90、最後の一年④
クルサールが立ち去るのを見送った後、ミレニアは小さく嘆息した。
「……言いたいことが、あるようね?ロロ」
「…………当たり前です……」
寡黙な護衛兵は、歯の隙間から絞り出すようにして、呻くように言葉を紡ぐ。
ふ、と苦笑に近い笑みを漏らして、ミレニアはゆっくりと正面からロロと向き合う。
「いいでしょう。……ちゃんと、聞いてあげるわ」
「っ……」
慈愛に満ちた女神のような微笑に、ロロは、己の要求が通らないことを悟る。
既に、彼女の中では、覚悟が決まっていて――彼女の運命は、決定事項なのだ。それこそが、彼女の望みなのだと、優しい瞳が、雄弁に語っている。
「何故ですか……っ!」
「……」
「どうしてっ……」
ぐっと拳を固く握りしめた後、言うべき言葉を見失う。気持ちばかりが空回り、空気を震わせた声音は、最後まで意味のある言葉を紡ぐことなく、空中に霧散して溶けて行った。
ギッ……と歯噛みした後、ロロは主の元へと跪く。傅き、首を無防備にさらし――懇願した。
「命じてください……っ……ただ、この身を守れと、何者からも全身全霊をもって守り抜けと、命じてくださいっ……!」
「ロロ……」
「必ず、守ります……貴女を嫌う皇族や貴族からも、どんなに恐ろしい魔物の脅威からも――必ず、必ず、お守りしますっ……!」
主と異なり、弁は立たない。それでも、不得手なそれを駆使して、ロロは必死に己の胸中を吐露していく。
「貴女の命は、無価値なんかじゃない……!俺にとっては、世界で一番、高価で、高尚で、最高級の価値があるものだ……!」
「……そう」
「それが無価値だと言うのなら――俺の命もまた、無価値です――!」
苦し気に眉を寄せ、呻くように告げる。
ミレニアの「価値ある命」を守ること。
――それが、ロロに与えられた、命の価値。
他でもないミレニアが、四年前、初めて出逢ったあの日にロロに与えてくれた、大切な大切な、価値だった。
「貴女の志は、素晴らしい……それは、事実です。その志に、救われる者はたくさんいて――俺もまた、そうして救ってもらった一人です……!」
皇族を前にすれば、不用意に視界に入るだけで、斬り伏せられてもおかしくない身分の『口を利く道具』だった自分を、『専属護衛』という役割を与えて、人として扱ってくれた。
忌まわしい色だと憎まれ続けた瞳を、「宝石のよう」と言って褒め称え、何度も嬉しそうに覗き込んでくれた。手足に付けられた枷を外して、自由を与えてくれた。
肥溜めの底では、生きている意味なんかわからなくて――それでも、どこかにそれを見出したくて。
必死に、ただ、息をして心臓を動かすことしかできなかった日々から救い上げて、高尚な『生きる意味』を与えてくれた。『生きる場所』を与えてくれた。
(いつだって、姫は、与えてばかりだ――!)
それが、皇族としての彼女の矜持だと言う。
与えて、与えて、与え続けて――己の命まで、民のために、与えようと、している。
彼女のために何かを返そうとしても、受け取ってもらえない。
彼女は、こちらを救うために手を伸ばしてくれるが――汚泥の底から救い出してくれた後、やっと恩を返そうと手を握り返すのに、するりと自分から手を放そうとする。
「どうしたら、生きたいと思ってくれますか……?どうしたら、”未練”を持っていただけますかっ……!」
「ロロ――……」
ミレニアは、クルサールに、皇族が唯一心を許す存在は家族だけだと語った。
だが――彼女には、もはや、『心を許す家族』は存在しない。
共に皇城で育った兄姉たちは、隙あらば彼女を排し、貶めようとする血縁者ばかりだ。今日、遠い血縁だと名乗ったクルサールも、つい先日出逢ったばかりで、どう心を許せと言うのか。
ギュンターの死と共に、ミレニアは、唯一心を寄せる場所をなくしてしまった。
彼女の周りに残ったのは、彼女を慕う従者と、彼女を嫌う血縁者のみ。
彼女が、生にしがみつくだけの理由になりえぬ者たちばかりだ。
「……お前の言葉は、いつもまっすぐね」
頭を垂れたロロの頭上に、ぽつり、とミレニアの声が空虚に響く。
そっと顔を上げると、なんともいえぬ複雑な顔をした少女が、静かに従者を見下ろしていた。
「お前の献身を前にすると、それを裏切る罪悪感を感じてしまうわ」
そう思うなら、思いとどまってほしい。
そんなロロの瞳を、困った顔で受け止めてから、そっとミレニアは奴隷紋が刻まれた頬に手を伸ばした。
「でも、だから……お前にだけは、特別に教えてあげる。――特別よ?誰にも言わないで」
「姫……?」
すり……と優しく撫でられる感触に、戸惑うような声が漏れる。
困った顔で微笑んだまま、ミレニアはそっと唇を開いた。
「クルサール殿にも、お兄様にも――これから先、誰に何を問われても。私はずっと、今日口にした言葉を、繰り返すでしょう。民のため、国のため――そのために、命を擲ち、国家の礎となるのだと……この、気味が悪いと言われた翠の瞳に覚悟を宿して、語り続けるでしょう」
「――――……」
「でも、でもね、ロロ。お前にだけは、教えてあげる」
翡翠の瞳が、ほんの少しだけ、揺れた。
束の間、部屋の中に静寂が落ちる。
「……本当は、ね?――こんなもの、私の、ただの、我儘なのよ」
「……姫……?」
少しだけ泣きそうな顔で告げられた言葉の意味が分からず、戸惑うように問い返す。
くすり、と小さく吐息で笑みを漏らして、ミレニアは続ける。
「……疲れて、しまったのよ。もう。色々なことに」
「――――!」
ハッとロロが息を飲む。
ミレニアは、ゆっくりと『特別』の称号を与えた護衛への頬を撫でながら、桜色の唇を開く。
「敬愛するお父様はもういない。幼いころに描いた夢は、叶わない。愛する民は苦しんで――私を慕ってくれる大切な従者たちも、私に関わり、不幸になっていく」
「姫――」
ミレニアの脳裏には、紅玉宮を去らせた従者たちの顔が浮かんでいるのだろう。
あるいは――悪夢のような夜に、惨たらしい死を与えてしまった、無垢な少年の姿だろうか。
「皆、私を”強い”なんて言うけれど――本当は、とっても、とっても弱い、どこまでも無力な女なのよ。惑う国民を救う責務から逃げて、無力を味わう辛さから逃げて――都合よく飛び込んできた、”誇り高い死”という格好の機会を利用して、無力な自分を偽ったまま死んでいきたいと、そんな矮小な考えを持つ、くだらない女なの」
「……!」
「だから――これは、私の、我儘。耳障りの良い言葉で飾り立てて、巧妙に本音を隠した、醜い醜い、我儘なの」
内緒よ、とふわりと力なく笑って、そっと頬から手が離れていく。
「!」
パッと、気づけば、その手を追って、掴んでいた。
「――っ……!」
いつもなら、不敬の極みだと言って、決して自分からその手を掴むなどありえない。
それでも、思わず手を掴み――うまく気持ちを言葉に出来ず、息を詰める。
「ロロ……?」
「姫は――……」
何かを口にしようと唇を開くのに、そのまま空気に溶けて、言葉が霧散する。
仕方のない口下手な男に苦笑して、ミレニアはそっと掴まれた手にもう片方の手を乗せた。
「人生に、”たられば”はない。私は、あの日、お前を手に入れたことをこれっぽっちも後悔していないけれど――でも、お前を、四年も無意味に振り回してしまったわね」
「そんなっ――そんな、ことは――!」
「この四年、お前には何度も助けてもらったわ。半年前は、お前がいなければ、私はもちろん、もっとたくさんの者たちの命が散っていたことでしょう。感謝してもしたりない」
「そんなこと――」
「お前が来てから、毎日が、とても、とても、楽しかったわ。お父様が亡くなって、民が悲惨な目に遭っていることを知る日まで――幼いころに描いた夢を諦めてもお釣りがくると思うくらい、本当に、幸せな毎日だった。本当よ?」
翡翠の瞳が、懐かしい日々を思い出すようにゆるりと細められる。
「ありがとう、ロロ――ルロシーク。お前が欲しいと願ったのも、思えば私の我儘だったわ。生まれて初めての、我儘よ。……そして、また、最後まで、私の我儘でお前を振り回してしまうのね。ごめんなさい」
「っ……」
言葉を紡げず、ロロは眉根を寄せて顔を伏せる。
そんなことは、微塵も思ったことがない。
ミレニアに救われて――幸せだったのは、自分の方だ。
たくさんの物を与えてもらって、身に余るほどの幸福を得た。
息をすることでも、心臓を動かすことでもない――”生きる”ということがどんなことかを、知った。
だが、ミレニアに生きていてほしいと願うことは――それこそ、ロロの、ただの我儘に過ぎないのかもしれない。
「せめて、自分の我儘の尻拭いくらいはさせて頂戴?……私の死後は、ゴーティスお兄様の元へ――」
ミレニアの言葉が途切れる。
ぎゅぅっと、言葉を遮るようにして、握られた手に力が込められたせいだった。
「ロロ……?」
「っ……俺の――我儘も、聞いて……下さい……」
顔を伏せたまま、握った手を額へと押し当て、震える声で絞り出す。
「一年……一年、かけて――貴女に、『生きたい』と思う未来を見せます……」
「ぇ……?」
「俺ごときに、何が出来るのかわかりません。それでも俺は――貴女を失って、独りで生きていけと、そんな絶望を強いられることだけは、受け入れられない――……」
ぎゅ……と握られた手に力がこもる。切なさが目一杯詰まった、力だった。
「もしも、それでも、貴女のお気持ちが変わらなかった時は――」
迷うように口を閉ざす。
震える吐息を吐いて――それでも、心からの言葉を、真摯に音に乗せた。
「――最後は、貴女を守って、死なせてください……」
「な――…」
ミレニアの絶句する声が漏れる。
主が、これを受け入れてくれるような者でないと、重々承知している。
だが、それでも――どうしても、譲れない。
「せめて、死地へと共に連れて行ってください。――あの鳥籠の前で、魔力が尽き、体力が枯れ果てるまで、襲い来る魔物を前に、貴女を守って戦い、死なせてください」
「お前――何を馬鹿なことを言って――!」
「どうせ、独りこの世に置いて行かれたところで、貴女に殉じるだけの命です。……貴女の我儘を聞く代わりに、俺の我儘も、聞いてください」
ゆっくりと瞳を上げる。
吸い込まれるような美しい紅玉の瞳が、まっすぐに少女をとらえた。
「約束しました。――死出の旅路の最期まで、必ず御身を守り抜くと」
「ロロ――……」
「一秒でもいい。必ず、俺より後に死ぬと、約束してください。――貴女はきっと、先に逝ったら、俺を待っていてはくれないでしょうから」
強い目をして、強がって。
震える足を叱咤激励して、きっと誰より勇ましく、厳しい死出の旅路へ立ち向かうことだろう。
従者に甘えるなど、弱いところを見せるなど、決して矜持が許さぬと言う少女だ。
先にその道へ進んでしまわれては、ロロが行く頃には、きっとそこに、陰も形もないだろう。
「この四年で、学びました。貴女は、俺を専属護衛にするなどと言ったくせに、ちっとも大人しく守らせてくれない。――貴女を守るには、俺が、俺の勝手で、守るしかない」
「な……」
「貴女がどれだけ死にたいと願っても、関係ない。俺は俺の我儘で、俺がその時最善だと思う方法で、貴女を勝手にお守りします」
宣言のような言葉と共に、そっと掴んでいた手を離す。
「一年間――俺に、好きに動く許可をください。どんな手を使っても、必ず貴女をお救いする方法を、探し出します」
「全く……お前はいつも、これ以上なく従順なようでいて、その実、頑固で全然従順じゃないわね」
「……従順です。姫に最初に頂いた命令に、従順に従っているだけです」
しれっと言ってのけるロロに、ミレニアもまた苦笑と共に嘆息する。
『命令よ。お前は、一生、ずっと、私の傍で、私をずっと守りなさい』
『今日から、お前は私の物よ。勝手に傍を離れることは許さないわ』
ロロを突き動かすのは、”永遠の自由”を得たあの日、女神にもらったこの言葉だけなのだ。




