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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第四章

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74、動き出す歯車⑨

 ミレニアが持参した書類を手に、ザナドは頭痛を堪え切れずに眉間を抑えた。隣では、こめかみにこれ以上ないほど太い青筋を湛えた双子の片割れが、今にも噴火直前といった様子で書類を手にしたままふるふると震えている。

「ミレニア、貴様――こんな、ふざけた要求が通ると、本気で思っているのか!?」

(あぁ――案の定、噴火しやがった……)

 胸中で、思わず素の粗野な口調で呟き、ザナドは眉間を抑える手にもう一度力を込める。ロロの暴走を牽制するためと、少しでも有利に、そして迅速に交渉を進めるため――といってゴーティスを同席させたのは、失敗だったかもしれない。今やザナドは、頭の回る難解な交渉相手ミレニアとの折衝に追加して、ゴーティスの短気をなだめる役目まで背負う羽目になってしまった。

 それもこれも、最初にミレニアがあからさまにゴーティスの機嫌を逆なでするような物言いをしていたためだろう。普段以上に激情に駆られやすくなったゴーティスは、冷静さを欠いてミレニアの掌の上で転がされやすくなる。

 交渉事は、交渉の場に就く前の準備まで含めて、手腕を試される――ミレニアの振る舞いは、見事としか言いようがなかった。

 ゴーティスは、感情の赴くままに、バンッとミレニアが持ってきた書類を目の前の机に音を立てるようにして叩きつける。恫喝するようなその仕草を前に、スッと職務にどこまでも忠実な黒衣の護衛兵が表情一つ変えずにミレニアの傍に近寄り、いつでもどんなことにでも対応できる距離へと入ってきた。――仮にゴーティスが乱暴に掴みかかろうとしても対応できるような距離に。

(兵としての能力は有能だ。危機察知能力に長けていて、行動も迅速。一度主と定めた者にはどこまでも徹底的に従順で、ザナド()の秘密を共有されているということは、口の堅さも折り紙付き。いちいち上官の命令がなくとも自分で考えて動ける上に、身体能力も魔法能力ずば抜けていて、間違いなく帝国一の武を誇る。――本来であれば、どんなに高い給金を出してでも軍属にしたい貴重な人材であることは間違いない)

 トン、トン、とこめかみを叩きながら、ザナドは頭を抱えたい思いを堪える。

 ――甘かった。

 この腹違いの妹は、たった数日で、どうやらかなり交渉の方針を変えてきたらしい。

「つまり、お前は――この奴隷を軍属にするつもりはないが、俺たちが頭を下げるなら臨時の戦力として時折貸し出してやらんことはない――と、そう言いたいのか!!?」

「まぁお兄様ったら。……随分と言い回しを考えて、丁寧に書いて差し上げましたのに。そう端的にまとめられてしまうと、書類を作った時間の無駄を嘆きたくなりますわね」

「ふざけるな!!!」

 バッ

 机の上から力任せに振り払われた書類が、部屋の中にひらひらと舞う。

(完全にミレニアの掌の上で転がされているな……)

 ミレニアは、自分がゴーティスに嫌われていることなど百も承知だろう。元々の悪感情を更に逆なでするような言葉を重ねることで増幅させ、ゴーティスから冷静な判断を奪っている。彼が冷静になってザナドと交渉の場でタッグを組まれては厄介だと判断したためだろう。双子で阿吽の呼吸で動ける二人が手を組んだ時の厄介さは帝国一であることは間違いない。

 だが、現段階でゴーティスが冷静になるのは、彼の性格上ほぼ不可能に近い。優秀な兄弟の交渉における援護を早々に諦め、ザナドは嘆息して手にした書類にもう一度目を落とした。

 そこには、ロロの所有権はあくまでミレニアのままで譲らないこと、彼の主務は専属護衛とすること、軍の任務への参加は軍部からの依頼があって初めて検討されるが、ミレニアの判断で拒否する権利もあること――そんな、どう考えてもミレニア側にとって都合の良い条件ばかりがつらつらと書き連ねられていた。

(前回の俺への非礼があるから、負い目を感じて譲歩してくるかと思ったが――完全に甘かったな……)

 これは自分の判断ミスだ。ザナドはこめかみを叩きながら、わーわーと感情に任せて何かを怒鳴ってはミレニアに軽くいなされている兄弟を尻目に、交渉の糸口を考える。

「……ミリィ」

「はい、お兄様」

「前回とかなり書かれている条件が異なるのは一目瞭然だが――先日、本人が許可を出した項目まで書き換えられているのは、何故だ?」

 ザナドは、隙のない視線で状況を見守りつつ軽くミレニアを背に庇って立つロロへと視線を投げる。

(前回、ミレニアの要望を切り崩すきっかけになったのは、こいつの予期せぬ一言だった。信じがたいが、こいつは、ミレニアよりもよほど自分が奴隷であることを理解していて、奴隷として振る舞うことに抵抗がない。ここに切り崩す糸口があれば――)

 値踏みするような視線を投げていると、ミレニアは扇に涼やかな表情を隠して、当たり前のように口を開く。

「枷に関することでしょうか?――当然でしょう。先日の時点では、ロロをお兄様方に明け渡す前提でしたもの。ロロの拘束の有無に関する最終判断は、所有権のあるお兄様方とロロとの合意によってなされます。……ですが、今回は、ロロの所有権は私にあるままで、という前提の契約。私とロロの合意で決定されるそれにおいて、私がロロに枷を嵌める瞬間を作ることなど、決して許しは致しません」

「……本人の意向は。前回は、周囲が怯えるようであれば、枷を嵌めてもいいと言っていた」

 ザナドは軽く渋面を作った後、寡黙な護衛兵へと話を振る。

 ロロは、一瞬視線を左下へと落としたあと、静かに口を開いた。

「姫が、枷を嵌めるなと、おっしゃったので。――姫の命ならば、俺は、それに従うまでです」

「……なるほど。随分と従順な従者を持っているな、ミレニア」

「えぇ。自慢の護衛兵ですの」

 ザナドの皮肉にも、蕩けるような笑顔で返すミレニアの心臓には毛が生えているとしか思えない。再び頭痛がしそうな頭を抱えて、ザナドは眉間に皺を寄せた。――どうやら今日は、ここから糸口を探るのは絶望的のようだ。

「そもそも、前回から百八十度前提条件を変えてきたのは何故だ」

「理由は同じ。今のロロの所有権は私にありますから、彼の処遇については私とロロの双方の合意によってのみ決まります。――先日、あれだけの大騒ぎになったこと、まさかお忘れではないでしょう?」

 ロロの所有権をこの兄弟に明け渡すことを、ロロ本人が激しく拒絶した――文字通り、苛烈なまでに。火の粉が舞う応接室の光景を思い出し、ザナドは思わず苦い顔をする。

「奴隷の意志を尊重する、と?それは、”口を利く道具”だ」

「お兄様方がどう思われようと、私自身は、ロロを奴隷とは思っていません。ロロはまぎれもなく”人間”で、私の専属護衛。忠実な従者です。従者の進退に関して、本人の意向を確認するのは、何も可笑しくないでしょう?」

「……詭弁だな」

 吐き捨てるが、法律上は束の間の権利を得ていることは事実だ。苦し紛れの切り返しにも抜け目ないミレニアの主張に、ザナドは天を仰ぐ。

 それを見て、ミレニアはクスリ、と笑みを漏らした。

「賢いお兄様は、もう既にお判りでしょう。――この交渉が、既に負け戦に近いことを」

「あぁ、わかっている。――わかっているから、こうして糸口かないか、必死に考えているんだ」

「ふふ……交渉の前にロロに枷を付けられなかったのは、失敗でしたわね」

「うるさい」

 思わず素の口調で粗野に扱い、頭を回転させる。

 そう――この交渉は、一番最初、ミレニアが交渉の席に着く時点でロロに枷を嵌められなかった段階で、既に終わっているのだ。

(失敗した……ゴーティスを煽られ、こいつが軽率に「そんな奴隷は要らない」なんぞと口走りかけるから、交渉の席につかせることを主目的にしてしまった……)

 ロロは本来、ゴーティスもザナドも、喉から手が出るほど欲しい人材なのだ。それをこちら側から突っぱねれば、二度と交渉の席を設けることは出来なくなる。ロロを得るために、まずは交渉の土台につかせることが最優先と考えたのだが――

(俺たちにこの交渉で勝ち目があったとすればただ一つ――最初に枷を嵌めて拘束し、「こいつの命が惜しければ所有権を俺たちに明け渡せ」とミレニアを脅す以外になかった……)

 とはいえ、今更言ってみても仕方がない。まさか、ミレニアが用意してきた案が、所有権を明け渡さない前提のものだとは夢にも思っていなかったのだから。

 こうなってしまえば、全てが裏目に出る。

 最も厄介なのは――

「私としましては、この条件を飲んでいただかなくても結構ですのよ?――そうなれば、明日からも優秀な護衛兵を常に傍に置いておけるんですもの。むしろ、ロロを貸し出せば、その分私の護衛の質は落ちますから、私にとって利はありません。……彼が帝国最強なのは間違いないのですから」

(そう、これだ。――完全に、足元を見られているこの構図だ)

 ギリッ……と隣でゴーティスが奥歯を噛み鳴らす音が響く。ザナドは絶望的な思いで天を仰いだまま瞳を閉じた。

 そう――何を隠そう、ロロが欲しいのは、こっちの勝手なのだ。ミレニア個人には、ロロを明け渡す利など特にない。皇族の一員として帝国の未来を想えば――と言えばその通りだが、個人の利を交渉の場に持ち出されれば、ロロ以上の護衛兵を用意できないこちらには、それをひっくり返す材料など皆無なのだ。 

(ミレニアは、いつでも交渉決裂を宣言し、退室する権利を持っている。その権利を取り上げない限り、この局面はひっくり返らない)

 だからこそ、ミレニアが交渉決裂を宣言して退室するという切り札を、ロロを人質に取るという方法で、先んじて封じる必要があった。……現状では、後の祭りだが。

「勿論、私も皇族の端くれ。帝国の未来を憂慮する気持ちはお兄様たちと同じです。代わりの護衛兵を派兵してくださると言うのなら、基本的には、ロロを貸し出すことを拒否するつもりはありませんわ」

 最後にミレニアは譲歩を示す。

 ――交渉の場における基本に忠実に。

「私たちの間の意思決定は、双方の合意に基づく――これは変わりません。ですから、もしも、ロロが軍の任務に臨時で就く機会が増えて、ロロ本人が軍属になりたいと――お兄様方を主と頂きたいと申し出るならば、その時は、無条件で彼の意思を受け入れると約束しましょう」

 主の言葉にロロは驚きに目を見張り、ミレニアを振り返る。

「姫。俺は、そのような――」

「安心なさい。お前の忠義と献身を疑ってはいないと、言ったでしょう。お前がそんなことを言い出すことはない、というなら、それでいいの。――それともお前は、任務を重ねたらお兄様方に心変わりをするかもしれないと不安なのかしら?」

「ありえません。俺は、姫の物です。……生涯、ずっと、姫一人の物です」

「ふふ……どんなにお兄様方が魅力的な主として振舞おうと、負ける気はしないけれど――お前が一生尽くしたいと思える主でいられるよう、私も慢心せずに努めるわ」

 にこり、と安心させるように微笑みを返してから、ザナドとゴーティスへと向き直る。

「最初に言った通り、話はとてもシンプルです。条件が飲めないなら交渉は決裂。飲めるなら、祖国のために協力し合いましょう。――永続的な部下としてロロを迎え入れたいなら、私以上に気に入られればいい。私の従者を好きに引き抜いてくださいませ。ロロがそれに応じる、と言うなら、私はそれを己の不徳の致すところと甘んじて受け入れますわ」

 ゴーティスは悔し気に、ザナドは苦い顔で押し黙る。

 ――結論は、もはや、決まったも同然だった。


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