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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第三章

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50、【断章】姫君の思惑

 急遽、ディオルテ――ディオを伴うことになり、帰り支度が慌ただしくなる。

 一度このカルディアス別邸を出れば、二度と戻っては来られない。奴隷であった彼に私物などほとんどないが、いざというときのために与えられていた武器や最低限の着替えなどはある。それらをまとめている時間で、蚊帳の外だったファボットにも状況を説明せねばならない。マクヴィー夫人が、慌ててファボットの元へと駆けて行く。

 応接室にミレニアとロロだけが残され、ふぅ、と少女は今度こそ隠すことなく嘆息した。――たった一刻ほどで、予期していなかったとんでもない事態が沢山起きた。疲労もたまるというものだ。

 ――心を許した護衛兵の前でくらい、素のため息を漏らしても許されるだろう。

「……よろしかったのですか」

「え?」

「あの奴隷――ディオルテを、引き取るなど……」

 ぽつり、と呟くように尋ねられた質問の意図をくみ取り、ミレニアは口の端に苦笑を浮かべる。

「仕方ないわ。――後悔はしない、と言ったでしょう。もう、終わったことよ」

「……ですが……」

「思いのほか、交渉は上手くいったと自負しているわ。……正直、賠償金が零になるかとも覚悟していたのだけれど。公子殿が交渉ごとに疎くて、こんなに助かったと思ったことはないわね」

「――――……」

 ロロは、もの言いたげな表情をしたものの、ぐっと何か言葉を飲み込んで視線を下げる。

 ミレニアに、ディオルテを買い上げるだけの資金はなかった。考えた末、ミレニアは、ヴィンセントに交渉を持ちかけた。

 皇族との婚約破棄を公爵家から申し入れるならば、賠償金を支払う義務が生じる。皇族に手を上げた不敬も加味すれば、とんでもない金額になると脅し、可能な限り額を吊り上げさせた。

 その上で、ディオを購入したときの金額の半額を、賠償金から割り引いてやるから、ディオを引き渡せと交渉したのだ。

 正直、全額分と引き換えになる可能性が高い分が悪い賭けだった。しかし、交渉ごとに疎いためか、もう少しもミレニアに関わり合いたくないと思っていたためか、「半分は商人に騙された勉強料だと思って大人しく支払え。痛みの伴わない学びなど真に備わらない」というやや暴論に近いミレニアの主張を飲み、ディオの購入金の半額分だけを差し引いて、僅かばかりではあるが、賠償金をちゃんと手元に残すことが出来た。

「あまり、嬉しい額ではないかもしれないけれど――なんとか、紅玉宮の者たちの退職金くらいにはなる金額だわ。これで私も、気兼ねなく動くことが出来る」

「……姫……?」

 ふ、とミレニアは少し寂しそうに笑う。

「言ったでしょう。……知って、しまったことを、知らなかったようには、振舞えない」

 脳裏をよぎるのは、黒衣の護衛兵が持ってきた、今の帝国の惨状。筆頭侍女が語った、耳を覆いたくなるような悲惨な事実。

「近いうちに、ギークお兄様に上申することになるでしょう。その時までに――身辺整理を、しておかないと」

「!」

「……人質を取られて、身動きが取れなくなっては、意味がないもの」

 困ったように眉を下げて、ミレニアは力なく笑う。

 今のミレニアにとって、失って困るのは、ただ、彼女を慕ってついてきてくれる従者たちだけだ。

 上申は、ミレニアの皇族としての矜持だ。彼女の生きざまが、見て見ぬふりを許さぬと、己に強く訴えかけてくる。

 だが――そんな、個人的な我儘で、従者の人生を左右してはいけない。

「紅玉宮の皆に、退職金を渡して、全員に暇を出せたら――すぐにでも、上申するわ。本当は、次の働き先を探せた者から順に、と思っていたけれど、この賠償金ではそこまでの余裕はなさそうだから……申し訳ないけれど、先に暇を出すしかないでしょうね。そうすれば、少なくとも身軽にはなれる。早く上申できるのは良いことだわ。……勿論お兄様には、私の言を聞いていただけるように最大限の努力をするつもりだけれど――まぁ、最悪の事態になることも考えておいた方が良いでしょうね」

 ミレニアは、笑みを作ろうとして――うまく作れず、ただ渋面を作るだけにとどまる。

 だが、ふと、目の前の護衛兵が厳しい顔をしているのを見て、作れなかった笑みが自然とこぼれた。

「そんな顔をしなくても大丈夫よ。私が男だったら、罪状をでっちあげて極刑に処されることもあるでしょうけれど――女の皇族は、法律上処刑することは出来ないの。せいぜい皇族の地位を剥奪されて、市井に落とされるくらいだわ。良くも悪くも、女の地位が低いせいで、ね」

 政治に女が介入することなど、あり得ない――そんな帝国社会のアタリマエのせいで、女の皇族が何か罰を犯したとしても、地位剥奪の上で市井に追放されるだけで終わる。政変を起こしかねない男とは、そもそもの扱いが異なるのだ。

 そんな国を変えたい――と、思っていた時も、あった。

「だから、安心なさい。……お兄様が、どれほど私を憎もうと、公には私を殺すことなど出来ないから」

「では、非公式であれば、その可能性も――?」

「ふふっ……そうね。でも、市井に落としてから殺そうとするなんて、面倒なことをあのお兄様がするようには思えないけれど。――女の身で、市井で、戸籍もなく生きていくのは難しいから」

「っ――!」

 皇族には、戸籍がない。名乗るべき姓もなく、寄る辺はただ一つ、国家のみ。

 選ばれし一族だからこそ――市井に下れば、生きる術は、ほとんどない。戸籍がない以上、普通の結婚すらできないのだから。

 結果として、市井に落とされ、女の身で生きて行こうと思えば、身体を売って、日銭を稼ぐ他ないだろう。場合によっては、奴隷に身をやつす可能性すらある。故に歴史上、市井に追放された皇女の例は少ないが、大半が屈辱に堪え切れず、自死を選ぶ者がほとんどだったという。

(……そんな事実を知ったら、この男は怒髪天を衝かせて、私の上申を待たずにギークお兄様を弑逆しかねないわね)

 ミレニアのためならどんなことも厭わない忠臣を想い、苦笑する。

「まぁ、だから、ディオをもらい受けたのは、悪いことばかりでもないのよ。……皆に暇を出すにしても、全員を一気には難しいでしょう。段階的に暇を出していくしかないことを思えば、最後の最後まで、給金なしで働いてくれると言うディオは、得難い貴重な人材だわ」

「!」

「彼の忠義という名の弱みに付け込んでいるようで、少し心が痛むけれど……見返りを求めず、最後まで傍にいてくれる存在、というのは正直とても助か――」

「俺がいる!!!」

 ビクッ……!

 急に、普段の寡黙な性格からは考えられぬほど大きな声で鋭く叫ばれた声音に、思わずミレニアの肩が跳ねた。

 驚いてロロを見上げれば、彼はその顔に珍しく怒りと焦りの表情を浮かべていた。

「俺がっ……いるだろうっ……!」

「ロロ……?」

「昔、言ったはずだっ……忘れたのか……!?金も、休みも、そんなものは何一ついらないっ……!誰が傍にいても、いなくても、俺は生涯、アンタのことを、一番傍でずっと守り続ける!」

「――――」

「あんな子供に、頼らなくてもいいっ……どんなことがあっても、俺は、絶対に、アンタから離れたりしない!アンタがくれた、騎士の名に懸けて、必ずアンタを守り通す!っ――見返りを求めず、最後までアンタの傍にいるのは、他の誰でもない、この俺だ!そのために必要なことなら、どんなこともする……!皇城でも、市井でも――俺がいるかぎり、アンタに苦労なんかさせない――!」

「――――――……」

 普段の物静かな男からは想像もつかぬほどの苛烈な、激昂にも慟哭にも似た訴えを前に、ミレニアは驚いたように翡翠の瞳を何度も瞬く。

 しばらくしてから、ふっと吐息を漏らして、笑みをこぼした。

「ふ……ふふっ……」

「何がおかしい……!」

「いえ……ごめんなさい。お前が、あまりに必死だから、可笑しくて」

「何を――!」

 カッとさらに言い募ろうとした青年の言葉を手で制し、ミレニアはくすくすと笑う。

「ふふっ……あんな子供に、だなんて――お前らしくもない。まさか、対抗心を燃やしているの?ふふふ……大丈夫よ。お前の忠義を――献身を、疑ってなどいないわ」

「な――!」

「ディオは、あくまで『引き取った』者よ。――お前は私が『手に入れた』者だわ。……安心なさい。誰よりも一番特別で、大切なのは、お前よ。ルロシーク」

「っ――!」

 世界中の男を虜にするほどの、蕩けるような美しい笑みで言われ、不意に心臓が飛び跳ねた。ぐっと思わず続く言葉を飲み込んでしまう。

「普段は寡黙な私の専属護衛は、思いのほか、嫉妬深い一面を持っているようね?初めて知ったわ」

「っ……揶揄わないでくださいっ……俺は、真剣に――!」

「ふふ、冗談よ。……さぁ、そろそろ行きましょう。早くせねば、日が暮れてしまうわ」

 ミレニアはなおも可笑しそうにクスクスと笑いをかみ殺しながら、先導するように部屋を後にする。ロロはぐっと悔しそうに顔を顰めた後、大人しく後ろに従った。

(――さて……真面目に、考えねばいけないわね)

 ミレニアは扇で顔を隠しながら、胸中で考える。

 揶揄われたと思ったロロは、気づかないでいてくれただろうか。

 ――――ミレニアが、ロロの発言を、上手く煙に巻いたことに。


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