88、最後の一年②
その男が紅玉宮に訪ねてきたのは、謁見の間での一件から三日ほど経った日だった。
「今日も、護衛兵殿はそちらに控えていらっしゃるのですね」
屋内の応接室にあっても、シャンデリアの灯りに負けないくらい眩しいキラキラした金髪碧眼の青年は、相対する紅玉宮の主の後ろに鋭い瞳で控えるロロに目をやり、苦笑する。
「はい。……彼はとても優秀ですが、少し過保護なところのある護衛兵なので」
ご存知でしょう、とでも言いたげに曖昧に微笑んで、ミレニアは用意されたカップへと手を伸ばす。今日も、「形容しがたい不快感」とやらを感じているのか、いつも寡黙で無表情な褐色の肌の美丈夫は、眉間に皺を寄せるようにしてじっと隙なくクルサールを見つめていた。
「それで、本日のご用件は?」
カップに口を付けながら、ミレニアは優雅に微笑んで問いかける。
(――とても、一年後に魔物の巣に放り込まれることが決定した後の少女には思えない……)
クルサールは胸中で呟きながら、その面に痛ましげな表情を浮かべる。
「……先日の、<贄>の儀式についてですが」
「えぇ」
「あの後、皇族の皆様方で臨時の会議が開かれ、今後のミレニア姫へのご対応を決めることになりまして」
「そうでしょうね」
驚いた様子もなく、こくり、と紅茶を飲み下す様子は、立派な貴婦人そのものだ。
クルサールは、紺碧の空色をした瞳を伏せて、静かに告げる。
「……しかし、結論は変わりませんでした。ミレニア姫は、次の帝都の魔物襲来を機に、<贄>として東の森へと送られます」
「……そうでしょうね」
先ほどと全く同じ言葉を呟いて、ミレニアはふっと苦い笑みを刻む。
おそらく、臨時の会議とやらでは、ギークが大暴れだったはずだ。ロロの威嚇行為に竦んで何もできなかった弱い自分を隠すように虚勢を張り、今すぐミレニアを殺せ、と喚いている哀れな姿が容易に思い浮かぶ。
ロロに牙をむかれた形のゴーティスも、今回ばかりは肩を持ってくれなかったかもしれない。奴隷ごときに面子を潰されたと憤り、ギークに煽られ感情的になってしまう可能性が高い。
それでも、法律を無理やり捻じ曲げ、ミレニアを即刻処刑することの方が、デメリットが大きすぎる。最終的に、ミレニアを東へ送ることが決定したと言うことは、おそらく、カルディアス公爵か、クルサールがいないため出席することが出来るようになったザナドあたりが、場を冷静に取りなしたのだろう。
「我らの風習に従うのならば、次の<贄>として捧げられることが決まっている候補者は、来るべき日まで、外界と隔絶されて過ごすことになります」
「ふふ……それで?」
「……<贄>の扱いに一番詳しいのは、私です。来るべき日まで、ミレニア姫のお傍で、ミレニア姫を見守る責を負うこととなりました」
ギュッ……
ミレニアの背後で、絨毯を踏みしめる音が響いた。ぶわっ……と一気に部屋の空気が硬くなり、ロロが警戒心を強めたのがわかる。マントの下では、いつでも抜き放てるように剣の柄へと手を伸ばしていた。
「ロロ。……待ちなさい。落ち着いて」
手を軽く上げて冷静な声で制するが、護衛兵は鋭い眼光を緩めることなく、じっとクルサールへと敵意をまき散らす。
「やはり、貴女の忠実な護衛兵には、何やらとても嫌われているようだ。――無理もない。私のせいで、貴女が死地に送られることになった、と憤っているのでしょう」
「……さぁ……どうでしょうね。それはわかりませんが――」
ミレニアは曖昧に言葉を濁す。
ロロがクルサールを警戒しているのは、儀式の前からずっとだ。「形容しがたい不快感」とやらを抱き、クルサールが視界の中にいる間、常にピリピリし続けている。
それを説明するわけにもいかず、ミレニアはごまかすようにカップにもう一度口を付けてから、ゆっくりと口を開く。
「私の傍で、私を見守る、というのは……具体的には、どういうことでしょうか」
「そのままの意味ですよ。……ごくまれに、エラムイドでも、いるのです。”神”の意思に背く<贄>やその家族が」
「……そう、ですか」
それは、生存本能を持つ人間としてごく当たり前のことのように思えるが、彼らの国では酷く異端な思想なのだろう。ミレニアは瞳を伏せて、その是非についてのコメントを避ける。
「つまり……私が、来るべき日を前にして、”神”の意思に背いて逃げ出さないか、監視する――そういうことでしょうか?」
「身も蓋もない言い方をしてしまえば、そうですね」
ミレニアの後方から向けられる敵意が、どんどんと膨れ上がっていく。じりじりと温度を上げていくかのようなその怒りは、彼が扱う灼熱の炎に似ていた。
「ですが、貴殿もご覧になったでしょう。私の護衛兵は、とても優秀です。時に、私の意思を無視してでも、と極端な行動に走ることがある従者なので――私が東へ送られるとなれば、彼が黙ってはいないでしょう。まぎれもなく帝国最強の武を誇る彼を前に、貴殿はどのように抑止力となるのですか?」
「それは、勿論秘密です。対抗策を考えられてしまっては、抑止力にならない。……ですが、断言しましょう。――私はきっと、今のこの世で唯一、その『帝国最強の男』を止められる存在です」
「――――……」
ギュギュッ……と絨毯が耳障りな音を立てる。スゥ――と静かな音がして、ロロが屋内で剣をゆっくりと抜き放ったことが分かった。
「ロロ。……待ちなさいと言っているでしょう」
「待てません。――姫、許可をください。今すぐこの男を斬り伏せます」
「駄目よ。許さないわ」
洒落にならないほど低い声で告げる護衛兵に、今度はしっかりと手を上げて制す。
「承服しかねます。……この男は、やはり、危険だ」
「許さないわ。お前が何と言っても、絶対に」
ひんやりとした空気が張りつめる部屋の中、押し問答が続く。
黙ってそれを見ていたクルサールは、フッ……と唐突に吐息で笑みを漏らす。
「全く……やはり貴女は、おかしな御方だ。どう考えても、その護衛兵の判断は正しい。理解できない障害となりうる芽は、早めに摘んでおくに限ります。――それなのに、何故貴女は、この期に及んで、私の命を庇うような真似をするのですか?」
金髪碧眼の美丈夫は、完璧な笑顔を浮かべてミレニアを見やる。ミレニアは苦み走った顔でクルサールを振り返ると、ロロの動向に注意を飛ばしたまま、口を開いた。
「エラムイドは自治を認められてはいますが、法律上は、イラグエナム帝国領に属しています。貴殿がどう思われるかは知りませんが、私にとっては、貴殿もまた、私の大切な帝国の民。無益に血を流すことを良しとはしません」
「ほぅ……?」
「そして――貴殿は明言したことはありませんが、きっと、私たちは、血縁なのでしょう?」
ぴくり、とクルサールの頬が微かに揺れる。
ふ、とミレニアは笑みをこぼして、自分の推察が正しいことを悟った。
「貴殿は、エラムイドの代表だと言う。――私の母は、十数年前の代表者の愛娘だったと聞いています。貴国の”代表”というのが世襲なら、私たちは、きっと、どこかで血が繋がっているはずです。従兄妹――ほど近しい存在かどうかは、わかりませんが」
「ふ……なるほど。さすがは、優秀と名高いミレニア姫」
クルサールは笑みを漏らして、ミレニアをゆっくりと眺めた。
「その通り。我々は、同じ一族の血を引いています。……フェリシア様は、一族の中でも飛びぬけて美しく、お優しく、国中の憧れの的でした。かくいう私も、幼いころに、一族の集まりで直接目にしたフェリシア様に憧れていた一人です」
言われてみれば、クルサールの見事な金髪は、肖像画の中にある母親の髪の色と同じだ。恐ろしいほどに整った美貌も、どこか血縁を感じさせる。
「とはいえ、かろうじて血が繋がっている、という程度の遠さですが。……フェリシア様の御父上は、先々代の代表者です。彼は、心からフェリシア様を愛していた。フェリシア様を敵国の恐ろしい皇帝に取り上げられ、人質として扱われることになってから、心を病んでしまい、すぐに公務が出来なくなった。……まぁ、そもそも、愛娘を人質に取られたままで、国家に有益な正常な判断を下せるとは思えない。我らの国の行く末を任せ続けることは出来ぬと一族の中で物議をかもした結果、ほどなく代表の座を降りることになり、一族の協議の結果、能力的にも年齢的にも的確だと判断された、分家出身の私の父が代表者となりました」
「そうだったのですね……」
「はい。……分家がその任に就くなど、異例の代表交代だったと聞いています。当時は、私も幼かったので、大人たちの事情の全てを理解していたわけではないですが」
そうして、クルサールは、己の父から代表の座を受け継いだのだろう。そうなると、代表として活動しているのは、実はそんなに長い期間ではないのかもしれない。
「では貴女は、私が血縁者だから、命を救ってくださる、と?その恐ろしい護衛兵から?」
クスクス、と小さく笑いながら、揶揄するような瞳をミレニアの後方へと向ける。ロロの敵意が、一瞬鋭くなり、殺意に近いものへと変貌した。
「主要な理由は、最初に申し上げた理由です。後者は、あくまで、付属する理由でしかありません」
「ほぅ……」
「ただ、それだけではなく――」
ミレニアは口を開いてから、一度閉ざす。迷うように視線を揺らしてから、横顔だけで後ろの護衛兵を振り返った。
紅玉の瞳をこれ以上なく鋭くして、ミレニアが一言許しを与えれば今すぐにでも斬りかかれるように、臨戦態勢になっているロロは、振り返ったミレニアに視線をやることもなく、ただまっすぐに敵だけを見つめている。
どこまでも職務に忠実な護衛兵に、ミレニアは苦笑を漏らして、もう一度クルサールへと向き直った。
「これを告げると、少し、議論がややこしくなるので、あまり言いたくはなかったのですが――」
「ほぅ。……いいでしょう。聞きますよ、ミレニア姫」
促されて、ミレニアは一度長い睫毛を伏せる。深く呼吸をした後――ゆっくりと、漆黒の睫毛を押し上げ、翡翠の双眸をしっかりとクルサールの方へと向けた。
「ロロがどう思うかはともかくとして――私個人としては、国防のために<贄>として東の森へ送られることに、特段、異を唱えるつもりはないのです」
口元に、柔らかな笑みすら浮かべて。
――”女帝”の顔で、ミレニアは、はっきりと自分の意思を、口にしたのだった。




