152、エルム様①
一番古い記憶は、靄の中におぼろげに沈んでいる。
父に手を引かれて、一族総出の集会に連れていかれた日だったように思う。――父がいた、ということは、確実に六歳よりは前だったはずだが、詳細は覚えていない。
巨大なテントのようなところに連れていかれた先には、見たこともない人間ばかりが犇めいていた。老若男女が揃っていて、少し物怖じしたような記憶がある。
知り合いがおらず、大人たちの会話にも入れず、テントの隅で独り蹲り、時間を持て余していたその時――優しく声をかけてくれた、存在がいた。
陽光を受けて煌めく、眩い黄金の髪。とろりとした蜜を湛える宝石のように、艶めく翡翠の大きな瞳。一族の中でもひときわ美しい、雪を思わせるほど白い肌。その純白に映える、柔らかく弧を描いたふっくらとした朱唇。
「初めまして、坊や。――お名前は?」
にこり、と翡翠が柔らかく笑みの形に緩められて、あまりの美しさにぽー……っとなる。
「クルサール、です……」
「そう。クルサール」
熱に浮かされたようにして答えた少年を前に、この世の物とは思えぬ絶世の美女は、女神のように優しく微笑む。
「私の名前は、フェリシア。――よろしくね、クルサール」
ドキン……
差し出された手を、恐る恐る握り返す。――女神の手は、ひどく柔らかく、美しく、温かかった。
それは、幼い少年が淡い初恋を味わった日――
――のちに、かの大国イラグエナム帝国において『傾国の寵妃』と呼ばれるようになる、第七皇妃フェリシアとの出逢いだった――
◆◆◆
祖国は、国と言い張っているのは自分たちばかりなのではないかと思うほどに小さくぜい弱な集落の集まりだった。
祖国の空気を一言で言い表すならば『閉塞的』――この一言に尽きるだろう。
外界との接触を殆ど制限された状態で、幾百年――祖国を見守る土着信仰の名も無き”神”がいて、”神”を崇めて奉り、”神”に恥じぬ行いを生まれた瞬間から強制されるのが、アタリマエ。
年に何度も”神”にまつわる儀礼が催され、ことあるごとにあるごとに”神”への祈りを捧げ、休日になれば集落の中心に造られた教会へと礼拝する。
そこには過去から脈々と受け継がれてきた”司祭”と呼ばれる職務を担う一族がいて、人々に”神”のありがたい教えを説きながら、祖国を守り続けてきた。
代表者の一族と、”司祭”と呼ばれる一族は、不干渉を貫くのが習わしだった。決して血を混じらせてはならない――それが、祖国に伝わる絶対の掟。
やたらと、掟だの、慣習だの、儀式などが多かった国だった。
だが、それを、可笑しいと思う者など、誰もいない。それが、祖国に生まれ出た人間にとっては、疑いようもないアタリマエ。
このアタリマエを励行することで、幾百年の平穏があり、繁栄があった――誰もが皆、そう信じていたのだ。
「いいか、クルサール。お前は将来、代表とそのご家族をお守りする兵士になるのだ」
幼き日、父から剣を授けられたときに、そう告げられた。
「代表……?」
「この間、お会いしただろう。あぁ――フェリシア様もいらっしゃっていたな」
ドキン……
その名はしっかりと覚えていた。――美しい、女神のような高貴なお方。
あの美しいお方をお守りすることが出来るのかと思えば、不思議と心の奥が熱くなり、勇気で奮い立った。
「分家に生まれた男子の宿命だ。今日から毎日、稽古をする。最初は剣から――次は、魔法だ。宗家を命を賭けてお守りする、最強の武人となれ」
「つまり――騎士、になるの?」
昨夜読んだばかりの絵本に出てきた、太古の昔に実在したというそれを思い出し、頬を上気させて父に問う。
「ぅん?あぁ――ハハッ、そうだな。『騎士』のような立派な男になれば、きっと”神様”もお前を天に連れて行ってくれるだろう」
パァッと顔を輝かせると、父は笑いながらぐりぐりと頭を撫でてくれた。
温かくて、大きな手だったことを覚えている。
――それが、実の父との数少ない思い出の一つ。
数年後、彼は息子と縁を切る。
「――”聖なる印”だ!」
息子が六歳になったばかりのある日、額に浮かんだ、光の紋様を見て、父は顔から色を失った。
――その日、少年クルサールは、”神”の教えと引き換えに、『家族』の全てを失った――
◆◆◆
色を失った父親に手を引かれて連れて行かれたのは、休日の度に訪れる国の中心にある大きな教会。
中から、純白の伝統装束を着た”司祭”が現れた。
「この子が――?」
「は、はい。流行していた熱病にかかってうなされているときに――額に、光の、紋様が――!」
「なんと……!」
「しかも、そのあと急に熱が下がって……!通常、一週間以上は寝込むはずなのに……!伝説にある『神の奇跡』としか思えません……!」
「……かしこまりました。では、この子は我らで預かりましょう」
「ありがとうございます、司祭様!」
敬虔な信者として有名だった父は、代表者の宗家と同じくらいの権威を持つ老齢の司祭に何度もお礼を言って、繋いでいた手を離す。
当時は幼く、大人たちが何を言っているのか、よくわかっていなかった。
何かの理由で自分が教会に連れて来られたことだけはわかったが、その時点では、自分に降りかかった運命の大きさも、残酷さも、全く理解はしていなかった。
純粋に、他の大人たちと同じように、目に見えぬ”神様”を信じ、いつかちゃんと天に昇れるように、清貧を愛して己を律し、清く正しく生きて行こうと思っていた。
その日も――当然、夕方になれば、父が迎えに来てくれて、家に帰れるとばかり、思っていた。
「さぁ、クルサール。こちらへ来なさい」
「はい、司祭様」
教会の中に案内され、大人しく付き従う。
汚れ一つない白装束が、目に眩しいほど焼き付いていた。
てっきり、いつもの休日のように礼拝堂で祈りを捧げるのかと思いきや、司祭は礼拝堂を突っ切り、奥へ奥へと行ってしまう。
「司祭様……?」
今まで入ったことのない建物の奥を見て、思わず不安を覚えて前を行く老人を呼び止めた。
ここから先は、『懺悔の間』。神に己の罪を打ち明け、許しを請うための部屋だ。
どこか寒々として薄暗いその廊下には、機密保持のために部屋と部屋の間を空けて個室が設けられており、決して外部に中の会話が漏れぬようになっている。
大人たちが入って行くのを見たことはあるが、自分と同世代の幼い子供が入って行くのを見たことはない。
まだ日の高い時間だというのに目の前に広がる薄闇は、まるで今まで大人たちが打ち明けてきた罪がこの空間に所狭しと渦巻いているようで、少年クルサールの背筋をぞくりとさせた。
「大丈夫。こちらへ来なさい。……一番奥の部屋で、話をしよう」
「は……はい……」
ごくり、と唾を飲んで返事をする。
自分には、神に許しを請わねばならぬような大罪を犯した覚えはない――とは言えなかった。
”司祭”の一族は、権力を分離されているだけで、実質代表者の一族と変わらないだけの力をこの国で有している。
今、目の間にいる翁は、その”司祭”の一族の頂点に座する男だ。
余程の事態でもなければ、一般市民は直接会話することすら出来ぬと言われるその男の言葉に否を唱えることなど、父に倣って敬虔な信徒として生きてきた幼子にはとても難しかったのだ。
ドクドクと、心臓が不穏にざわめいている。薄暗く、光の差さない寒々とした廊下は、まるで神の加護が届かぬような不安を殊更掻き立てた。
廊下の突き当りに達すると、他の部屋よりも一段と重苦しい鉄製の扉が二人を出迎える。
どれだけ喚こうが、決して外に音が漏れぬ――そんな覚悟すら感じる、重く冷たい大きな扉。
ギィ――
「さぁ、クルサール。中へ入りなさい」
「はい、司祭様」
しゃがれた声に導かれ、青ざめた顔でクルサールは扉をくぐる。
ゴゥン……と背後で、外界との関わりを断絶する冷たい音が重く響いた。




