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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第四章

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66、【断章】”お願い”の行方

 それは、悪夢のようなあの夜から、ひと月程が経ったある日のこと――

 コンコン、とミレニアの書斎の扉がノックされた。

 護衛の当番として部屋の隅に控えていたロロが視線だけで問いかけると、ミレニアは手を止めて顔を上げた。

「いいわ。通して」

 ミレニアの言葉を受けて、ガチャリ、と扉を開けて入ってきたのは、見覚えのある老人。

「久しぶりね、ファボット。――その後、変わりないかしら」

「えぇ。おかげさまで。……魔物の襲撃から耐えきった馬車の御者として、辻馬車稼業でも指名をもらえるほどです」

「ふふっ……何が幸福に転じるか、世の中わからないものね」

 しゃがれた声の白髪の老人は、にこり、と人好きのする笑顔を返した。

 ファボットは、この四半期で暇を出したうちの一人だ。

 馬車がほとんど使い物にならないくらい破損したのを機に、ミレニアはもう、紅玉宮付の馬車を新調しないことを決めた。余計な金を使いたくなかったというのは勿論――カルディアスとの婚約も破棄された今後、紅玉宮からどこかへ外出することなど殆どなくなると予想したからだ。

 貴族の馬車の音を聞いて、おびえる市街地の人々を見た。――もう、市井を見たいから、などという理由で、不必要に彼らを脅かすようなことは出来ない。

 第一、馬車の維持費が無くなるだけでも、かなりの金が浮く。予算を切り詰めねばならないミレニアにとって、それは幸いとも言えた。

 馬車が無くなれば、御者も必要なくなる。――ギュンターの治世からずっとミレニアに仕えてくれたファボットには、少し色を付けた退職金を提示して、あの襲撃のすぐ後に暇を出した。今は、細々と帝都の中で辻馬車業を営んでいるらしい。

「それで、今日はどうしたのかしら?お前が返却を申し出た退職金なら、まだ渡せるから安心なさい」

「そうではありません。それは、姫様の良きようにお使いくださいと申し上げたはずです」

 ファボットは困った顔で言う。

 彼は、ミレニアが色を付けた退職金を、全額は受け取ってくれなかった。当初提示した金額の半額以下だけ受け取って、残りは全てミレニアに返却してしまったのだ。

 死出の旅路に金を持ってはいけない――老い先短い老体に、有り余る金は必要ない、と言って。

「幼いころより懇意にさせていただいた姫様の、最後の”お願い”――……それを叶えて差し上げられそうでしたので、その、ご報告に」

「!」

 ハッとミレニアが息を飲んで身体を乗り出す。

 それは、あのカルディアス別邸へ赴いたときに、ファボットに頼んだことだった。

 命令ではなく、お願い――皇女として下すのではない、ミレニア個人としての”お願い”だった。

「ありがとう、ファボット……本当に、本当に、ありがとう」

 ぎゅっとミレニアは俯いて震える声で絞り出す。

 これは、命令ではない。従う義務は、ファボットにはなかった。命令でない以上、叶えたところで報酬を出してやることは出来ない。――ミレニアの感謝以外の、何も。

「ほっほっ……愛しい姫様の、感謝の言葉がもらえると言うだけで、儂にとってはこれ以上ない報酬です。末代までの誇りと致します」

 好々爺たる眼差しで目を細めて笑うファボットに、もう一度感謝の意を示す。

 そして、そのまま、徐に己の耳元に手を掛けた。

「姫様……?」

「少し、待っていて」

 いつも、侍女にさせているせいで慣れない手つきのまま、ミレニアは四苦八苦してその耳につけられていた耳飾りを外した。

 もたついた手つきの果てに、コロリ、と少女の手の中に転がるのは――艶やかで美しい、黒玉の耳飾り。

「――これを」

 ミレニアは、何一つ躊躇することなく、それをファボットに差し出した。

 それは、死者を悼む、弔いの象徴。親しい者の葬儀に身に着ける石飾りだ。

「これを、被害者の遺族の元へ届けて頂戴」

「ひ、姫様――!そんな――!」

「いいの。いいのよ、ファボット。――私に出来るのは、これくらいしかないのだから」

 ミレニアはきゅっと痛ましげに眉根を寄せて、恐縮して拒否しようとしたファボットの皺々の手に無理に握らせる。

 それは、ミレニアが、ギュンターの死後、ずっと肌身離さず身に着けていた耳飾りだった。

 敬愛する父の死を悼み――自分のために命を散らした、少年の死を悼み。

 毎日肌身離さず身に着けていた、尊い石飾り。

 当然それは、皇族が身に着けるにふさわしい質の宝飾だ。売り払えば、それだけで随分まとまった金になるだろう。貴族から一銭も支払われなかったという弔慰金の代わりに、働き盛りの男手を失った痛手を補う資金にしてくれれば良い。

 仮に売り払わなくても――遺族が、亡くなった者の死を悼み、身に着けてくれればいい。

 そんな、ミレニアの想いが詰まった、黒玉だった。

「これは、あくまで”お願い”よ、ファボット。……皇女としての私の命令ではないの」

「で、ですが――」

「お願い。……皇族が、一市民だけを、優遇するわけにはいかないの。それでも、この件だけはどうしても、私の気持ちの行き場所がないから――いわば、私個人の、勝手な我儘よ。私の名前を出すことなく、遺族の元へ届けて頂戴」

「…………姫様……」

 ぎゅっ……と皺だらけのファボットの顔が苦悶に歪む。

 きっと、これを届ければ、遺族は冬を乗り切る資金を得たと、あるいは見知らぬ誰かが不幸な事故で命を落とした男の死を悼んでくれていると、喜ぶだろう。

 きっと、どこの誰がこんなことを、と問われることだろう。せめて礼を言いたいと、懇願されるかもしれない。

 そこで、ミレニアの名前を出せば、ミレニアの支持は市井でうなぎ上りだろう。皇族の中にも理解のある者がいると、信頼を束の間回復できるかもしれない。

 だが――ミレニアは、そんなことはしないでくれ、と言っているのだ。

「同じ出来事が起きたとき、全ての場合で同じように出来ない振る舞いを、皇族は決してするべきではない。特別扱いは、その後の軋轢を生むわ」

「ですが――それにしても」

「いいの。……第一、そんな風にして束の間の信頼を得たところで、今の私自身には何の力もない。国を立て直す約束が出来るわけではないもの。市井の民をがっかりさせるだけだわ。信頼の回復は、ただ、我々皇族や貴族たちの行いが正され、結果でのみ成されるべきよ。こんな、自己満足の小さな行いで成されてよいものではないわ」

 ふわり、と笑む少女は、とても齢十三歳とは思えない。

 握らされた黒玉の耳飾りをぎゅっと握り締め、ファボットは震える声を出した。

「儂は――ただ、悔しいのです、姫様」

 キラリ、と皺で埋もれた眦に、一粒の水滴が光る。

「これほどまでに、民を想い、国を想い、未来を憂いて惜しみない努力をし、己の利など顧みず、常に民と国の利ばかりを優先して……強く、誇り高く、心優しい姫様の素晴らしさを――貴女が成した数々の偉業を、市井の民は、誰も知らない」

「ふふっ……なんだか、ものすごい傑物のように言ってくれるわね。ありがとう、ファボット。お前に孫娘のように慕ってもらえたこと、とても嬉しく思うわ」

「決して、おべっかなどではございませんぞ。紅玉宮で古くから働く者たちは皆、心からそのように思っております」

 しゃがれた声で男泣きをする老人の言葉に、ロロが静かに頷く。奴隷根性が染み付いた者からの同意をもらっても、いつも通りとしか思えないから不思議だ。

「一方的に暇を出してしまった主に、そこまで言ってくれるお前は本当に得難い人材だわ。……困ったことがあれば、いつでも訪ねてきなさい。私に出来ることがどれだけあるかはわからないけれど、精一杯知恵を尽くして力になると、約束するわ」

 ミレニアは涙を浮かべてうつむいてしまった老人の手を握って、優しく伝える。

「せめて……せめて、辻馬車に乗り合う客には、姫様の素晴らしさを口伝し続けることは、お許しください。それだけが、儂の残された老い先短い人生で成すべきことだと思っております。どうか――どうか……」

「まぁ。ふふっ……気持ちは嬉しいけれど、爺馬鹿もほどほどになさいね。皇族の肩を持つなんて――と、今の世の中では、どこの誰に恨みを持たれるか、わかったものではないのだから」

 泣きながら訴える老人の言葉を完全に否定することは出来ず、控えめに苦言を呈して、そっと手を離す。

「せっかく紅玉宮に来たのだもの。良ければ、ディオの墓に参って行って頂戴」

「はい、言われずとも。馬車で、特大の花束を持ってきました。この後、寄っていくつもりです」

「ありがとう。きっとディオも、喜んでくれるでしょう」

 ふわりと微笑むミレニアは、誰もが心酔する主そのものだった。

 美しい黒玉の耳飾りを外し、宝飾品を取っ払った姿でありながら――誰よりも眩しい美しさで、長らく自分に仕えてくれた従者の一人の背を見送ったのだった。


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