104.くだらない話
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「……たしかに、犬は飼っていました。僕が子どもの頃にですけど」
小さな沈黙に続くのは薪の爆ぜる音。姿勢はそのまま、見上げた男に促され、視線は無意識に落ちていく。
「街で見かけたからって、妹が欲しがったんです。大きさは……多分、このぐらいだったはず」
示したサイズは腕の半分ほど。当時はディアンも幼く誇張も入っているだろうが、小さな妹が抱えられたことを考えれば大きく外れてはいないはず。
経緯こそ知っているが、その姿を実際に見たわけではない。
観劇か、買い物か。いつだって付き添うのは母親と護衛で、ディアンがその類の娯楽に連れて行かれたことはない。
残っている記憶も、王国側……つまりは英雄繋がりで招かれたものばかりで、ディアンの意思はいつだって関係なかった。
「当時の流行はわかりませんが、今でも人気の種だったはずです。次の日には妹が望んだ通りの子が家に来ました。クリーム色の、ふわふわの毛をした可愛い女の子。まだ産まれて数ヶ月程度の小さい子でした」
話が逸れたと筋を戻し、その頃からなら記憶があると思い返す。
可愛らしく包装された箱、中から聞こえる鳴き声。喜び開封した妹が両親に礼を言う姿もまだ覚えている。
大切にすると約束し、同じく与えられたオモチャで遊んでいる姿。それを可愛いと、愛らしいと、そう微笑む周囲だって。
そして、それが長く続かなかったことも。今だってこんなに鮮明だ。
「最初の頃は気に入っていたようですが、妹は欲しがるわりにはすぐ飽きやすくて。生き物……それも子犬でしたから、自分の言うことを聞かないことも相まって、一ヶ月もしないうちにいらないと言いだしたんです」
切っ掛けこそ些細すぎて覚えていない。
芸を覚えなかったか、呼んでもそばに来ないことがあったからか。あるいは、手に入ったという事実に欲求が満たされたからか。
もういらないと言いだした頃、まだ彼女が子犬と呼べる大きさだったかまでは覚えていない。
「物なんかはそのまま捨てられることが多かったんですが、さすがに生き物でしたから。目につかない場所にと、中庭に小屋を建ててそこに繋ぐようになったんです」
「目につかないだけなら、他の部屋もあっただろ。わざわざ外に?」
「……母が、嫌がったもので」
可愛い娘の願いだからこそ、嫌いな動物を中に棲まわせることも我慢できた。
その娘が不要と言い、しかし処分することもできないのなら、隅にでも追いやるしかない。
いっそ他の者に譲渡すればよかったのに、そうしなかったのは人目を気にしたからか。『花嫁』自らが生き物の命を弄ぶような真似、たしかに知られればなんと言われることか。
鎖に繋がれ、毎日餌を与えられるだけの生活。開放する気もなく、まるで奴隷のような扱い。
最初から興味のなかった父も、王城から遣わされているメイドたちも、必要以上に接することはなく。
……そこでやっと、ディアンが触れ合うことを許されたとは、今考えれば皮肉なものだ。
「それからは僕が世話をしていたんです。と言っても、したのは躾だけで……ご飯やトイレは他の人がしていたので、世話と言っていいものか」
「順調だったか?」
「正直に言うと、かなり手こずりました。それまでずっと愛玩用として育てられていたので、躾らしいことはなにも。躾だって本を見ながらだったし、何度父に怒られたことか」
そんなのに構っている暇があれば剣を振るえと。無駄なことに費やす時間はないのだと見下ろす金は、あの頃も今も変わっていない。
本だったなら素直に閉じた。食事であれば手を置いただろう。なにかを話していたなら口を閉ざし、言われるままに従っていた。
逆らったのは犬のことだけだ。鍛錬と称して走り込みに行く時に散歩にも連れて行ったし、無駄吠えも甘噛みも根気強く向き合い、してはならないことだと教え込んだ。
お風呂こそ入れられなかったが、ブラッシングは数日おきに。
食べてはいけないもの、してはいけないこと、ディアンが教えられる限りのことはほとんど行ったはずだ。
「でも、数ヶ月すれば教えることもほとんどなくなって。僕が剣の練習をすればそばで見守ってくれたし、無理をしたなら心配してくれるいい子だったんです」
今思えば、それがあったからこそ訓練も続けられたのかもしれない。
夕食抜きで剣を振るうよう言いつけられた時も、日が暮れるまで走れと言われた時も、なにもかも上手くいかずに苛立ちを抱いていた時だって。
ただ寄り添ってくれる相手がいるだけで救われるのだと、当時の自分が理解していなかったとしても……それは、確かに幼いディアンにとっては救いだったはず。
「たまにやんちゃもされましたけど、大きくなってからは変な悪戯だってしなかったし……本当に、優しい子で……」
「……いなくなったのは」
視線は落ちない。もう、既に地を見つめているから。唇は閉じない。思い出している間に、自然と閉じていたから。
ただ、当時を思い出すように。ゆっくりと瞬きが、一つ。
「……あの子が成犬になって、しばらくしてから。ある日、学園から帰ってきたときにはもういませんでした」
「なぜ?」
「妹が、」
思い出し、込み上げ。途切れる理由などないのに、言葉が、詰まる。
もう昔のこと。あの子の名前さえも忘れてしまうほどの前。辛かったのはその時だけ。なんてことはない。
だって、今さら思い出しても、なにも変わらない話ではないか。
「……あの子に、襲われたからと」
覚えている。ディアンは覚えている。
抜け殻になった犬小屋も。鎖ごとはずされた首輪も。泣き喚く妹の姿も、なじる母の声も。否定する自分を叱りつける父の声だって全部、全部。
「なにもしていないのに突然飛びかかってきたと。妹に怪我こそありませんでしたが、それでも危険だからと……そこからどこに連れて行ったかまでは……」
聞いたところで連れ戻すことはできなかった。
どんな理由であれ、『精霊の花嫁』に危害をくわえようとした存在を放置しておく訳にはいかない。それが人でないならばなおのこと。
言葉が通じないなら引き離すしかない。正当な理由があれば誰も非難はせず、されたとしてもディアン一人だけ。
躾と称し、実際は妹を害するように仕向けたのであろうと。
根も葉もない噂だ。それがいつ広がり、いつ収まったかだって覚えていない。その度に何度否定し、言い争い、そしてねじ伏せられたことか。
事実でなかろうと、そう思われるような態度を取っていたお前が悪いと。何度も、何度も、何度も。
あの子が襲うわけがないと。そもそも妹が近づかなければ、あの子だってなにもしなかったと。
反論する度に妹は泣き、母は非難し、父は怒り……いつから、考えないようになってしまったのだろう。
小屋もいつの間にか無くなり、首輪はあの子ごと持って行かれてしまった。形としてあるものはなく、残っているのは自分の記憶だけ。
「今思えば、香水に反応したんだと思うんです。あの日は街に出かけたと言っていたから、もしかしたら母に連れられた先で付けたのかもしれません」
「材料にもよるが、獣が興奮する物も確かにあるな。……その感じだと、本当の理由はわからずじまいか」
「……僕が、」
指先の力を抜き、息を吐く。無意識に行ったそれで、どれだけ力が入っていたかを自覚したって。全て、無意味。
「妹に飛びかからないよう、躾をしなかったのが悪いと」
「……父親か、母親か」
肘は膝の上。だが、頬をつく手はなく。組まれた指は、落ちたディアンの視界に辛うじて入り込む。
「父親だな」
確信めいた響きを否定することはできず。それでも、頷き一つ返せないまま。吐き出された溜め息だって、エルドの唇から漏れたものだ。
「なるほどな。そんな気はしていたが……そうか」
謝るでも、追求するでもなく。納得できたと呟く声はとても静か。続く言葉だって、あまりにも呆気なく。
「随分と甘やかされたようだな。『花嫁』様は」
――ゆえに、反応が遅れたのは言い訳だろうか。
目を見開き、顔を上げ。見たはずの薄紫は重ならない。視線は開けた鍋の中、立ちのぼる湯気に向かって。
まだ煮込んで数分と経っていないのだから、焦げ付く心配もないはず。必要の無い動作だと理解したのは、その手つきがあまりにもゆっくりとしていたから。
衝動こそ強かったが、押し上げられた鼓動が落ち着いていく。まずは目が、それから手が。順番に力が抜け、最後にようやく……息を、吐く。
「……最初から気付いていたんでしょう」
予想していたことだ、驚くことなんてない。むしろ、まだバレていないと思う方がおかしいのだ。
気付く要因はいくらでもあった。そう、ディアンが意識していたって避けられないほどには。
「自分の名前がどれだけ広まっているか自覚するべきだったな」
「いいえ」
それも確かにあっただろう。だが、否定が出たのはそうではないと分かっていたから。
瞳が絡めば、強い光に鼓動が跳ねる。息を吸い、背を伸ばし、声を紡ぐのは覚悟から。
「町からここに来るまでに、整理がつきました。今までこの話題を避けていたのは、僕が知るべきではないと判断していたからです」
蓋が閉まる。レードルから離された手は膝の上に戻り、再び組まれた指はどこか固い。
視線は絡んだまま。離さないまま。逸らしては、いけないまま。
「……エルド」
もう一度、息を吸う。絡む光は促すことも拒否することもなくただ待っている。
ディアンが、ディアン自身の言葉で語り出すその瞬間を。ただ、じっと。
「僕が家を出たあの夜、あの場にいたのは……僕に用があったからなんですね」
「……改めてなにを言うかと思えば」
深い溜め息は心底呆れるものだ。もう聞き飽きたと繰り返されるそれに、もう騙されることはない。
「言っただろ、野暮用だって。その理由だって散々――」
「否定はしないんですね」
苦笑が歪む。ゆっくりと元に戻る口から漏れる息は先ほどよりも軽く、しかし重く。
そう、彼は嘘はつかなかった。今までもずっと、嘘だけは。
誤魔化し続けていただけだ。そうだと勘違いするように、ディアンの物わかりがいいことを逆手に取って。ずっと、隠し続けていただけ。
「……そういう聞き方はずるいんじゃねえのか」
「あなたに比べれば、これぐらい可愛らしいのでは?」
「言うようになったなぁお前……」
一体誰に似たのかと、肩こそ竦めてもディアンの表情は変わらない。一度瞬き、鼻から息を吸う。鍋の匂いは届かず、冷たい空気が全身を巡る。
それでも、刻む鼓動を落ち着かせるには到底足りず。
「エルド」
僅かに寄せられる眉。不快でも、怒りでもなく。困惑から来るそれに、逆の立場なら微笑みかけることもできただろう。
彼がいつもそうしてディアンを落ち着かせるように。安心させるように。大丈夫だと、伝えるように。
だが、ディアンはエルドではない。彼のようには、なれない。
……故に、ディアンにしかできない方法で。彼に問いかけるしかないのだ。
「話をしましょう。……煮えるまで、まだ時間がありますから」
あなたが先にそう言ったのだと。拾った言葉を投げかけた薄紫が、僅かに細まった。
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次回は番外編を一つ挟んでからの新章です。





