く。

 そう、彼は嘘はつかなかった。今までもずっと、嘘だけは。

 誤魔化し続けていただけだ。そうだと勘違いするように、ディアンの物わかりがいいことを逆手に取って。ずっと、隠し続けていただけ。


「……そういう聞き方はずるいんじゃねえのか」

「あなたに比べれば、これぐらい可愛らしいのでは?」

「言うようになったなぁお前……」


 一体誰に似たのかと、肩こそ竦めてもディアンの表情は変わらない。一度瞬き、鼻から息を吸う。鍋の匂いは届かず、冷たい空気が全身を巡る。

 それでも、刻む鼓動を落ち着かせるには到底足りず。


「エルド」


 僅かに寄せられる眉。不快でも、怒りでもなく。困惑から来るそれに、逆の立場なら微笑みかけることもできただろう。

 彼がいつもそうしてディアンを落ち着かせるように。安心させるように。大丈夫だと、伝えるように。

 だが、ディアンはエルドではない。彼のようには、なれない。

 ……故に、ディアンにしかできない方法で。彼に問いかけるしかないのだ。


「話をしましょう。……煮えるまで、まだ時間がありますから」


 あなたが先にそう言ったのだと。拾った言葉を投げかけた薄紫が、僅かに細まった。

閲覧ありがとうございます。

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次回は番外編を一つ挟んでからの新章です。

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