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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第三章

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36、主の矜持②

 しん……と草木も寝静まるような、夜半過ぎ――昼間の日差しの厳しさなど忘れてしまったかのように、ぎゅっと冷え込んだ空気が染みわたる。

 頭上に広がるのは、インク壺をひっくり返したような黒々とした夜空。

(――姫の、髪の色のようだ)

 夜の冷気を遮断する、闇と同化する色のマントに守られ、ロロは紅玉宮の中庭から、何気なく空を仰いだ。

 今日は、新月なのだろうか。すっぽりと闇色に塗りつぶされた夜空に月は見えないが、小さく瞬く星だけはちらほらと顔をのぞかせている。

 ふと視線をやると、豪奢な建物の中に、一つだけ明かりのついた窓。――どうやら、ミレニアはまだ起きているらしい。

(眠れないのか。……無理もない……)

 いくら大人びているように見えたとしても、まだ、十三歳の少女だ。何より、彼女がギュンターのことを心から敬愛し、慕っていたことを、ロロはよくわかっている。

 この三年――誰より一番傍で、ミレニアを見守り続けてきたのだから。

「臣下の前では、ことさらに気を張る方だからな……」

 ぽつり、と小さくつぶやいた言葉は、ふっ……と冷たい夜風に溶けて、消えた。

 夕方――空に薄闇が広がり始めた時間帯に、独り紅玉宮に帰ってきたときの主の顔を思い出す。

 毅然として、とても愛する父親を亡くしたばかりの少女とは思えぬ横顔。痛ましげな顔を見せる臣下を前に、動揺の欠片も見せぬ、隙のない瞳。

 ――それとは裏腹に、無意識で”お守り”を辿る、小さく震えた細い指――……

「――――……」

 ロロは小さく息を吐いて、もう一度、頼りない窓の明かりを見やる。

 今、あの明かりがついた部屋の前にいるのはガント大尉だけだ。結局、ミレニアの言葉通り、他の護衛兵たちは皆一度家に帰されてしまった。――今夜ミレニアを守るのは、ガントとロロだけとなる。

(ガント大尉も……本来であれば、もっと別の場に配属されていてもおかしくないんだろう)

 数刻前に、後ろ髪を引かれるような顔をしながら、紅玉宮を後にしていった護衛兵たちの顔を思い浮かべながら、考える。彼らのうち何人が、明日以降もここに詰めることになるのだろうか。

 今夜、唯一ここに残ることが出来たガントは、侯爵家の出身とは言いながらも、五男という立場のため、軍人としての出世コースからは大きく外れていた。家の威光が発揮されるのは、せいぜいが三男程度までだろう。上の兄弟たちにも息子たちがいて、彼自身の家中での立場は全く強くない。故に、幼いころから武芸を磨き、勉学に励み、コネなど殆どない状態で軍属となり、若いころからいつだって前線で戦ってきたと聞く。

 そんな状態で――大尉となったのだ。

 この国で佐官以上になるには、強力な実家のコネが必要だ。つまり――大尉という地位は、現場から叩き上げで成り上がる最高位の役職ということになる。

 彼は、実家の後ろ盾などないままに、実力だけでその地位を得た。明るく快活で、熊のような大柄な体格の彼は、『侵略王』によって繰り返される数多の戦の中でその実力を大きく買われて、ミレニアの護衛に抜擢された。専属とまでは言わないが、護衛兵の中では最もミレニアの護衛に配備されることの多い兵士であることは間違いないだろう。ギュンターは、間違いなくガントの実力を一番買っていたのだ。

 五男という立場と、今のガントの年齢を考えれば、貴族たちの勢力拡大のきな臭い駆け引きの渦中に放り込まれる可能性が低いことは確かだが、単純な兵士としての実力は折り紙付きだ。人柄も良いため、兵を率いさせれば、良い指揮をするだろう。実際、紅玉宮の護衛兵たちをまとめるのは、自然とガントの役割となっていた。おそらく戦場に出ても、活躍の場が多いはずだ。

 今日は、紅玉宮にとどまることが出来たが、今後もミレニアに仕え続けることが出来るとは限らない。

「――――俺が」

 ぽつり、と低い声が小さくつぶやく。

『本当に守りたいものは、誰にも頼らず、己の手で守り抜け』

 耳の奥で、昼間、主の血縁から告げられた言葉が蘇る。

 我知らず、首元へと手が伸びていた。

 黒衣の下――微かな手ごたえを返してくる、小さな小さな、首飾り。

 唯一絶対の忠誠を誓う、世界で一番大切な主の、瞳の石。

(――誰がいても、いなくなっても、関係ない。俺が、あの方を、この世の全てから守ればいい)

 漆黒の闇に沈んだ世界で静かに決意を固める。

 この命は、あの少女のために、使うと決めていた。――三年前のあの日から、ずっと。

「……そろそろ、交代の時間か」

 何せ、今日は護衛が二人しかいない。一人がミレニアの傍に控え、もう一人が宮を巡回し、異変がないかを確認する。

 次は、ロロがミレニアの傍に控える番だ。

 専属護衛の象徴でもある、漆黒に溶けるような黒衣のマントを翻し、ロロは頼りない明かりが揺れる部屋へと向かった。


 ◆◆◆


「……おや、ロロ殿。もう交代の時間ですかな?」

「あぁ」

 部屋の前まで行くと、熊のような壮年の兵士がこちらに気づいて声をかけてきた。短く答えて、チラリ、と閉ざされた扉を見やる。

 それだけで、ガントにはロロが言いたいことが察せられたのだろう。苦笑して、ガントもまた一緒に扉を見やる。

「侍女たちが退室してからと言うもの、ずっと静かなものだ。眠られたのかもしれん」

「……そうか。外から見たとき、明かりはついてたが」

「寝落ちてしまったのかもしれんな。――眠れるなら、良いことだ」

 少女の精神にかかっているであろう負担を思えば、ガントの言も理解できる。ロロが、無言で静かに瞳を伏せると、ガントは小さく苦笑して、ポン、と青年の肩を叩いた。

「折を見て、部屋を覗いてみてはくれんか」

「……俺が……?」

「あぁ。眠っておられるなら、問題はない。ソファで寝落ちていたら、寝台へとお運びしてくれ。……だが、もし起きていらっしゃったら――きっと、姫様は、私の前では、弱いところを見せられんだろう。ならば、やはり、部屋を覗くのは、ロロ殿が良い」

「――――……」

 一瞬、ぱちぱち、と紅玉の瞳が戸惑った様に瞬いたあと、怪訝そうに大柄な男を見上げる。

 ふ……と帝国貴族らしい褐色の頬が、苦笑を深めるように歪んだ。

「姫様は、強いお方だ。まだ幼いが、生まれながらにして高潔な魂を持つ、主として頂きお仕えするにはこれ以上ないお方だ」

「あぁ」

 そこに何の異論もない。間髪入れずにいつもの無表情のまま頷く青年に笑って、ガントは物音ひとつしない扉へと視線を向けた。

「だが、まだ、十三歳の少女でもある。――陛下とは、誰から見てもほほえましいほどに、仲睦まじい親娘だった。幼いころから大人びた少女だったが、時折、陛下の前では、思い出したように歳相応の子供らしい表情をすることもあった。……そのお方が、亡くなられたのだ。その哀しみは、喪失感は、言葉に出来ぬほどだろう。容易に受け止め、昇華できるものではない」

「…………あぁ」

 ロロに、肉親という存在はいない。故に、想像することしかできないが――それでも、少女が今、深く傷ついているであろうことは、さすがに察することが出来る。

「臣下の前では、”主”であり続けようとされる、素晴らしいお方だが――私は、時には子供らしく、感情の赴くままに、周囲の大人に、みっともなく泣いて叫んで八つ当たりの一つでもしてほしい、と思って居る」

「――――……」

「だが、それをよしとするお方ではないだろう。私がいては、強がって”主”の仮面を被ってしまわれる。もしも、姫様がその仮面を脱ぐことが出来るとすれば――ロロ殿。そなたの前だけだろう」

 ピクリ、とロロの眉が微かに動く。すぃっ……と視線が静かに左下へと移動した。

 さすが、長年ミレニアに仕えてきた兵士というだけあって、ガントのミレニアに対する考えは、大筋ロロと相違ない。

 だが――最後の一点だけ、どうにも理解が出来ない。

「俺なんかが、姫に何か、出来るとは思えない――……」

「そうだろうか?私は、そなたであれば、姫様も心の内を吐露してくださるのではと思うが」

 そうして笑ってから、ガントはくるりと踵を返す。

「まぁ、姫様も、精神的に参っているときに、こんな熊のような武骨な男に近寄られるくらいなら、見目形の良い若い男の方がよいだろう。頼んだぞ、ロロ殿」

「――――……」

 冗談めかして言いながら、去り際に、ポン、ともう一度だけ肩を叩いて、ガントは巡回のため去っていく。

 その後姿を見送り、ロロは静かにため息を吐いた。


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