140、もう一度⑨
ザシュッ……
最後の一人を斬り伏せ、はあっ……と上がった息を吐き、ぐいっと袖口で顔を拭う。汗と返り血が黒衣に染みを作った。
ぐるりと見回せば、そこに転がる、人、人、人――
どれも純白の兵士服を鮮血に染め上げて、死屍累々といった有様で地面に倒れ伏している。
周囲に視線を巡らせ、もう次の襲撃の気配がないことを確かめてから、ふぅ、と安堵のため息を吐く。
キン、と双剣を鞘へと納めた後、ロロは後ろを振り返った。
「――終わりました、お嬢様」
「そう……もう、平気なの?」
「はい。出て来られますか?」
手をごしごしと乱暴に服で拭って最低限の汚れを落としてから、ロロは洞の中へと手を伸ばす。ずっと狭い洞の中で縮こまっていたのだ。すぐに身体を自由に動かすのは難しいだろう。
ミレニアは素直に手を取り、引っ張り出されるようにして外の世界へと踏み出す。
いつの間にか夜が明けていたらしい。鬱蒼とした深い森の中だが、東の方角から微かに光が差し込んでいる。高温多湿の森林の中、むせ返るような血潮の香りが漂い、ぐっと顔を顰めた。
「あまり鼻で息をしないようにしてください。慣れていないと、吐き気が来ます。酷ければ、袖口などで口と鼻を覆って息をしてください」
「え……えぇ……」
蒼い顔で頷き、瞳を閉じて何とか襲い来た吐き気をやり過ごす。
「本当に、これだけの兵を相手にして、よくも……」
「はい。……流石にいくつか、かすり傷は負いましたが、舐めておけば治る程度のものです」
ロロは、忠実にミレニアの命令に従った。決して大きな怪我を負うことなく、最後までクルサール勢力の兵士たちの猛攻を、ミレニアを背に庇ったまま一歩も動くことなくしのぎ切ったのだ。
ロロの獅子奮迅の有様を前に、蒼い顔をして神の名を叫んで突っ込んでくる兵士たち。ロロはそれを、ただただ無心で迎撃し続けた。最後は、さすがに分が悪いと考えたのか、撤退命令を出したのだろう。残っていた全兵力を突っ込ませることなく引き上げていった。
きょろきょろとしているミレニアを手で支えながら、ロロは冷静に口を開く。
「最後、おそらく指揮官と思しき者が、撤退を指示していました。援軍を連れてやってくるかもしれません。ヒュードの手下もやってくるかもしれない。……早めにここを移動しましょう」
「そうね。……夜通し戦い続けて、お前も体力の限界でしょう。どこか、身体を休ませられるところが良いわ」
「はい」
さすがのロロと言えど、魔力や体力の消耗が激しく、集中も限界だろう。素直に頷くロロを労わり、ミレニアは脳裏に、昨日ラウラからもらった地図を思い出しながら描いた。
(お兄様の野営地から、走り抜けてきて……日の差す角度から察するに今の場所は……)
知識を総動員して、今の場所と逃亡先を割り出そうと頭を回転させる。
無茶な命令で、ロロに無理をさせてしまった自覚がある。一刻も早く休ませてやりたい。
正確に方角を割り出すため、日の差す場所を探してぐるり、と周囲を見渡した時だった。
それが、目に入った。
「っ――ぉぉぁああああああああああ!!!!」
「「!?」」
倒れ伏していた、一人の兵士。
血まみれになり、完全に絶命していると思われたその男が、最期の気力を振り絞って、ロロに背後から斬りかかる。
「っ――!」
激戦の後で、納剣した状態だったロロは、完全に不意を衝かれ、さぁっと顔を青ざめさせた。即座に柄へと手を走らせるが、どう考えても男の方が早い。
まるで、世界がスローモーションのようにゆっくりと感じられ――
「ロロっ!!!」
――夢中だった。
何も考えることなく、反射で、足が勝手に動く。
世界で一番、大事な大事な青年を、守るために――
「っ――――姫!!!?」
ザンッ――
気づけばミレニアは、ロロと男の間に身体を滑り込ませており、白刃の一閃と共に、朝の森林に、真っ赤な鮮血が弧を描いて、舞い散った――
◆◆◆
空中に、鮮血がいっそ優美とすらいえる弧を描いて舞い散る様は、過去、何度か見たことがあった。
だが、それは全て、ロロの手が届かないところで起きたこと。
まさか――こんな、手を伸ばせばすぐに抱きしめられるほどの距離で目にするのは、初めてだった。
「っ――貴様ぁああああああああああ!」
ごぉおおおおおおっ
底をつきかけていた魔力が勝手に暴走するようにして、背後から襲い掛かってきた男を足元から一瞬で地獄の業火に巻き込む。そのまま、断末魔も上げる余裕すらなく男は消し炭になり、今度こそ地面に倒れ伏した。
「姫っ――!姫!しっかりしてください!」
ゆっくりと崩れ落ちそうになる少女の身体を地面に落ちる寸でのところで抱き留め、必死に声をかける。
「ぅ……ロ……ロ……」
「っ――!」
既視感――
過去に見たことのある光景に、ざぁっと頭から血の気が引いていく。
バッサリと斜めに身体を大きく切り裂かれ、夥しい量の血でその身体を染め上げた少女は、嫌でも”最初”の記憶を呼び起こした。
「何でだ――言っただろう!!!アンタを庇って、命を張るのが俺の仕事だ!アンタに庇われちゃ意味がない!」
「ご……め……なさ……」
ロロの腕の中、呟くミレニアの口から、ごぼり、と血液が漏れ出た。
『俺を背に庇って、前に出るなど――二度と、絶対に、するな――!』
あの時確かに、誓ってくれ、と言ったはずだった。
だが、ミレニアは――あの時確かに、困ったような顔をして慰めただけで、口に出して誓ってはくれなかったことを思い出す。
「待ってくれ――待ってくれ、まだだっ……やっと――やっと、光が見えたんだ――!」
徐々に失われていく体温に、過去何度も経験した嫌な記憶が蘇り、必死に少女を引き留めるようにしてその身体を掻き抱く。
ずっと、ずっと、暗闇の中でたった一人で地獄と向き合ってきた。
右を見ても左を見ても、どこを見ても八方ふさがりで、世界中の全員が敵で、味方なんてどこにもいない中、たった独りでミレニアを守らねばと必死に踏ん張ってきた。予定調和の中でじりじりと亀よりも遅い歩みで繰り返す日々に、絶望だけが募って行った。
それが――初めて、風向きが変わったのだ。
他でもないミレニア自身が、誰よりも頼りになる『味方』になってくれた。
誰にも信じてもらえるはずがない話を、まっすぐに目を見て信じてくれた。笑うことなく、真剣に聞いて、一緒に解決策を考えてくれた。
ロロが繰り返した苦難の日々を掬い上げるようにして労わり、まるで自分事のように彼を不幸に陥れた敵に怒りを示してくれた。
嬉しかった。
今度こそ、何かが変わる――そんな予感が、確かにあったのに。
「ろ……ロ、ロ……」
ヒューヒューとか細い息を吐きながら、そっとミレニアは細く白い手を伸ばす。
ゆっくりと――いつものように、左の奴隷紋に手を這わせた。
「お前……また――まだ――やり直す、の……?」
「――っ!」
一瞬、息が詰まる。
ミレニアの瞳に揺れるのは、心配の色。
その翡翠は、ロロが繰り返した修羅の道を、もうここで終わらせることは出来ないのかと、問いかけていた。
「俺は――っ……俺はっ……」
言葉にならない慟哭を吐き出し、ぎゅうっとミレニアの身体を抱きしめる。
自分は、歩いて行けるだろうか。――この、愛しい身体から、体温が消え去った後に。
彼女の記憶だけを抱いて、この広く味気ない世界を、たった独りで――
「……そう…………全く……お前ったら……仕方ないわね……」
ふ、といつもの見慣れた笑みを、ミレニアは頬に刻む。
言葉にせずとも、ロロの瞳を見ただけで答えを察したのだろう。少しだけ痛ましげな顔で、少しだけ呆れたような顔で――優しく頬を撫でて、弱々しい言葉を紡ぐ。
「ねぇ、ロロ……今も……お前は、私に――出逢わなければ良いと、思っている……?」
「姫――……」
掠れた声音が、切なく響く。
ミレニアは、ふわり、と柔らかく笑みを作った。
「私は――ルロシーク、私はね――何があっても、お前とまた、出逢いたい……」
「!」
「もう一度……繰り返すかもしれない……痛くて……苦しい……未来が待っているかもしれない……お前を置いて、お前に、また……絶望を与えてしまうかも、しれないけれど――」
にこり、と少女は笑う。
血の気の引いた青ざめた頬で、優雅に――軽やかに。
「お前のいない人生の不幸に比べれば……痛くもかゆくもない……お前が、嫌だといっても……必ず私から、逢いに行くわ……だから――」
「姫っ……」
「だから――待っていて……必ず……行く、から……」
ゲホッ……と一つ咳き込むと、ゴボリ、と血の塊が口の端から零れ落ちた。
「姫っ……もう――」
辛そうに呼吸する唇の端を拭い、言葉にならぬ声を出す。
雪のような白い肌を鮮血で汚した少女は、それでも優しく瞳を緩めた。
「今度は――最初から、ちゃんと……教えて、ね……」
「っ……はい……」
「約束、よ……」
「はいっ……はい、姫……っ……必ず――」
力無く滑り落ちそうになる手を掴み、必死に答える。
焦点の合わなくなってきた翡翠の瞳で、ミレニアは震える唇を開いた。
「また、ね……私、の――――」
ふっ……
最期の言葉は、音を紡ぐことなく、掴んでいた手からも、支えていた身体からも、微かに残っていた力が全て失われる。
「っ――!」
ぎゅっ……と力を失った小柄な身体を渾身の力で抱きしめて、胸に襲い来る喪失感に必死に耐えた。
もう、何度この気持ちを味わっただろう。
もう何度――同じ絶望を味わっただろう。
それでも、今回は、初めて――初めて、違う感情を抱く。
「はい……姫……必ず――次こそは……貴女をお守りします……」
少女に逢いたい。
――逢いたい。
期待するだけ、無駄かもしれない。また、苦しみと絶望を繰り返すだけかもしれない。
それでも、少女は、最後まで付き合うと言ってくれた。
ロロが、ちゃんとこの地獄の底から抜け出せるその時まで――何度でも出逢って、何度でも一緒に、繰り返してくれると言った。
彼女が一緒に歩いてくれるなら――この修羅の道も、辛くはない。
「姫――」
そっと、少女の顔を覗き込む。
安らかに、まるで眠るようにして瞳を閉ざしたその顔は、いつかの夜と変わらない。
ぎゅっと身体を抱きしめ、引き寄せる。
「貴女を――心の底から、愛しています――」
生涯、彼女の前では決して口に出来ない気持ちを音に乗せて。
失われていく体温が、完全に消えてしまう前に――わずかな熱を追いかけるように、そっと口づける。
――これが、最後。
きっと、最後。
もう一度だけ、やり直そう。
――次は、彼女と一緒に、最初から。
そうすればきっと、この長く続いた修羅の道を、終えることが出来ると思うから――




