170、夜の女王⑤
さらり、とこともなげに言われた言葉に、ミレニアは思わず耳を疑う。
「おい」
「なぁに?」
「支払いを分けたい。革袋六つと――残りは、いつも通りでいいか」
一瞬、ラウラは大きな黒瞳を驚きに目一杯見開いて――
「ふっ……あっははは……!そう。なるほど。ふふっ……良いわよ。それで請け負いましょう」
「ロロ!?一体お前、何を言って――」
「あぁ、これだから貴方との取引はやめられない。貴方ほどの男が、このお嬢様のためならとその身を擲つ様を見るのは、とても愉快で――同時に、とても不愉快」
妖艶な笑みの奥に仄暗い闇を宿して、ラウラはすっと足を踏み出し、ロロのパーソナルスペースを当たり前のような顔で犯す。
「お前の感情なんざ知ったことじゃない。――契約成立だ。しっかり仕事を果たせ」
「勿論よ。報酬分はきっちり働くわ。ビジネスですもの」
言いながら、つぅ――とロロの胸のあたりに細い指を這わせる。ねっとりとした視線が絡みつくのを、ロロは不愉快そうな顔で睨みつけるが、指を跳ね除けることはしなかった。
「貴女の大事なお嬢様はどうするつもり?――私は、ギャラリーがいても燃えるけど?」
「ぶっ殺すぞ」
挑発するような物言いを明らかな怒気を混じらせて一蹴した後、ロロはミレニアを振り返る。
「どういうこと?ちゃんと説明して!」
ミレニアは話について行けずに、ただ困惑をその顔に宿している。
「いつも通りって何!?お前は一体――」
「お嬢様。……湯を」
「……へ?」
「湯を、張りますので。――休息を、取ってください」
「……はぃ??」
苦い顔で唐突に訳の分からないことを言い出した護衛兵に、ミレニアはぎゅっと眉根を寄せて怪訝な顔を返す。
ロロの後ろで、ぷっ……とラウラが小さく吹き出した。
「そういうこと。……ふふ、貴方は入らなくていいの?」
「そんなことを気にする質でもないだろう。……お前も俺も」
「えぇ、そうね。そのままの貴方も、いつもより野性味があって、とっても大好き」
「チッ……反吐が出る」
舌打ちと共に口汚く罵るロロに、ミレニアはぐるぐると混乱する頭を抱える。
明らかに、何かおかしい。二人の間だけで話が通じている。
何より――なんだ、この、一瞬で濃密になったアダルトな空気は。
「い……いらないわっ……!」
「お嬢様」
「さ、さっき湯に浸かったもの!」
嗜めるような言葉にも、ふるふる、と頭を振って拒否を示す。
何だろう――女の勘が、告げている。
今、絶対に、彼らを二人きりにすべきではない。
「もうイイじゃない、正直に教えてあげたら?」
「潰すぞ」
「ねぇ、お嬢様も知りたいわよねぇ?」
ロロの脅しになど屈するはずもなく、ラウラは愉快そうにミレニアに声をかける。こくこく、とミレニアは蒼い顔で何度も頷いた。
「私がロロと初めて出逢ったのは奴隷小屋――それも、酷くイカ臭い最低の場所で出逢ったの」
「イカ……?」
「貴女は生涯知らなくていい情報です」
怪訝な顔で海に棲む軟体生物を脳裏に描いているであろう少女の耳をそっと塞いで、女神の耳が穢れるのを防ぐ。
「あらあら。確か、お嬢様は昨日で十五になったんじゃなかったかしら?もう十分にオトナでしょう?そう過保護にすることもないじゃない」
いずれは通る道なのだから、と嘯くラウラの唇は弧を描いていて、それが本心ではなくただ面白がっているだけであるのは誰の目にも明白だ。
相変わらずの嗜虐趣味の混じった視線に辟易しながら、ロロはげんなりとラウラを振り返る。
「ふふ、素敵な目。そういうの、嫌いじゃないわ」
言いながら、そっとロロの片手を取ってミレニアの耳から離させる。
「初めて出逢ったときから、私はこの男の虜。だからそれ以来、彼だけは”特別扱い”をすると決めているのよ」
「嬉しくない」
「酷い人。今まで散々、”特別扱い”に助けられてきたでしょう?――元手を減らさず”お遣い”をこなして、革袋一杯に詰まった宝石を用意できたのは誰のおかげ?」
つつぅ――と官能的に取られた掌を撫でまわす指先に、ロロはわかりやすく顔を顰める。そう問われてしまえば、それはラウラの”特別扱い”のおかげと言わざるを得ない。
(え……つまり、ロロは今まで、ラウラの”お遣い”で一度も対価を払ったことがないの……?)
驚いてロロを見上げる。苦い顔をしている横顔が、何よりの答えだった。
言われてみれば、ロロに”お遣い”を頼んだことは数知れない。そのたびに彼は香の匂いを漂わせながら何食わぬ顔で帰ってきたが、当然それは、対価を支払い”お遣い”をこなした後に、元恋人としての甘い時間を過ごしているせいだと思っていた。
だからこそ、ミレニアはラウラの情報の対価がこんなにも高額だとは思わなかったのだ。
ロロは、情報料は別途で手当てを出すと言ったミレニアの申し出を断った。紅玉宮の予算が削減されることは目に見えて明らかだったあの当時、さらに情報料を追加で支払う金銭的余裕はミレニアにはない。だが、もしも支払うとなっても、ミレニアは絶対に従者に纏わる金には手を付けないだろう。
つまり、彼女自身にかかる金――食費や衣服などの日常消費――を真っ先に切り詰めることになる。
主に粗食を食わせてまですべきではない、とロロは頑として受け取らなかった。他に金の使い道などない自分は、これくらいどうとでも捻出できるからと言って――
(ま、待って、”結婚”しないと対価無しでは情報を与えないんじゃなかったの――!?)
混乱する頭が――優秀な頭が、勝手にどんどんと可能性を絞り込む。
ラウラが要求する金額の水準が、当時と今で変わらないのだとすれば、ロロに提供していた情報の重要度と頻度を思えば、いくら皇族専属護衛兵の給金が一般軍人よりも豊富とはいえ、そんなにポンポンと支払えるものではない。確かに、革袋一杯の宝石を六つも七つも用意できるという時点で、ロロは自分の五年間の給金を殆ど全て宝石に変えていたのだろうということは容易に想像がついた。
つまり、ロロは結婚という代償を支払うことなく、”特別扱い”で情報を得ていたということになる。
「待って……だ、だって、結婚以外では、無条件で情報を渡すことはしないって――!」
「えぇ。だから、無条件では渡していないわ。ちゃんと、条件付きよ。金品で支払うのと同じく、ちゃんとレートがあって、お見積りしてあげたわ」
「おい」
「金が払えないなら――身体で払ってもらうしか、無いわよね?」
勿体つけるように言いながら、ラウラはロロの左頬に手を掛ける。
ドクン……とミレニアの心臓が不穏にざわめいた。
それは、いつも自分がしていた所作だ。
愛しくて美しい紅玉の瞳を覗き込むために、こちらを向かせたいときにそうして手をかけて視線を独り占めする。
「革袋二つ――ふふ、良い見積もりだわ。確かに貴方がくれる快楽は、それくらいの宝石の山に匹敵する――」
うっとりとした表情で言いながら、自分の方へと向かせたロロへと当たり前のように唇を寄せる。
そのまま、ねっとりとした大人の口づけを交わした。
「――!」
面白くなさそうな顔をしているものの、ロロはそれを拒否するそぶりはない。
つまり、これは二人の間で特別でも何でもない、いつも通りのやり取りなのだろう。
ここまでされれば、さすがのミレニアも全ての事情に察しがつき――
ブツンッ
脳の中で、太い何かの線が焼き切れる音がした。
カァッと一瞬で頭に血が上り、脳みそが沸騰する。
怒りで目の前が真っ赤になり――衝動的に、目の前の黒マントを力任せに引っ張った。
「っ!?」
不意を衝かれて、後ろによろけるようにしてロロはラウラから離れる。
その隙を逃さず、ミレニアはずぃっと無理やり二人の間に割って入った。
両手を広げて――ロロを背に庇うようにして仁王立ちになり、キッと怒りに染め上げた翡翠の瞳でラウラを睨み上げる。
「お嬢さ――」
「ふざけないで!!!!!今すぐロロから離れなさい、この無礼者!!!!」
強烈な、一喝。
女帝に相応しい有無を言わさぬ強い一喝を食らわせたミレニアを、ラウラは驚いたように見下ろす。
「私を誰と心得ているの!!第六皇女ミレニアの前で、そんな振る舞いが許されると思わないで!!この痴れ者!!」
驚きに目を見張ったまま、ラウラは少女をじっと見下ろした。
小柄な少女が両手を広げて胸を張り、精一杯身体を大きく見せるようにしながら、鍛え抜かれた体躯の青年を庇う様は、滑稽であるはずなのに、なぜか笑いはこみ上げてこない。
「ひ――お嬢様、お待ちください。今はこれしか方法が――」
「お前もお前よ!!!そこに直りなさい!!!」
苛烈な怒りの炎を瞳に宿しながら、ミレニアはぐるんとロロを振り返る。
勢いに気圧されて、思わずその場に膝をついたロロを前に、すぅっと息を吸って――感情のままに、言葉を吐き出した。
「お前は、一体、誰の物なの!!?」
「は――……」
ぱちぱち、とシルバーグレイの睫毛が少し早く瞬いて風を送った。
一瞬、少女に問いかけられている内容がわからない。
「答えなさい!!お前は一体誰の物だと思っているのか、と問うているのよ!!」
これほどまでに怒りに支配されている少女を見るのは、何十年という記憶を湛える今のロロも初めてだった。
キリキリと眉を吊り上げながら問いかける少女に面食らいながら――それでも、その質問に答えるとしたら、答えは一つしか、ない。
「お嬢様――貴女の、物です――……」
「そうよ!!!」
間髪入れず。
ミレニアは、一瞬で肯定した。
トクン……と心臓が一つ、音を立てる。
「では、お前は誰の騎士なのかしら!!?」
「姫――第六皇女ミレニア、ただ一人の、騎士です――……」
ドクン ドクン
熱に浮かされたようにして、心からの気持ちを言葉に乗せる。
「そう!!その通りよ!!!っ――それなのに、お前は自覚が足りないわ!!!」
バッと手を胸に当て、朗々と響く声でミレニアは言い募る。
「お前は、頭の先から足のつま先に至るまで、余すところなく全て、この私、皇女ミレニアの物なのよ!!私の許可なく、べたべたと汚い手で他の女に触れさせるなんて、恥を知りなさい!」
「――!」
「お前が、自分のことを、私の物だと思っているのなら!っ……ちゃんと、私の物として相応しい振る舞いを心掛けなさい!」
「はい――」
「下品な女と下品な行為をすることを、私は決して許しはしないから!!っ、私の傍にいたいなら、もう二度と、他の女に気安く頬を触らせたりしないで!キスやそれ以上の不埒な行為なんて、もっての外よ!」
感情が高ぶり、ほんのりと潤んだ瞳でロロを睨みつけながら高い声で叫ぶ。
じわり、と胸に灼熱が広がるのがわかった。
「はい――はい、申し訳ございません」
「本当にわかっているの!?」
「はい。……はい。俺は、貴女の物です。……貴女が、許してくださる限り、ずっと、ずっと、貴女のお傍におります」
執着を、してほしかった。
どんなことがあっても離さないと、ずっと、ずっと、言ってほしかった。
「姫。――もう二度と、貴女の物として相応しくない行動はとらないと約束します」
「絶対よ!?」
「はい。ですから――ですから、姫」
怒りながら泣きそうな顔をしている少女の頬に触れる。
ドクドクと心臓が脈打ち、期待する言葉を欲して、灼熱が外に出たいと暴れまわった。
「生涯、貴女のお傍に控えることを、許していただけますか――?」
「っ……嫌だと言っても、離してあげないわっ……お前は、私の物なのだから――!」
ぎゅぅっとミレニアは拳を握り締めて言い放つ。
普段はどんなに綺麗事を並べていても、これが、ミレニアの本心。
ギュンターに言われた言葉が蘇る。
すべての綺麗事が無意味になるほど、心の底から欲した、唯一こそが、ロロだったのだ。
今更――彼を手放すなど、出来るはずがない。
ミレニアが一番嫌う、皇女としての強権を振りかざす振る舞いをしてでも、己の元へと引き留めたくなるくらいに。
「――はい。生涯、片時も離れず、貴女のお傍に」
ふわり、といつも仕事をしない表情筋が嬉しそうに緩み、笑みの形を象る。
権力を振りかざし、卑怯な方法で”我儘”を言う主を前にしたとは思えぬほど嬉しそうに微笑む従者に、ミレニアはぎゅっと瞳を閉じて俯く。
ラウラには偉そうなことを言っておいて――結局は、ロロを無理やり束縛している。
いついかなる時も余裕を崩さない夜の女王とは比較にならないほど幼稚な方法でしか彼を引き留められない自分が不甲斐なくて――それでも、どうしてもロロを手放すことだけは出来なくて。
嬉しそうに、愛しそうに笑んだ護衛兵の美しい顔を見ることが出来ずに、ただ俯くことしかできなかった。




