157、エルム様⑥
読み終えて、どれくらいの時間そこでぼーっとしていたのかわからない。頭に入ってきた情報を整理するには、時間はどれだけあっても足りなかった。
心配して司祭が身に来るまで、ただ部屋に備え付けられた小さな簡易ベッドの上で、手にした手記をそのままに呆然と宙を眺めるしか出来なかった。
「クルサール……?」
「司祭様……」
振り返れば、幼い日から見慣れた翁の顔があった。
初めて出逢った頃よりさらに皺が増えて、少しずつ息子に”司祭”の心構えを教えている姿を見ていた。鈍色の瞳は、背負った罪の重さに耐えかねていつも苦しそうだったが、それでもクルサールを前にすれば、少しは柔らかくなった。それは、不憫な子供を見る同情なのか、孫のような幼子を前にした翁個人の感情なのか。
(この手記に書いてあることが本当なら――司祭様は、少年エルムの血族で……その昔、少年エルムを裏切った一族そのもの……?)
諸悪の根源と言っても差し支えない行いだ。彼らが、もしも、権力などというものを欲しなければ――エルムを犠牲にしたその一度きりのチャンスに、<贄>の儀式そのものを無くすことが出来たかもしれない。
しかしそのチャンスは失われ――結果、こうして長い時を経て、一族には全く関係のないクルサールが、その役目を負わされそうになっている。
その事実に思い至った瞬間、ひゅ――と喉が小さく音を立てる。
――どうして。なんで。自分ばかりが。
「クルサール……?顔色が――」
「だ、大丈夫ですっ!」
気づかわし気な言葉を遮り、気丈に返事をして立ち上がった。
手にはしっかりと、手記を握り締めたまま。
「少し、考え事をしていました。思いがけず時間が経ってしまったようです。もう、部屋に戻ります」
「そうか……それなら、良い」
同世代の子供が、自分の代わりに魔物に食われることを実感した日だ。翁も、クルサールの心情を理解したのだろう。それ以上深くは問い詰めて来なかった。
(司祭様は、優しい。己の一族が繰り返してきた行いを悔いていて、解決策がないと嘆きながら、必死に出来ることを探していらっしゃる。とても、手記に出てきたエルムの父や一族のような思惑で、嘘をついて狡猾なことを考えているとは思えない。……ということは、このエルムの手記に書かれている『真実』の全ては、今の”司祭”の一族には、伝わって、いない……?)
カツ、カツ、と暗がりで足を滑らせぬように気を付けながら、クルサールは階段を一歩一歩踏みしめて登っていく。
(長い歴史の中、どこかで罪悪感に耐え兼ねた”司祭”がいたんだろうか。自分の一族がしでかした、あまりに大きな罪を前に、神罰を恐れてその罪を隠蔽した――ありうる……か……)
結果、中途半端に『真実』の半分だけを口伝し、手記の後半に書かれていた一族の不義は無かったことにして、世の中に流布している素晴らしい『神の化身』の行いが真実であるかのように伝えたのかもしれない。
ぎゅ……とクルサールは胸元に、少年の手記を胸に抱く。
この胸元にある『真実』を知った今――自分がどうするべきなのか。
何もかもが、わからなくなっていた。
◆◆◆
部屋に帰ったクルサールが最初にやったのは、手記に書いてあった『真実』の検証だった。
すなわち――『神の奇跡』の再現。
鏡を前にして静かに魔力を練ると、案の定、額に見覚えのある光の紋様が浮かび上がった。
「本当――だったんだ……」
呆然と呟き、鏡の中を覗き込む。
思い出せば、最初にこの紋様が浮かんだのは、熱病に苦しんでいた時だった。きっと、無意識に苦しさから逃れたいと願ったせいで、治癒の魔法が発動し、この紋様が浮かんであっさりと熱病を治してしまったのだろう。
「……すごく……便利だ……」
これなら、たくさんの人を救うことが出来る。少なくとも、たちの悪い流行病で人口を減らしてしまう危険はなくなるだろう。
「でも確かにこれは……神の、奇跡……と、言われても……信じてしまう……」
ごくり……と喉が音を立てる。
ふ……と消えた紋様を確認し、クルサールは長い睫毛を伏せた。
今、クルサールに求められている役割は、簡単だ。
まず、この未知の魔法である”光魔法”を使って、『神の奇跡』を引き起こし、人々にエルムの再来だと――クルサールこそが『神の化身』であると認識させる。
その結果――神の啓示を聞いた、だの、神から聖なる力を賜った、だの、口実は何でもいいが――世界の人々に、『神の奇跡』の一端を使役する力を付与した、と宣言すればいい。
それこそが、未知の属性である”光魔法”――クルサールが造り出した、新しい魔法属性として、それの存在を認めさせる。
それがあれば、愛しい子供を魔物に食わせる必要はない。神に縋ることなく、悪しき魔物から領地を守ることが出来る。
神の存在そのものを否定しなければ、今までの信仰に矛盾は出ない。長らく<贄>を捧げ続けたために神は既に満足しただの、人々の信仰の篤さに神が褒美をくれただの、『奇跡』を理由に<贄>を無くす口実などいくらでもあった。
きっと、これから先、我が子を『見極めの儀』に参加させねばならなかった無属性の子供の親は、心の底から喜ぶだろう。次の<贄>候補として、いつ結界が破られるかハラハラしながら、早く一年が過ぎてくれと祈っていた家族も、その喜びは計り知れない。
だが――今まで<贄>を送り出た家族は、どうだろうか。エルムの時代の歴史的な事実を見ても、帝国の侵略戦争の末、あらゆるものに攻撃的になり、無神論を掲げる帝国に抵抗するように”神”の教えに傾倒する今の大人たちを見ても、あまり良い結果になる未来は描けない。
「ならば――今までの報われなかった魂を慰めるため、他でもない自分が、史上最期の<贄>になる――とでも言って、”神”の教えを体現する存在として美談の中で命を落とせばいい。……かつてのエルム少年の美談のように」
人々は、高潔な魂を持つ、”神”の教えを体現する素晴らしい少年クルサールが、『神の化身』らしく利他の精神の元、無欲に何も望まず、己の命を捧げるのを見て、「あのように素晴らしい少年が命を張ってまで遺してくれたのだ。将来のため、新しい制度を受け入れよう」と、涙を流してやっと心を慰めるのだろうか。
ふるっ……と背筋が震えた。
何が、美談だ。
どう言葉を繕ったところで――それは、結局、クルサールが自分から魔物の群れに突っ込んで行く、という事象そのものに変わりない。
そんなただの理不尽を受け入れる勇気を――どうやって振り絞れと言うのか。
「そもそも、”神様”の名を騙って人々を偽るなんて、決して行ってはいけない大罪だ……僕は、確実に地獄に落ちる……」
それは、幼いころから実父に徹底的に教えられた、”神”の教え。
地獄はとても恐ろしくて――だから、神様の名に恥じぬ行いを励行するのだ。誰に対しても胸を張れる、敬虔な信徒として生きるべし、という教えは、唯一無二の尊敬する父との交流の大切な思い出でもある。それを根底から覆すなど、心が痛くてたまらない。
だが――そもそも、”神”などいるのか。
『神の化身』と呼ばれたエルムは、神などいないと断じていた。彼が起こした奇跡も、魔法を使ったペテンだった。
<贄>の選別には神の意志は介入しておらず、ただの遺伝で決まっている。
エルムが成した”神”のごとき高潔な振る舞いは、全て後世の人間が作り上げた偽りで、本人はいたって普通の、クルサールと何一つ変わらない”人間”らしい感情で動く少年だった。
この『真実』を知ってしまった今――目にも見えない、名前もない、ただ漠然と”神”と教えられたその存在の、何を信じたら、良いのだろうか。
「”神様”――……」
神を疑ったことを神に謝罪したいが、その存在が疑わしい。
――縋る先が、何もない。
”神様”がいないなら――今クルサールがもがき苦しみ、助けを求めって伸ばした”手”を、一体誰が、取ってくれるというのだろうか――
◆◆◆
結論を先延ばしにしながらも、クルサールは少しずつ、独学で光魔法を覚えて行った。頼りになるのは、おとぎ話としか思えないエルムの伝承だけだったが、そこから推察して、手探りでイメージを練り上げて、魔法を行使する。
しかし、光魔法――『神の奇跡』を意のままに操れると知られれば、次は理不尽な死を受け入れざるを得なくなる。
結局、クルサールは全てを誰にも告げる勇気を振り絞れず――数年の月日が過ぎ去った。
相変わらず国内には帝国への悪感情が渦巻いていた。憎き『侵略王』は、フェリシア亡きあと、忘れ形見である彼女の一人娘を溺愛し、ぱったりと侵略戦争をしなくなった。エラムイドに圧力をかけることもなく、形式上は属国とされているものの、実質何の見返りも要求されていない状態だ。――きっと、フェリシアが懇願してくれたのだろう。
だが、それも永遠の物ではない。
抑止力の要であるギュンターその人が、床に伏せっているという報が入ってきた。どうやら病状は深刻らしく、あまり長くはないらしい。
彼が崩御すれば、新しい皇帝が政権を握る。新皇帝がギュンターと同じく、属国に対して甘い態度を取ってくれるかどうかはわからない。
国民感情は大きく揺さぶられ、帝国憎しの風潮はさらに強まって行った。
そんな中クルサールは青年と呼ばれるに相応しい年齢になり、寄る年並に勝てなくなった翁は、”司祭”の役目を己の息子に引き継いだ。――重たい枷を嵌めるように、一族に伝わる『真実』を打ち明けて。
クルサールの親と変わらない年齢の新しい”司祭”は、クルサールと同じく一番奥の懺悔室で秘密を打ち明けられた後、真っ青な顔で部屋を出てきた。――いつも柔和な笑顔で”神”の教えを説いていた彼が、初めて見せる表情だった。
長い年月を、孤独に罪の意識と戦ってきた翁は、血を分けた息子にすべてを託したことで安心したのか、憑き物が落ちたように穏やかな顔で、そのまますぐに眠るようにして息を引き取った。
国の権力者の葬儀はしめやかに国中の民に見守られながら行われ――やがてクルサールは、新しい司祭にもの言いたげな視線を頻繁に向けられるようになった。
(……早く務めを果たせ、とそう言いたいんだろうな……)
毎年やってくる『見極めの儀』。
それは、”司祭”の任を継ぐ者にとって――己の意志で、次の魔物に食わせる子供を決める儀式だ。
初めて”司祭”となってその儀式を終えた日、彼はすぐに人目に付かない裏口へと引っ込んだ。クルサールが戸口の前を通りかかると、何度も嘔吐き、嗚咽をかみ殺し、神へ贖罪を願う言葉を繰り返す声が聞こえた。
きっと、これが、歴代の”司祭”に課せられてきた苦しみなのだろう。
亡くなった翁は、その残酷性とあまりに幼い子供に縋る罪悪感を深く理解していたが故、慈悲の心で猶予を与えてくれていたが、この息子も同じとは限らない。
(……早く、決断をしなければ……)
言われるがままに、務めを果たすのか。
暴動を覚悟で、エルムの手記を公開し、”司祭”の一族全てを路頭に迷わせてでも悪しき風潮を断ち切るのか。
(――このままどこかに、逃げるのか)
瞳を閉じて、大きく息を吐く。
それが出来たら、どんなに良いだろう。
この閉塞的で、凝り固まった価値観の世界から逃げ出して――神も、儀式も、何一つない自由な世界に逃げ出せたら――
そんな現実逃避にも等しい夢を描いていた時だった。
――運命の出逢いが、訪れた。




