[35話] 左腕
あの日、絶死の淵にあった俺に語りかけてきた《支援A.I》。言語野を獲得し、日々緩やかに成長し続ける《特異個体》。
頑固で、健気で、時折無責任なことを平気で言う、俺の《相棒》。
そんなアイツが破壊されようとしている……しかも俺を逃がすために。
『My Master! Get away!! (マスター! 逃げて!!)』
自己犠牲 ―― 人間以上と評されるBクラスA.Iですら、そうした自発行動を取ることは有り得ない。
“止めろ! 外部スピーカーを切れ!”
《怪物》の嫌忌音 ―― 公社と州軍の合同研究チームが偶然発見した超音波域の特定パターン。《怪物》同士の意思疎通に使われている可能性が示唆されるソレは、近距離に限定すれば中程度の誘引効果が発生する事が実証されている。
きっと相棒はその嫌忌音を最大ボリュームで鳴らし、注意を引いているのだ。
“今すぐスピーカーを切れ! 命令だ!”
内心で絶叫を上げるが、喉からは怪しげな呼吸音だけが漏れる。
“怪物相手に場当たりな戦闘を挑んだ顛末がコレかよ! 《公社》お抱えの個人戦闘のプロ《請負人》がなんてザマだ!”
己を罵倒し、あらんばかりの意志を総動員しても、指先一つ動こうとしない。
Bump! 重量物がコンクリ-トを踏みつける音が聞こえた。
全身の血が一気に凍るような感覚が俺を包む。
Bump! Bump! Bump! Bump! Bump! Bump! Bump!
暗闇の向こう側で執拗に繰り返される踏みつけ音。途絶する無線の声。
Bump!! それを最後に、階層全体が深い静寂に包まれた――。
“…………おい……やってくれ……たな……このクソ野郎…………”
「ゴ……ロス」
喋れなかった喉から呪詛が溢れ出て、動かせなかった指先が床に爪を立てる。
相棒を救えなかったのに、再び動き出そうとする己の肉体。
際限なく押し寄せる自己嫌悪を上書きする、制御不能な激情。
渾身の力で喉奥の血塊を吐き出し、ジットリ濡れた掌の手洟で鼻腔の血を掻き出す。肺に埃臭い空気が満たされるのと同時に、強烈な腐臭が漂うのに気づいた。
――《怪物》だ!
隠すつもりが微塵も感じられない脚音に、ぼんやりと浮かび上がる体躯。
紅色に一点爛々と闇に揺らめくのは、残存する目玉か?
しかも先程までと違い、胴体前面の装甲がスライドし大きな口を開けていた。
《貪欲な顎》 ―― ヒトの肉体を刻み、擦り潰し、呑み込むための器官。
内部では幾重もの鋭利な回転する挽肉刃が、微かな回転音を立てている。腐臭の発生源が何処かは言うまでもない……。
鉄塊の重さに感じる身体を震わせて立ち上がった俺は、両腕をブラ下げたまま暗闇から近づく怪物と対峙する。
“いいぜ、トドメを刺す気になったか? ”
立ってるのがやっとの身体。今、俺から仕掛ける力は何処にも残ってはいない。
“どうした来いよ? コッチは死に損ない一人だ”
怪物との距離が2mにまで迫る。それでも今の俺には未だ遠い。
“もっと寄って来いよ!”
目と鼻の先、僅か1m。
「来いよぉぉお!!」
血痰が絡んだ絶叫を合図に、金属爪と思しき鈍い煌めきが振りかぶられた。
そのまま爪による薙ぎ払いを待たず、俺は血塗れの口からたどたどしいラテン語を吐き出させる。
「今こそ、さもなくばありえず」
――動甲冑を《オーバーブースト》に移行させる暗証コード。
化学血液の劣化と大量漏出、更には人工筋肉の損傷という満身創痍の中、全身のサイズを膨れ上がらせる動甲冑。純粋な殺意と呼ぶべきドス黒い感情が、ボロボロの肉体を怪物に跳び掛からせた。
“《オーバーブースト》は持って数秒。《怪物》を確実に屠るためには!!”
爆発的な加速で爪撃を掻い潜った俺は一切躊躇うことなく、手刀の形に固めた左手を《顎》の内部へと突き立てる。
頑丈なグローブに守られた貫手が内部機構の幾つかを潰した感触。
背筋を震わす浮遊感に加えて、指先からは強烈な痛みと熱さ。
足先に続いて左手指が喪失した事実を無視し、右腕一本で怪物の動きを封じにかかる。すかさず、動甲冑の背中に振り下ろされる怪物からの肘打ち。
身体の奥底まで響く打撃に何発も耐え、さらに奥へ突き進む俺の左腕。
が、ついに左腕の動甲冑が粉砕されたらしく――騒音や火花だけでなく血液までが《顎》から噴き出し、俺と怪物をビショ濡れの姿に変えてしまう。
今や密着することで、鼻先にある目玉。
その紅色に灯った怪物の眼に視線を重ねる。
自然と浮かんだ薄ら笑いに口元を歪め、俺はごく小さな声で囁いた。
「腕を噛み砕けないのが、そんなに不思議か?」
怪物がどこか慌てた様子で、俺の脇腹に爪を突き立てる。
尖った複数の金属が皮膚を突き破る感触。だが、もう遅ェ!
「 あばよ! 」
直後、くぐもった短い爆音が周囲を震わした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
濛々たる塵埃が床に舞い降りていく気配。
埃で真っ白に違いない顔面から薄く目を開くと、ブスブスと煙を上げ胴部を酷く歪ませた残骸が転がっていた。
「悪ぃな……俺の左腕は手前のお仲間が喰っちまってな 」
そうなんとか吐き捨てると、立ってはいられなかった。
ガシャリと異様に重い音をさせ、その場に両膝を着く。
無謀な《オーバーブースト》の結果、パワーアシストが完全に停止したのだ。
身体の左側から濛々と立ち昇る湯気の先には、クラシック映画に登場する殺人機械に似た金属剥き出しの軍用義手があり、化学血液が滴る傍から蒸発している。
左腕を覆っていた動甲冑とセンサースーツは消え去り、ズタズタに引き裂かれた人造皮膚がボロ布のように垂れ下がっていた。
燃焼した爆薬の臭いを漂わせた義手が、駆動音と共に鼻先へと持ち上がる。
左掌に残ったのは、半ばもげかけた第1指(親指)と第5指(小指)のみ。
ソレらは《怪物》を倒すために払った代償……。
義手に仕込んだ対軽装甲地雷 ―― 00Bサイズのタングステン球250発をバラ撒く、閉鎖空間で使用するには剣呑な防御兵器が作動した証しだった。
“なんとか《怪物》を仕留めることは出来た……が……俺の腹にも……”
タングステン球が多数めり込んだ腹部装甲を両手で抱え、頭から崩れ込む。
床と派手に衝突した動甲冑の中で目を瞑り、血の味がする吐瀉物を何度も吐きつつ、新たに襲いかかった苦痛が過ぎ去るのをジッと待つ。
そんな状態で周囲を警戒しろというのは、無理な話だった。
!? ―― 唐突に、首そして左腕へと何かが幾重にも巻き付く。
完全に不意を突かれた俺は、吐瀉物を撒き散らしながら右手を首へ。
しかし、呼吸を阻害するほどの力で締め付ける触手はパワーアシストを欠いた腕力ではビクともしない。
鬱血した顔面で辺りを見回すと、《X-DH02-X》の残骸から漏れる紅い灯り。
――糞! 手前は不死身かよ!




