158、エルム様⑦
(――嘘――……だろう……)
ドクン……
その少年を初めて見たとき、あまりの衝撃に、言語中枢が麻痺したのを自覚する。無言のまま、ただただ目の前の年端もいかぬ少年を見つめた。
それは、毎年恒例の『見極めの儀』――
国中の十歳になった子供が教会に集まるその日、クルサールは例年のように司祭の手伝いとして、子供たちの受付をしていた。
大抵の子供は、親と一緒にやってくる。大家族の末っ子などで、属性が明らかな子供などは、時折兄弟や身近な大人に手を引かれてくることもあるが、無属性の子供で親が付き添わないことはほとんどない。
――当たり前だ。無属性の子供にとっては、今日は、”神”による死刑宣告の日になるかもしれないのだから。
だが、その日やってきた少年は、たった独りきりだった。誰の供もつけずに、ぽつんと列の最後に並び、クルサールの前へとやってくる。
骨と皮だけなのではないか、と思うほどガリガリに痩せ細った四肢。闇を思わせる漆黒の髪は、自分で無造作に切ったのか、ひどくぼさぼさで、前髪で顔の半分が隠れている。しばらく風呂にも入っていないのか、ずいぶんと汚れて周囲にも臭いが充満していた。
前髪の間から、落ちくぼんだ眼光が覗く。
髪の色とおそろいの――混じり気のない、真っ黒な瞳。
「……受付を」
「ぇ――あ、あぁ……」
ぼそりっ……と告げられた声に我に返り、手元のリストに目をやる。
彼は、列の一番最後。すぐに、名前がわかった。
「――ネロ……?」
書かれた名前を読み上げて確認すると、こくり、と少年は一つ頷いた。
クルサールは名前と共にリストに記載されている、親族から申告された属性を確認する。
そこに書かれた文字が目に入った瞬間、ドクン……と心臓が一つ、大きく戦慄いた。
「……無、属性……で、間違いない……ですか……?」
ネロはもう一度、こくん、と頷く。
頷いた拍子に髪が動いて、頬のあたりが覗いた。
「――!君、その頬――!」
「……確認は、それだけ?」
ガタン、と椅子から腰を浮かしたクルサールに構わず、少年は不愛想な態度で口を開く。
思わず押し黙ると、それが答えだと思ったのだろう。
ネロは、そのままふぃっと顔をそむけるようにして、他の子供たちが待つ礼拝堂へと足を向けた。
(あの頬――間違いない……酷い暴行の、痕だった……!)
急いで受付用の机を片付け、クルサールは少年を追って礼拝堂へ向かう。
礼拝堂では既に司祭から『ありがたいエルムの話』が始まっていて、子供たちは素直に目を輝かせて真剣に”神”の教えに聞き入っている。
(いた――!)
ネロはすぐに見つけられた。
臭いや外見を気にしてだろうか。少年は子供たちの一団と遠く離れた一番後ろの席に座り、虚ろな瞳で司祭の高説を聞いている。
気づかれないように、遠目で観察すると――頬だけではなく、身体中に痣や火傷の後があることが分かった。
(どうして――……)
痛々しい傷跡は、古いものから新しいものまで様々だ。それは、紛れもなく日常的に、年端もいかない彼に数々の暴行が加えられていることを意味していた。
(いや……どうして、なんて――考えるまでもない、か……)
ごくり、と生唾を飲み込む。
ぼさぼさにハサミで切られた漆黒の髪。虚ろに宙を眺めたまま、世の中の何も映していないかのような、絶望が渦巻く闇の瞳。
その”色”は――この国の人間が、この世で一番嫌う色。
自らが息づく世界から廃絶せんと、攻撃して排除する、忌むべき色。
(帝国民との混血児――?いや、まさか、そんな……だが、肌は白い……)
エラムイドの血統と帝国の血統を混ぜたような少年の色は、僅か十歳にしてその瞳に絶望を宿すに相応しい過去を連想させた。
「そうして、エルム少年の高潔な行いによって――」
司祭の高説を聞きながら、少年はハッ……と誰にも聞かれぬように吐息を漏らす。
それは、明らかな嘲笑の色を纏っていた。
神など信じるに値しない――前髪から覗く絶望の瞳には、ありありとそう浮かんでいた。
司祭の話が終わり、無属性の子供だけが残され、順番に名前を呼ばれて儀式の間に向かって行く。
「次は――ネロ」
「……はい」
(頼む……どうか、どうか、無属性であってくれ……!)
儀式の間に入って行く少年を見送りながら、クルサールは必死に心の中で神に願う。
神が実在するかしないかなど、どうでもいい。ただ、誰か、誰でもいいから、あの哀れな少年を救ってやってほしい。
あの身体の傷を見る限り、親だけが虐待しているわけではないだろうことは予想がついた。きっと、街を歩くだけで石をぶつけられる。それくらいに、帝国への悪感情は、この土地で蟲毒のように高まっているのだ。
もしも水が光ってしまったら、きっと、他の子供たちの結果如何に関わらず、司祭はネロを今年の最有力候補として定めるだろう。親に憎まれ、民に憎まれ、誰にも愛されない少年を、帰してやる場所はないのだから。
それを、司祭は――神の慈悲、とでも言うのだろうか。
(きっとネロは、今まで想像を絶する苦痛と不幸を味わってきたはずだ――だからどうか、ここから更に、苦しく惨たらしい最期を与えるようなことは、やめてくれ――!)
儀式の最中、祭壇に向かってクルサールは必死に祈りを捧げる。
無属性だと判明したとて、家に帰してあまりに惨い仕打ちをされるならば、教会で保護してやればいい。不幸な子供の拠り所となるのも、教会の役割の一つなのだから。
この、”神”への信仰が息をするようにアタリマエの世界で、”神”の教えを前に、鼻で嗤って吐き捨てるほどに神を信じられない少年なのだ。それが信じられなくなるほどに、辛く苦しい日々を送ってきた少年なのだ。
彼に必要なのは、惨たらしい最期ではない。
きっと――きっと、温かく安らかな、『救いの手』だ。
(他でもない、私自身が、彼の『救いの手』になって見せるから――!)
ぎゅぅっと固く瞳を閉じて必死に神に懇願する。
神様がいるとしたら、信じさせてほしい。
彼に与えられる『神の慈悲』は、魔物による悲惨な死ではなく、誰かの優しい温もりを分け与えることなのだと――
「今年の神に選ばれし<贄>が決まった。次に結界が破られるまで、心安らかに過ごしなさい。――ネロ」
司祭の口から、絶望の宣告がなされたのは、儀式終了から間もなくのことだった。
◆◆◆
コツン コツン
石造りの冷たい階段をゆっくりと降りながら、クルサールは勇気を固める。
「……ネロ。食事をお持ちしました」
「あぁ。……そこに置いておいて」
いつの日か、クルサールが世の中の『真実』を知った牢獄の中――黒髪黒目の子供が、むくりとベッドから体を起こす。
「クルサール、だっけ?アンタも真面目だね。どうせ魔物に食われるんだから、飯なんか食わせず放っておけばいいのに」
「……そんなことを言わないでください」
「ハハッ……まさか、”神様”に選ばれた特別な子供だから、最期までしっかりお世話しなきゃいけない、とか言い出すタイプ?それとも、供物に食いでがあるように、丸々太らせてから捧げるつもり?ハッ……笑えるね」
馬鹿にしたように吐き出して、ネロは口の端に皮肉気な笑みを刻む。
初めて見たときは、内臓がどこに入っているのか不安になるほどガリガリに痩せ細っていたが、ここへ来てからは毎日栄養のある物を食べているせいか、以前よりは少しだけ人らしい身体つきになってきた。
大人しく食事を受け取ったネロが匙を手に取るのを見て、クルサールはぎゅっと痛ましそうに眉根を寄せる。――この国では誰もが無意識に唱える食事の前の祈りの言葉すら、彼は口にしないらしい。
「何?……そんな顔で見られてると、飯がまずくなるんだけど」
「ネロ。――貴方は、”神”を信じないのですか……?」
パチリ、とひとつ瞬きをしてから、一重の三白眼が、キロリと睨むようにクルサールを見た。
「信じますか、じゃなくて?」
「ぁ――いえ……その……」
「逆に聞きたいけど。――アンタは信じてるの?」
ドクン、と心臓が不穏に音を立てて、紺碧の瞳が揺れた。
それを見透かしたような目で見た後、ネロは鼻で嗤ってスープを啜る。
「毎日、飯を食えるのは神様のおかげなんだろ?だから、皆、食事の前は、祈りを捧げて感謝をする」
「……はい」
「そっか。――じゃあ、俺は毎日飯を食えなかったわけだから、神様に感謝とか、しなくていいじゃん?」
「それは――……」
「いつか、天に上る時のために、神に恥じぬ行いをせよ、だろ?醜い争いをせず、清貧を愛し、性欲に溺れず、清く正しく生きなさい――ハハッ、ウケる。黒い髪の子供に石投げるのはノーカウント?憎き敵国の血を引く忌み子だから仕方ない?」
「…………」
「自衛のために丸坊主にしたら、今度は目が不吉だっつって棒で抉られそうになるんだぜ?こぇーこぇー。男も女も老人も子供も。全員が寄ってたかって、祖国の敵だつって殴ってくんの。こんな国出てってやるって思ったところで、外には魔物がうじゃうじゃ居やがる。子供の俺には、逃げ場所なんてない」
「……それは……」
「――祈ったよ」
ぽつり、と。
口を動かす合間に、昏い声が呟いた。
「最初は毎日、ちゃんと、祈った。贅沢は言わない。嘘はつかない。どんな理不尽にも、暴力でやり返したりしない。清く正しく、悪を憎んで生きるから――だから、お願いだから助けてくれって、毎日神様にお祈りした。――結果、どうやら”悪”は俺自身だったらしい。魔物の腹に収まるのが、俺にとっての救いだと神様はおっしゃったんだ。……随分優しい神様だ」
「っ……!」
「まぁ、<贄>になったと知った途端、援助金を受け取ることすら辞退して、頼むから教会で面倒を見てくれと懇願してくるような家族しかいない俺は、確かに生きてるよりずっと楽そうだけどな」
「そんな――そんなことは――」
ぎゅっと思わず鉄格子を握り締める。錆びた匂いが鼻について、冷たい感触が掌に返ってきた。
「――偽善者」
「!?」
「アンタみたいなやつをさ。そうやって言うんだよ。……可哀想な子供だ、って同情して、自分だけは優しくしたんだって思いたいんだろう?自分だけは、”神”に恥じない行いをしたんだって信じたいんだろう?」
「違――」
「馬鹿な大人だね、アンタも。……神様なんて、いないのに」
フッと鼻で嗤って、パンをちぎって口に入れてから、もう一口スープを口に運ぶ。
「ま、責めはしないよ。どうせ、皆、自分が一番可愛いんだ。――そうだろう?今日一緒に儀式を受けた奴らが、<贄>に選ばれたのが俺だと知って、あからさまにホッと息を漏らして笑ってたのを見たぜ」
「そ、んな……ことは……」
「じゃあ、聞くけどさ。教会に務めて、毎日祈りを捧げてるアンタは――俺のために、命を捨てられる?」
ドクン……
大人を試すように、ネロの瞳が挑発的な光を宿す。
「今日、”司祭”様が話してただろ。エルム……だっけ?あの、大人たちが作ったおとぎ話」
「おとぎ話じゃ――ない……」
「そう信じたいならそれでもいいけどさ。……あの、物語に出てきた聖人君子みたいに――アンタは、大義のために、祖国のために、まだ見ぬ未来の誰かのために、自ら進んで魔物の巣に丸腰で入れる?」
「っ……」
「無理だろ。――無理なんだよ。俺だって無理だ。”誰かのために”なんて理由で、そんな命がけなこと、出来るはずがない。……だって、俺は、俺が一番大事だから」
ドクン ドクン
「だから、俺はアンタを責めないよ。俺を虐待する大人たちも、責めはしない。……誰かのために生きるなんて、馬鹿馬鹿しい。第一、俺たちは人だ。人間なんだよ。全知全能の”神様”じゃない。『奇跡』なんて使えない。そんな俺たちが、一丁前に他人を気にして生きてる場合か?自分が生きるので精一杯で、何が悪い?”人間”ごときが、自分以外の誰かを救えるなんて、烏滸がましいと思わないか?」
「そっ――そんなことは――」
「アンタもさ。もっと肩の力抜いて生きたらいいんだよ。……どーせ、神様なんかいないんだ。自分のことを第一に生きていいんだよ」
言いながら、食事を終えたネロは、食器をクルサールの手が届く部屋の隅に寄せてから、ごろりと簡易ベッドに横になる。
「なんか、アンタは勝手に、俺を”不幸”だと思ってるみたいだけどさ。――俺は、今、幸せだよ」
「な――何を……!」
「だって、俺は、生まれて初めて、毎日腹いっぱい飯を食ってる」
「っ――!」
ふっとネロの口の端に刻まれた笑みに、思わず言葉を詰める。
ネロはそのまま、ゆっくりと瞳を閉じた。
「夜はベッドで眠れる。好きな時にシャワーを浴びられる。誰かに殴られることもなければ、石を投げられることも、罵声が飛んでくることもない。寒さに凍えることも、暑さに干からびることもない。――恵まれた人生を歩んできたアンタにとっては、なんてことないアタリマエかもしれないけど、俺にとっては、生涯叶わないと思っていた、夢みたいな毎日なんだ」
「…………」
「それを与えてくれたのは、神様じゃない。アンタや、司祭様だ。――人間、だよ。だから俺は、やっぱり神に感謝することはないけど――まぁ、魔物に食われる前に、こんな幸せを得られたなら、この世に未練なんてないなって思うのさ」
そして、話は終わりだとでもいうように、手を振ってクルサールに下がるよう合図する。
「俺は寝るよ。――布団で寝るって、すごく気持ちいいんだ」
そのまま、本当に寝入ってしまったのか、すぅ……とすぐに寝息が聞こえてきた。
その寝顔は、起きているときの目つきの悪さなど感じられないくらいに穏やかで、ネロがまだ十になったばかりの少年であることを思い出させた。
「…………」
ぎゅ……とこぶしを握り込むと、爪が食い込んで掌に痛みが走った。
もう、何年も考えているのに、どれだけ考えても、何が正しいのか、わからない。
誰も、教えてくれはしない。どれほど縋っても、神は、何も、答えてくれない。
どれほど難解でも、困難でも――己の頭で、心で、答えを出すしか、ないのだ。




