ペルティ・フラッタリー伯爵令嬢がみた婚約破棄劇
「ライラ・ウェリタス!偉大なフォーリッシュ歴代聖女の名において、私はお前との婚約を破棄する!」
雲ひとつない抜けるような青空。尖塔に翻る若草色の国旗。水と緑に満ちた王宮は、鮮やかな花々が咲き誇り、鳥が歌い、どこからともなく流れる弦楽の調べもあって地上の楽園のようであった。クラージュ・グラン・フォーリッシュ王太子が、冒頭の台詞を述べるまでは。
ペルティ・フラッタリー伯爵令嬢は、血の気が引く思いで両手を握り締める。
ああ、と嘆息した。
――ついに、はじまってしまった。
王宮の西に位置するここ『一の広間』は、夜の大舞踏会を前に美しく整えられていた。
目が眩むほど高い天井には、朝と夜の聖フォーリッシュ王国を表した美麗なランプ画が描かれ、精霊を象った翼のある女たちの彫刻が、豪華なシャンデリアの影から微笑みかけていた。壁には黄金で拵えた葡萄や蔓草が這い、調度品はすべてチョコレートを思わせる黄金の木。水晶硝子の大きな一枚窓からは、迷路のように刈り込まれた見事な外庭園が望め、日が沈めばお祝いの花火を存分に眺めることができそうだ。
磨き上げられたモザイクテセル様式の床一片、飾られたみずみずしい花一本、ガラージュ織りの庇幕をまとめる房飾りひとつでさえ完璧で、こんな事態でなければ、しがない伯爵令嬢ペルティは内装を見るだけでも大満足だったのだ。
実際、彼女は今日が楽しみで仕方がなかった。
午後からは聖堂で成人式があり、そのあとは王立学術院の中央棟に場所を移して進級式典が執り行われ、夜には王宮で社交界の幕開けを祝う大舞踏会。大道芸人や楽隊を呼び、野外舞台では演劇が披露され、花火が夜空を飾る。翌日からは王太子の成人を記念して王室近衛兵や聖騎士団のパレードもあり、しかも様々な催しが終われば楽しい夏季休暇。
今年16歳になったペルティは成人式も進級も関係ないが、お休みはうれしいし、いよいよ正式な社交の場に出られるのだ。この日を思って、学術院での下女みたいな扱いにも耐えた。
なのにまさか、楽しみにしていた最初の日に、こんな後味の悪い計画に参加させられることになるとは思いもしなかった。
――彼女、大丈夫かしら……。
ペルティは、気の毒な主役の少女をそっと見つめた。
軽やかな春のドレスや洒落た二等礼服を身にまとった紳士淑女にまぎれ、たったひとり普段着のようなワンピースで立っている小さな姿。みんなに遠巻きにされた、ひとりぼっちの侯爵令嬢。
――ライラ・ウェリタス。
さきほど広間に入ってきたときの彼女を思い返し、ペルティはかすかに胸が痛んだ。部屋に一歩入った瞬間、ライラ・ウェリタスは驚いたように目を瞠り、次いで幸せそうな笑顔で玉座の方へ――クラージュ王太子たちのいらっしゃる方へ歩み寄っていったのだ。たぶん自分だけ場違いだと気付いたけれど、婚約者のクラージュ殿下を見て安心してそばへ寄っていったんだろう。
――それなのに、こんな仕打ち。
入室してまもなく、一方的な婚約破棄を告げられ、ライラ嬢はその場に立ち竦んでいる。クラージュ殿下は端正な顔を歪め、哀れな元婚約者を睨みつけた。
「お前との婚約は間違いだった!私の本当の妃は――」
たっぷりと間をとり、クラージュ殿下は自分の傍らに控えた美しい少女を指し示した。
「次期聖女リリベル・ウェリタスであるッ!!」
めずらしく真っ赤なドレスを着たリリベルは、すぐにでも聖女の座に就けそうな堂々たる態度で、淑女の礼をしてみせた。ペルティは思わず苦い顔になる。
リリベル・ウェリタス、彼女こそペルティを下女扱いしている学術院のお姫様。
クラージュ殿下は国命の婚約者ライラ・ウェリタスを捨てて、リリベル・ウェリタスを新しい婚約者にすると言っているのだ。昨日散々自慢されたからペルティには驚きもなにもない。しかし、ほとんどの人たちは初耳だったようだ。
驚愕する会場の視線を一身に集め、クラージュ殿下は胸を張って宣言した。
「今この場で、皆には証人となってもらいたい!王太子妃にふさわしいのは、誰もが認める光魔法の使い手・清らかな乙女リリベル・ウェリタスであり、王太子クラージュ自身が彼女を望んだということを!」
水を打ったような静寂ののち、誰かが手を叩いた。
賞賛の拍手は徐々に大きくなり、興奮した囁き声が広がっていく。「素晴らしい」だとか「お似合い」だとか「王国は安泰」だとか。リリベルが用意した役者か、本心の招待客かは分からないが、新たな王太子妃は最大級の賛辞をもって受け入れられてしまった。
鳴り止まない拍手を手で制し、クラージュ殿下は頬を紅潮させ、勝ち誇った顔でライラ嬢を見下ろす。
「そういうわけだ、ライラ・ウェリタス。なにか言いたいことがあるなら言うがいい。今のうちなら聞いてやろう」
抑えた嘲笑、ひそやかな悪意、隠し切れない好奇心。そういったものがふりかけすぎた香水みたいに会場を覆う。
ややあって、ライラ嬢の小さな声が聞こえた。「あの」
まるで自分が窮地に立たされているような気持ちになった。こんなの見ていられない。彼女はどうするんだろう。取り乱し泣いてしまうだろうか。それとも怒り出すだろうか。
「えっと」
ああ受け入れられないんだわ、とペルティは俯いた。自分だって彼女の悪口を随分言ったし意地悪もしたけれど、これは絶対にやりすぎだ。誰もがライラ嬢の悲劇を待ちかまえている。きっともうすぐ泣き声が聞こえて――
「おめでとうございます」
………………。
あれ。
聞き間違いかしら。
今なんかライラ嬢が「おめでとうございます」とかなんとか言ったよーな気がするけど。
放心状態だったライラ嬢が、大きく息を吸って吐いた。全部の重荷がなくなったように叫ぶ。
「はあああああよかったッ!!感謝致します!ありがとうございますクラージュ殿下ッ!!リリベル万歳ッ!!!」
感激の涙を浮かべた笑顔全開のライラ・ウェリタスは、誰よりも大きい拍手をふたりに贈った。
後に、ペルティ・フラッタリー伯爵令嬢はこう証言している。
「あんときの空気はヤバかった」と。




