141、もう一度⑩
闇が笑った。
『さぁ、再び至極の饗宴を開催しようではないか――!』
「――いや。今回は、もう、今までのようにはしない」
『何……?』
「もう、五年も巻き戻さなくていい。――せいぜい、一年。クルサールとの出逢いからやり直しができる地点に、戻れればいい」
『何だと……?』
彼女との出逢いをやり直す必要はない。
彼女と出逢うことは、絶望ではなく、身に余る幸せだとわかったから。
――次は、彼女と一緒に、と約束したから。
「安心しろ。『救世主』は殺してやる。支えを失って、民は絶望を感じるはずだ。――その絶望分だけ、時間を戻せ」
紅い瞳が、凄絶な光を宿す。
「お前とのやり取りも、これが最後だ。随分と、お前の戯言に付き合って、振り回された。――次にお前に逢いに来るときは、お前を殺しに来る時だ。せいぜい、首を洗って待っていろ」
『ほう――それはそれは。果たして、そうやすやすと、この修羅の道から逃れられるかな……?』
闇は嗤う。ちっぽけな人間の愚かな決意を嘲るように。
しかし、ロロの瞳は揺らがない。
ぎゅっと首元に下げた大きな翡翠の首飾りを握り締めた後、いつものように剣を抜き放ち、憎き復讐相手が待つ城へと足を向けたのだった。
◆◆◆
そうして巡る、運命の歯車。
最後の”終わり”が始まって――いつもの夜が、やってくる。
「ぁあああああああああああああああああああああ――!」
一気に頭の中に流れ込んでくる、濁流のような無数の記憶。
脳みそが煮えたぎるように熱くなり、いっそ殺してくれと思うほどの苦痛に襲われる。
蘇った、”最後”の記憶。
無数に繰り返した絶望の果てに、ミレニアという唯一の味方を手に入れて、光を見出したと思ったとたん、また無情にも『運命』がそれを奪っていった。
腕の中で失われていく体温。苦しそうな息遣い。弱々しい声音。
それでも、いつだってロロを哀しませないようにと、微笑んでから命の灯をかき消す、愛しい人――
「姫――姫、姫、姫――!」
経験した過去の感情が止めどなく流れ込んできて、今がいつか、どの時間軸かわからず、脳みそが混乱する。
逝くな。
――逝かないでくれ。
こんな、広くて味気ない世界に、たった独りで置き去りにしないでくれ。
何度も何度も経験した、彼女がいなくなったこの世界は、ただただ絶望だけが渦巻いていて、もう、独りで立ち上がることすら出来ない――
「っ、ルロシーク!」
絶望を切り裂く、声がした。
バサッ……
視界がマントの漆黒で覆われて、誰かがぎゅっと必死に身体を抱きしめている気配がある。
「落ち着いて――落ち着きなさい、ルロシーク……っ!ルロシーク、お前を助けたいのっ……」
――あぁ。
愛しい、声だ。
清廉潔白な泉に住まう、生きる世界が違う女神の声。
そんな女神が――地を這う虫けらに、優しい笑顔を向けてくれた。
差し迫る死の恐怖を跳ね除け、気丈に微笑み――何があってもまた逢いたい、と言ってくれた。
『――お前が、私の人生の”幸せ”になってくれるなら』
耳の奥で、ずいぶんと遠くなった記憶の中の少女が告げる声がする。
思い返せば、彼女は”最初”から、言っていた。
こんな、地を這う虫けらのことを――彼女の”幸せ”としてくれるのだ、と――
「姫――っ!」
「きゃ――!」
夢中で腕の中に掻き抱き、折れそうなほどに力を籠める。
何十回とやり直した記憶の中で、初めての感情が沸き起こる。
――よかった。
よかった。
また――――――また、出逢えた。
「姫っ……!」
腕の中には、華奢で小柄だが、確かに温かな体温を保ったままの少女がいる。
「ろ、ロロ……?ど、どうしたの……?大丈夫?もしかして、何か、毒とか――」
「大丈夫……大丈夫です」
心配そうな少女の声に、胸にこみあげる灼熱を押し込めて返事をする。
”最後”の記憶で、想いを堪え切れずに口づけをした。
まるで、神聖な誓いを表すように、口付けた。
もうこれで――最後に、するのだと。
「……姫……」
「ほ、本当に大丈夫なの……?明るいところで目を見せて。顔色を確認したいわ」
やっと緩められた腕の力で少女が身じろぎし、至近距離から瞳を覗き込む。
闇の中で視界が悪かったせいだろう。
睫毛がくっつくのではと思うほどの距離で、翡翠の瞳がロロの紅玉をじぃっと覗き込んだ。
(――愛しい……)
このまま、衝動的に口づけたい。
不敬に首を討たれても構わないから、愛していると囁いて、温かく湿った、血色の良い少女の唇に触れてみたい。
「ロロ……?」
従者が邪な気持ちを抱いているなどとは露ほども思っていない様子で、ミレニアは恋人同士が口づけを交わす距離から心配そうに紅玉の瞳を覗き込む。
「大丈夫です。――貴女に、お話したいことが、あります」
鉄の理性で邪念を振り払い、そっと優しく抱き寄せた身体を解き放つ。
愛しさだけは堪え切れずに、少女の髪と頬を撫でるように手を触れると、いつも動かない表情筋が、ふわりと自然に笑みを作らせた。
ぱちり、と驚いたようにミレニアは瞳を瞬く。
「頭がおかしいと思われるかも知れません。――それでも、聞いていただきたいのです」
最後に、彼女と、約束したから。
今度は、最初から、全てを教えて、彼女を頼るのだと――
そうして、”運命”という名の死神を相手取る、最期の戦いが幕を開けたのだった――




