102.卑怯者は
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反応したのは名を呼ばれたからではなく、それが偽名ではなかったことだ。
うっかり、とは思えない。その響きは確かに、そう望んでディアンを呼んだ。もはや隠す必要はないということなのか。それとも……本名で呼ぶ理由があるのか。
明かされないだろうと立ち上がり、呼ばれるまま前に進む。付き従う足音に緊張は和らぎ、少しだけ心強い。
さほどない距離はあっという間に縮まり、笑顔を浮かべる夫婦と対峙する。
差しだされているのは茶色い布に包まれたなにかだ。落としきれていない埃の量からして、相当の年代物とみえる。
「急いでいるところをごめんなさいね。これをあなたに渡したくて……」
「いえ、それは……あの、中を見ても……?」
急いでいるのは彼だけと告げるのはさすがに憚られ、促されるまま包みを手に取る。
隙間から覗く白。丁寧に剥がした指が止まったのは、そこに施された色とりどりの刺繍を視認するまで。
細部までは覚えていない。だが、一度見ればとても忘れられないこれは、紛れもなく――。
「だ、ダメです。これは息子さんの花嫁に受け継ぐものだと……!」
慌てて外布を戻し、差しだした荷を受け取る手は下ろされたまま。彼女が受け取ってくれないのならと夫の方に向けても笑みは変わらず。
「それはね、もう一人娘が生まれたときのために私が作ったものなの。もう随分昔に作ったから、展示しているものより綺麗じゃないけれど……」
受け継いだものではないと言われても、それが受け取る理由にはならない。
少し見ただけでもいかに丁寧に刺されたか。その一針一針に込められた想いは、十分過ぎるほどに伝わってくる。
「結局、もう一人授かることはできなかったけれど……もしよかったら、受け取ってはくれないかしら」
このままでも使い道はないのだと、そう言われても素直に頷くことはできない。
この布に込められた意味は昨日説明されたばかりだ。精霊へ嫁ぐ花嫁のための衣装。それがどこまで周知されているかはともかく、ディアンが受け取っていいものではない。
精霊ではなく人同士の婚姻で纏うのだとしても……真に受け取れる資格があるのはディアンではなく、実際に『花嫁』と呼ばれている彼女で。
「私からもお願いいたします」
老婆だけでなく、主人からも促される。それでも素直に頷くことは、あまりにも難しい。
「でも……貴方がたを助けたのは教会で、恩を返すべきは彼です。僕は、これを受け取れるだけのことは……なにも……」
そう、最初から最後まで。助けたのは教会で、救ったのはエルドだ。
彼らを倒したのも、教会がこれだけ動いたのも、全ては彼がここにいたから。
ディアンはそばにいただけだ。ただそばで、それを見ていただけ。なにも褒められることはしていないし、受け取るだけのことはなにもしていない。
「貴方様がそれを受け取ってくださることが、この御方への感謝にもなるのです」
たまらず見上げた瞳は合わさらない。薄紫は夫婦を見つめて、ディアンに向けられることはなく。
それはわざとなのか、その姿を焼き付けているのか。今の彼が見極めることは、あまりに困難。
僅かな葛藤は、一つ頷くことで胸の奥に落とした。ここで断ることが彼女たちの凝りになるのなら、これを大切に持っておくのが最善だ。
本来持つべき者には渡らずとも。いつか教会へ直接届けることになるとしても、この旅の間だけは。
「……ありがとう、ございます。……大切に、預かります」
荷の中に入れるのは整理を終えてからだと。汚さないようにしっかり包みなおし、腕に抱えた重みは増す。
「あの……お二人とも、どうか息災で」
次にまた会えるとは限らない。そもそも、この国に戻ってくるかすら。戻ってきたとしても、この町の本来の姿を見えるかだって。
深く礼をすれば、同じように礼が返される。そうして、見上げられたエルドの表情は……ようやく、少し柔らかい。
「どうか、貴方様方の旅路に、幸があらんことを」
「……あなたたちに精霊の加護があらんことを」
促され、今度こそ町の入り口へと向かう。
宣言通り手は繋がずとも後ろに付き従い、いつもと違うのはゼニスの立ち位置が彼ではなくディアンの横にあること。
まだ彼も腹に据えかねているのかと、苦笑もできないのは感情こそ違っても抱えているという事実は同じだからこそ。
自分たちが見えなくなるまで夫婦は見送り続け、やがてその笑みも見えなくなり……ディアンの足が止まる。
ついてこない音に反応した男が振り返り、間に入るのは白い影。
「エルド」
呼ぶ声は、特別弱いわけでも、強い訳でもない。だが、今度こそ無視はしないでくれと。芯のある響きは男の視線を逸らすことも許さず。
「……なんだ」
「詳しい話は後とはわかっています。ですから、これだけは先に聞かせてください」
結果は覆らない。説明がなければ納得もできず。だが、そうなってしまったことを今さら騒ぎ立てても意味はない。
そう、だからこの質問だってディアンの自己満足だ。それでも得られるのは、この胸に渦巻く困惑を一時的に落ち着かせるだけの、確固たる理由。
「なぜ女王の命に背いてまで、僕と旅を続けようとしているんですか」
目的を果たすだけなら、あの場で向かえばよかった。それが彼の役目であり、なによりも果たさなければならない任務。
逆らう理由などなかったはずだ。それが、たとえディアンの望んでいない形であっても、結局向かうことには変わらない。こんなのただの手間ではないか。
全てを振り払い、それでもこの道を行く理由。それが得られなければ、ディアンは進めない。進みたくない。
「……言っただろ。俺が咎められなけりゃ、旅を続けたいって」
見据える薄紫が閉ざされる。そうして吐かれた溜め息は、どの感情からなのか。
「俺の立場はちょっと特殊でな。確かに『中立者』としてはあり得ない対応ではあるが、今回に関しては俺自身が罰せられることはない。お前自身の症状も門を通るにはまだ負担が大きすぎるし、あそこで無理矢理同行する理由は――」
言葉は音に遮られる。大きく吠え、唸り、牙を剥く。屈んだ姿勢は今に飛びついてもおかしくない。
だが、ディアンがそれを止めることも焦ることもなく、ただ待つだけだ。本当の理由を。彼が、誤魔化そうとした言葉を。ただ、じっと。
「ゼニス」
名を呼んでも返されるのは唸り声と、紫色の催促のみ。もう一度名を呼んでも結果は同じ。
紫と蒼、そして薄紫は交差し……やはり、先に折れたのはエルドの方。
深い、深い溜め息は諦めだ。顔を押さえ、俯き。息を吐ききってもまだ音は紡がれず。
「……俺が、」
呟かれると共に、唸り声が止まる。だから、その小さな音を聞き漏らすことはなく。意識はその唇へ注がれる。
「俺が、そうしたかった。……それに、お前を巻き込んだ」
それが答えだと、最後にもう一度吐かれた息は地の底に沈みそうなほど。
「……悪い」
それきり黙り込んだのを合図に、見上げた蒼と見つめ合う。言葉は伝わらずとも、意思はきっと同じ。
溜め息には溜め息を返し、荷物を持ち直す。ついでにゼニスを一度撫でて、柔らかな毛で感情を誤魔化すのは少し卑怯だっただろうか。
「日が落ちる前に、山を降りるんでしょう」
通り過ぎ、振り返り。そうして見上げる。
その一連を見届けた男の答えは……声ではなく、苦笑で返された。
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