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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第四章

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59、勇敢な守り人①

 ――少年に、『母』の記憶は、ほとんどなかった。


 薄っすらと、記憶の影、どこか遠いところにある靄がかかった光景には――自分と同じ黄土色の髪をした女が、何かを自分に語り掛けていた気配がある。それだけだった。

 顔も、声も、何もかもが靄の中。正直それが、母なのかどうかすらわからない。姉かもしれないし、親戚の誰かだったのかもしれない。――今となっては、調べる術も、調べるつもりも、全くなかった。



 物心がついたときには、既に鉄格子がついた部屋の中だった。――奴隷小屋と呼ばれる、狭くて暗くて『世界の肥溜め』と呼ばれるにふさわしい空間。

 最初は労働奴隷として働かされていた。

 クソみたいな貴族の家で、クソみたいな仕事を沢山させられた。

 何年も何年も、似たような毎日の繰り返し。

「116番。仕事だ」

 一日の始まりは、大抵同じ。重苦しい鉄の扉を開いて、そんな声が飛ぶ。

 そうして、荷馬車の荷台に他の奴隷と一緒にぎゅうぎゅう詰めにされて、仕事場へと送り出される。

 奴隷は”道具”だ。――荷物扱いなのも、当然だった。

 労働奴隷といえど、命の危険はどこにでも転がっていた。胸糞悪い貴族に、謂れのない暴力を振るわれることなど当たり前だったし、建設現場などの仕事では、危険な事故が起きることもある。

(そういや、もうすぐ、公衆浴場とやらの建設が始まるんだっけ?また、熱くて暗くて最悪な現場なのか……行きたくねぇなぁ……)

 そんなことを考えながら、何気なく空を見上げる。

 枷と鎖に繋がれて眺める空は、青く澄み渡った快晴で、酷く遠くて眩しくて――

 ――看守に鎖を引かれた奴隷には、手を伸ばすことすら出来なかった。

「とっとと歩け!」

 考え事をしていたのがばれたのか、乱暴に鎖を引かれて、思わずつんのめる。

 視線は鎖に導かれるようにして、無理矢理に地面へと縫い付けられた。昨夜の雨でぬかるんだ泥水が、足元でパシャリと音をたてる。

 まるで、お前の生きる場所はここだと言わんばかりに。

 ――今日もまた、変わり映えのしない毎日が、やってくる。



 その日は、突然やってきた。

「116番。仕事だ」

 それ以外の言葉を知らないのでは、と思ういつも通りの看守に導かれて連れていかれたのは――

「――剣闘場……?」

 それまでの人生では馴染みのなかった場所だった。

 どうやら、今日の前座を務める新人剣闘奴隷が、逃亡してしまったらしい。本日デビュー戦を飾るはずだったその奴隷は、どうやら奴隷として生きる人生を受け入れられなかったようだ。直前になって、無謀にも枷を付けられたまま逃亡を図り――すぐに捕まり、見せしめに酷い折檻を受けたという。

 そのため、急遽代役が必要となったため、少年にお鉢が回ってきたのだ。

 奴隷になったばかりの新人剣奴が、猛獣と戦わされる前座だった。恐怖に怯え、剣闘に慣れぬ弱者を一方的にいたぶる見世物は、今日たまたま他の仕事が入っていなかった少年労働奴隷でも代役が可能ということだろう。――反吐が出る。

 初めての剣闘に出ると言うことで、看守から事務的な説明を受ける。武器をひと振り貰えること。奴隷も猛獣も複数用意されていて、混戦を極める中で醜く藻掻いて生き延びることが、少年に与えられた役割だということ。

 それらをどこか冷めた鳶色の瞳で眺めて聞きながら、少年は見知らぬ逃亡奴隷へと想いを馳せる。

 逃亡は、この世界における禁忌に等しい大罪だ。逃亡奴隷は、命の危険も伴うほどの酷い折檻を受けたことだろう。運が悪ければ、このまま死亡することもあるはずだ。

(かわいそ……ここのルールがわかってないんだろうなぁ)

 見知らぬ奴隷の境遇に、口先だけの同情を胸中で呟く。口の端には、嘲笑が浮かんでいた。

 一度この肥溜めに堕ちたが最後――二度と這い出ることは叶わない。

 ずぶずぶ、ずぶずぶと、まるで流砂に捕らわれたかのように、ただ静かに沈んでいくのを――足掻いて、足掻いて、足掻き続けて、ただ今日一日を生き延びることだけを考える。

 これが、奴隷に堕とされた者がたどる人生の鉄則だ。

(”道具”が”人間”扱いされることを望んだりするから、駄目なんだよ)

 見上げる空は、どれほど眩しく広くても、そこに羽ばたくことは叶わない。枷と鎖を付けられた手足で、どこへ行けると言うのだろうか。

 ただ、支配階級の言いなりになって、理不尽に耐えながら、吐息と鼓動を止めないように、必死に必死に、毎日を生き延びる――

 ”自由”なんて、求めるから、辛いんだ。

(”道具”に心なんかいらない――そんなもの、持ち合わせるだけ、無駄だから)

 剣闘場の入り口に立つと、既にボルテージが上がっているらしい場内から、割れんばかりの歓声が聞こえてくる。

 人の生き死にに歓声を上げ、愉悦の笑みを漏らす、クソみたいな娯楽の場所に――少年は今日も一日を生き延びるため、生まれて初めて、足を踏み入れたのだった。



 ――剣闘場から見上げた空は、今日も広く、高かった。



 それは、例年に比べて一段と寒さの厳しい冬のことだった。

「っ……さ……っ、ぶ……!」

 狭い奴隷小屋の中で、ガタガタと震えながら身体を縮めて限りある体温をかき集める。はぁっ……と己の手に息を吹きかけても、吹きかける先から冷え切って行って、全く温まる気配はなかった。

 ――毎年だ。毎年毎年、冬が来るたびもう何年も、こんな風に底冷えする石床の上で、凍え死ぬ恐怖と戦い続けている。

「そろそろ温まったかな……」

 奴隷小屋に、暖炉などというものはない。道具に、冷暖房など必要ないからだ。

 まして、暖炉など――炎も薪も、万が一反抗的な奴隷がいれば、支配者たちにとって厄介な武器として悪用されかねない。そうでなくても、この生活に耐えきれなくなった者が自死を図ったりしかねない物は、何一つこの空間の中には置かれないのだ。

 唯一与えられる火は、燭台にともされた明かり用の蝋燭だけ。

 少年は、そこにたった一つの温石をかざして、頼りない熱を目一杯集めていた。

「ふぅ……」

 温まった温石を手にして抱え込むと、じんわりと柔らかな温もりが広がっていく。ぽかぽか、という温もりには程遠いが、少なくとも、これで凍死は免れるだろう。

 ぎゅっと握り込んだ小さな石は、物心ついたときから、ずっと持っていた唯一の持ち物だ。――きっと、奴隷小屋に来る前から持っていたんだと思う。あまり当時の記憶がないから、定かではないが。

(これがなかったら――きっと、すぐに、死んでた)

 もぞもぞと身体を動かしながら、必死に小さく頼りない暖を取る。腹の辺りに押しやれば、身体の中心からゆっくりと全身へと温もりが移っていくような錯覚を覚えた。

 何も縋る存在(モノ)のないこの人生で、唯一、彼が命を延ばすために縋れるのが、このちっぽけな温石一つだった。

「あったけぇ……」

 心が緩んで、しみじみとした声が思わず口の端からこぼれていた。

 初めて剣闘場に立った日――あの日から、少年の生活は再び転がり始めた。

 必死に慣れない剣を扱って生き延びた後、思いのほか筋がいいと見込まれたのか、剣闘奴隷になれと言われた。

 奴隷商人同士で話がついたら、それはもう決定事項だ。少年の意志など関係ない。――ただ、言われるがままに転がり続けるしかない。左頬に焼き印を入れられたときはさすがに激痛で死ぬかと思ったが、意外としぶとく、今日まで変わらず生きている。

 それからは、必死で生き延びるために剣の扱いを独学で覚えた。真っ白な布を腰に巻いて、主役の前に場を盛り上げる前座を務めるだけの毎日。

 ただ、生き延びようと必死だっただけなのに、いつの間にか、連戦連勝で、前座を務める奴隷の中では顔を覚えられる人気奴隷となっていた。

「とはいえ、こないだ初めて見た66番――さすがの風格だったよな……ああいうのが、本当の”人気奴隷”なんだろうな……」

 命からがら前座を終えて、剣闘場を去るときに、入れ替わるようにして場内へと入って行った奴隷を脳裏に思い描く。

 剣闘場で、一番の金が集まるのはどの奴隷かと問われれば、満場一致であの紅い瞳の奴隷を答えるだろう。

「身体とか、ドン引くくらいバッキバキだったし……血まで凍りついた冷血漢、っていうのは本当なのかな……」

 剣闘は、どこまで行っても見世物だ。目で観客を楽しませるために、身体を守る鎧など身に着けることは許されない。上半身は殆ど裸といってもいいほどに露出する衣装を身に着けさせられることも多く、すれ違った伝説の奴隷は、さすがに男でも思わず見惚れるほどの肉体美を誇っていた。

 全身いたるところに残されている歴戦の剣闘の果てにつけらられた傷跡もまた、彼の男としての魅力を上げるように思えるから不思議だ。そんな、逞しさの塊といっても差し支えない身体と裏腹に、顔は、まるで花形の性奴隷のように整っているから、困惑する。さすが人気絶頂の剣闘奴隷。黒布、というのも頷ける。

 しかし、禍々しい色と評判の瞳は、理不尽なこの世界に冷めているかのように、冷ややかに何の感情も映してはいなかった。

「はぁ……俺も、もっと鍛えよ……」

 言いながら、やっと温まってきた身体を起こし、枷の嵌った手足を伸ばしてストレッチする。

 どうせ、この狭い空間で出来ることなど限られている。特に冬は、凍え死なぬように、常に身体を動かしている方が効率的だ。

「よっ」

 小さな掛け声を上げて、幼い少年奴隷は、今日もまた一人、かじかむ手足に温石を当てながら、鍛錬に打ち込んだ。


 

 ガシャン……

「116番。――出ろ」

「……へ?」

 それは、ここへ来てからもう何回の冬を乗り越えたか、数えるのも忘れたころ――

 今年も小さな石ころを供に、冬を乗り越えるのだろうと思っていた時、看守から掛けられた言葉に、思わず間抜けた声を上げていた。

 ずっと、一字一句違わない言葉しか発しなかった看守が、初めて――「仕事だ」以外の言葉を口にしたのだ。

(……なんだ……?)

 訝しむように看守の顔を眺めて、大人しく従う。鎖を引かれて、奴隷小屋を出た。

(……奴隷商人の家がある方だな)

 行き先に辺りを付けて、より困惑して眉を顰める。久しぶりに、仕事以外で屋外へと出された。

(どうせまた、ろくでもないこと言われるんだろ。……あー、ヤダヤダ)

 鬱々となりそうになる気分を抱え、空を見上げる。

 今日も、広くて高い空は、鬱陶しいくらいに青々としていて、美しい。

 名もない鳥が、すぅ――と一羽、横切っていくのが見えた。

(いいねぇ……鳥サンは、自由に羽ばたけて、好きなものを好きな時に食べて、寝て……俺なんかより、よっぽどいい暮らししてんじゃん)

 奴隷の天敵とも言える商人の家に呼び出されるなど、どう考えてもろくなことではない。嫌な予感をひしひしと感じる現実から逃避するために、言っても仕方のない皮肉を胸中で呟いた。

「ほらっ!ぼさっとするな!」

「っ――」

 ジャラッ

 いつかのように無理やり鎖を引かれて、強制的に視線が地面へ落される。――広い空に憧れることなど許さぬ、というように。

(へいへい……どうせ俺は、白布だよ。せいぜい、ぼろ雑巾みたく使い倒してくれればいいさ)

 数年前、あの伝説の黒布が、皇女に気に入られて買い上げられたというのは剣奴界隈の中では有名な話だ。

 思い出すのは、剣闘場で何度かすれ違った、美丈夫の姿。顔も身体も実力も、そりゃぁお姫サマだって気に入っちゃうよね、と思う男だった。

 ――しがない白布の自分には、逆立ちしたって訪れない未来だ。

「連れてきました」

「よし。入れ」

 暗澹たる思いを抱えて商人の屋敷に連れられた先で――少年は、再び運命が転がる音を聞く。



 ――次の主は、クソみたいな奴隷商人にも勝るとも劣らない、クソみたいなお貴族様だった。


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