160、エルム様⑨
ゴクリ、と喉が音を立てる。
司祭もクルサールも、我知らず胸にかけた”聖印”を象る首飾りに手をやり、ぎゅっと握り締める。清貧を愛せよ、という教えの元、安い金属で造られたそれは、信者にとっては心の拠り所に他ならない。
「目を、逸らすなよ……」
「わかっています……」
互いの微かに声が震えているのは、寒さのせいではない。
「己を律しよ。どれほど惨くとも、決して目をそらさず、子供の無念を胸に刻め」
司祭の言葉は、クルサールに言い聞かせているようで、その実、己に言い聞かせているようでもあった。
――二人で来てよかった、と頭の片隅で思う。
これを一人で眺めていろ、と言われたら、とても耐えられなかったかもしれない。
グルルルル……
ゥゥゥ……ゥゥゥ……
少しずつ――少しずつ、唸り声が大きくなっていく。
一匹一匹の声が大きくなったわけではない。――数が、増えているのだ。
檻の中の少年は、出立の時と同じく、泣き声一つ漏らすことなく、増えていく恐ろしい影をじっと見つめているようだった。
「っ……神様――」
ぎゅぅっと聖印を握り締めたクルサールの口から、絶望の声が漏れる。
それは、祈りだ。
これから<贄>として捧げられる少年が、せめて苦しまずに安らかに逝けるように――誇り高い死を向かえた勇敢な少年が、天へと導かれて、安らかに死後の世界を過ごせるように――
チラチラと雪が舞い踊る中、永遠にも似た時間が流れ――
ゴッ!
「「――っ!」」
司祭とクルサールは、同時に息をつめた。
一匹の魔物が、ついにしびれを切らしたように、鳥籠に向かって体当たりを掛けたのだ。
「ぁ――」
がっしりとした体躯の魔物が一匹体当たりをしただけで、鳥籠はあっさりとひしゃげた。
光魔法の結界の中、安全なはずのクルサールが、恐怖にガチガチと歯を鳴らす。
「っ……く……!目を逸らすな!見ろ!」
司祭の己へと言い聞かせるような怒号が飛んだ。ぎゅっと唇を引き結び、必死に瞬きを堪えて前方を睨み据える。
ゴッ ゴッ
「っ……」
数匹が、ひしゃげた個所を執拗に狙って何度も体当たりを重ねる。一定の知能がある、とは聞いていたが、どうやら鳥籠を効率よく壊すための知識はどの魔物も有しているようだった。
檻の中の少年は、ズリ……と体当たりを掛けられている箇所から逃げるようにして後退る。狭い鳥籠の中、手枷を嵌められた手を胸へと引き寄せ、蒼い顔で衝撃が加わるたびに形を変えていく金属を眺めていた。
(悲鳴を上げないのは――死を、受け入れているから、か……?)
これが――これが、”神”に褒められるべき、『誇り高き死』のあるべき姿なのか。
魔物を前にして、悲鳴の一つも飲み込んで――
ドゴッ
グシャッ
「――!」
何度も繰り返された体当たりの結果――ついに、壊滅的な音を立てて、鳥籠が破壊された。
既に下がる場所などどこにもないが、背中を押し付けるようにしてネロは身体を縮こまらせる。
――これが、先代の司祭が、目を背けるなといった『真実』。
どれほど惨たらしくとも、最期までこれを見届けることが、クルサールと司祭に課せられた宿命。
ぐっと覚悟を決めて、泣きそうな気持で聖印を握り締めるのと――
――魔物の群れが、鳥籠に向かって地を蹴ったのは、同時だった。
「ガァアアアッ」「ガウッ」「ガウッ」
ドッと複数の獣が地を蹴り、鳥籠の中へと殺到する。
獰猛な牙を持つ頭を突っ込んで、鋭利な爪で針金のような檻をこじ開け――
バクンッ……
無慈悲に、無情に。
少年の足が、凶悪な牙が生え揃う口の中へと飲み込まれた。
――次の、瞬間――
「っ――ぅぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
「「――――!」」
大人二人の耳を、少年の絶叫が貫いた。
「ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!痛い!!!!痛い痛い痛い痛い!!!!」
それは、それまで沈黙を保っていたとは思えぬ少年の、魂の絶叫でもあった。
しかし、少年の絶叫など耳に入らぬとでもいうのか、足へ食らいついた魔物は、そのまま泣き叫ぶ小柄な身体を檻の外へと引きずり出す。
「ぎゃぁああああああああああ!!!!」
枷を嵌められた両手が、滅茶苦茶に振り回され、空を切るように抵抗の意図を示すが、魔物たちは意に介した様子もなく少年へと殺到する。
「ネロ!!」
「っ――!」
クルサールの絶望的な声が響く。司祭は、青ざめた顔で耳を塞いだ。
少年の腹に齧りついた個体を皮切りに、魔物が小柄な体を覆い隠すほどに群がっていく。
「いやだぁあああああああああああああああ!!!!!助けて!!!!助けて助けて助けて!!!」
「ぅっ、ぉえっ……」
かなりの距離があるにもかかわらず、耳元で叫んでいるかのような絶叫が届き、むせ返るような血臭が漂う。司祭は、もはや耐えることが出来ずに胃の中の物を全てその場へと吐き出した。
「ぁああああああああああああああああ!!!!」
断末魔の叫びであるそれは、クルサールの心をかき乱し、脳裏へと深く刻まれる。
ドクン、ドクンと心臓が不整脈のように音を立てた。
(死を――受け入れて、なんていない――!あんなのは、全て、詭弁だった――!)
『未練はない』と言って笑った少年の顔を思い出す。
『大丈夫だよ』とクルサールを安心させるように微笑んだ最後の別れを思い出す。
(何が、”神”の教えを体現している、だ――!?凍える前に終わればいい!?子供の無念を胸に刻む!?神に褒められる『誇り高い死』!?これが――これが、『”神”に愛される最期』だと、いうのか!?)
全て、詭弁だ。
事実は、何も変わらない。
ネロは、世の中の誰にも必要とされなかった。愛されていなかった。毎日を生きるので精一杯の、辛く苦しい日常を強いられていた。
それを、<贄>の運命を受け入れる、という言葉で己をごまかしていたにすぎない。
『未練はない』――そうでも言わなければ、死地になど、向かえなかった。
(当たり前だ――所詮、まだ、十歳の子供だぞ――!)
”神”の奇跡を起こしたとされるエルムですら、死に全力で抗っていた。<贄>に捧げられることを必死で回避しようと、未知の属性である光魔法を必死に研究し、儀式を生み出した。
(出来るわけがない――目前に迫る”死”を、毅然と受け止めるなど、それは”神”の所業だ!”人間”には決して出来るはずがない――)
だから、これは。
今、目の前で繰り広げられているこの悪夢は。
――悪魔の、所業と呼ぶに相応しいこの光景は――
「っ――ぁああああああああああああああああっっ!!!」
「クルサール!!!?」
もはや、耐えることは出来なかった。
剣を抜き放ち、御者台から飛び降りて魔物群れへと駆け寄る。
「待て!とまれ!っ――耐えろ!!!」
「嫌だ!!!私は――私は、”人間”だ!!!」
どんなに高説を垂れようと、祖国のため、命を擲つ”神”にはなれない。
祖国のため――子供を惨殺する”悪魔”にも、なれない。
クルサールが駆けだすと同時――ピカッと閃光が視界を焼いた。
群がった魔物の中心から放たれたそれは、ネロの魂の輝きに似ている。
光に焼かれ、のけぞるようにして魔物が散り散りになり、一目散に逃げていく。
「ネロ!!!」
叫びながら、必死に魔物が頭を突っ込んでいた場所へと全力で駆ける。
「っ――ぅ゛っ、ぐっ……」
魔物が視界から完全に逃げ去った後に残されていたその姿に、クルサールは思わず口を覆ってこみ上げる吐き気を堪えた。
四肢が引きちぎられ、骨がむき出しになっていて、臓物は弄ばれるようにして引きずり出されていた。雪が舞い散る寒さの中、生暖かな肉片と血液から、ほのかに湯気が立っている。
茫然と傍らに立つと、ぐるん、とネロの瞳が回転してこちらを向く。
この小さな世界の中で、十年間忌み嫌われ続けた黒い瞳が、クルサールを見据えた。
『ハハッ……なんでアンタがそんな顔するんだよ』
今朝、そう言って言葉を交わしたはずの少年の瞳から、最期の光が消えかかって――
「駄目だっ――!駄目だ、逝くな―!」
咄嗟に、クルサールはそのぐちゃぐちゃの肉片に縋るようにして手をかざし、魔力を解き放った。
「ネロっ……ネロ、ネロ、駄目だ、戻ってこい!!!戻ってこい!!!お前は、まだ、もっと、幸せになれる――!こんな、こんな風に死んでいいはずがない!!!」
涙が頬を伝う。絶叫しながら、必死に魔力を練り上げた。
カッ――と昼間と見紛うような強烈な光が解き放たれ、クルサールの額に紋様が浮かび上がる。
あぁ――これが、その昔、『神の奇跡』だと崇められた理由がわかる。
きっと、エルム少年も、最初は純粋な”祈り”の元でこれを使ったはずだった。
不可能を可能にする力――それを思い描いた。ただ、それだけだったのだ。
「もう二度とっ……もう二度と、こんな悪魔の所業は繰り返さないと誓うっ……私が、世界を変える!この力を世界中に認めさせて、今までの子供らとその親の無念を必ず晴らして見せる!だから――だから、ネロ!!頼むから、戻ってきてくれ――!」
慈悲に満ちた、人々を救う”神”は、この世に存在しないかもしれない。
だが――それなら、自分が、”神”の代わりに、人々を救う”救世主”になろう。
人々が胸に抱いている幻。――おとぎ話の中にしか存在しない、完全無欠の『神の化身』。
己がその存在になれるなら――それで、こんな悪夢が、終わるなら。
ネロのような、不幸で哀れな子供が救えるのなら。
――世界をペテンで欺いて、この狂った世の中を”正しい”世界へ導いてみせる――




