139、もう一度⑧
ひゅんっ バシッ
「――姫……?」
思わず、慣れた方の呼称が口をついた。たらり、と一筋汗が落ちる。
今――自分は、何か、空耳を聞いたのだろうか。
「申し訳ありません。よく聞こえなかったので、もう一度お願いしてもよろしいでしょうか」
ひゅん ひゅんっ
同時に迫りくる矢が二本に増える。兵士が追いつき、二人になったのだろう。
危なげなく冷静にそれを剣で振り払いながら、ロロは主へともう一度訪ねる。
しかし、ミレニアはきっぱりとした態度で、力強く言い切った。
「何度でも言ってあげるわ。――その身に、かすり傷一つ負うことは許さない。第六皇女ミレニアの専属護衛の名に懸けて、必ず無傷でここを死守しなさい」
「な――……」
ひゅんっ ヒュンヒュンッ
時間差で仕掛けられた矢も難なく叩き落しながら、ロロは頬を引きつらせる。
「ひ――お嬢様。恐れながら申し上げますが、敵は複数人と予想されます。おそらく旧イラグエナム勢力を追いかけている途中で我々を見つけて襲い掛かってきています。野営で見たあの勢力を制圧しようとしている軍勢なら、それなりの数がいるはずで――」
「弱音なんて聞きたくないわ。お前は帝国最強の男でしょう。私はお前の実力を見込んで命じているの。これくらい、難なく切り抜けてくれないと困るわ」
「それは――」
言葉に詰まってロロは双剣を振るう。――同時に飛んできた矢は三本。少しずつ、兵士が集まってきているのは事実だ。
何度も人生をやり直し、その魂に刻まれたたくさんの知識と経験をもってすれば、ミレニアとて今の窮地がどれほどのものか、理解出来ぬわけではないだろう。彼女の指揮官としての実力は、帝都の大規模魔物侵略に巻き込まれた夜が証明している。
主の命令に違反するのは本意ではないが、さすがにこれに関しては物申したい気持ちになり、ロロは遠慮がちに口を開く。
「……お嬢様」
「何よ」
「その……俺ごときがこんなことを言うのは烏滸がましいと、理解はしているのですが――戦闘には、兵の士気というものも、非常に左右されます」
「そうでしょうね」
あっさりと頷かれ、一瞬閉口する。
飛び来る矢を四本叩き落してから、ロロは苦い顔で一生懸命口を開いた。
「その……俺の士気を、上げようと思ってくださるならば、貴女の命令が――」
「ぉおおおおおっ!」
最初に矢を射かけてきた男だろう。矢が無くなったのか、雄叫びと共に茂みから飛び出し、剣を掲げて突っ込んでくる。男の背後には、援護射撃の矢が数本、宙に舞っていた。
チッ……と小さく舌打ちし、ロロは剣の風圧も利用して援護射撃の矢を難なく迎撃し、兵士の剣を片方の剣で受け止める。
ひゅんひゅんっと再び矢が飛び退る音が耳に響いた。
「クソが――!」
鋭く叫び、自由な方の剣で男を貫くと、そのまま肉の盾にするようにして宙から降り注ぐ矢を男の身体で受け止めた。
ドドドッと小さな衝撃が刃物越しに伝わる。そのまま無造作に放るようにして剣を振るい、男の肉体を地面へと転がした。
「貴女は、ご存じないかもしれませんが――俺は、貴女の命令一つで、昂る。一騎当千の力を得る。死してここを守れと言われれば、何物にも屈さぬ最強の盾になっ――」
「何も知らないのは、お前の方だわ」
ロロに最後まで言わせることなく、ミレニアはその言葉を遮った。
「「ぉあぁああああああっ!」」
「チッ――うるさいやつらだな……!」
今度は二人係でかかってくる男たち。後ろに背負う矢を見ても、間違いなく人数は増えているのだろう。
正確に矢の軌道を見極め、自分に傷をつける可能性がある物だけを叩き落し、男たちは一瞬で火達磨にして迎撃する。
緊迫の一瞬をしのぎ、はぁっと息を吐いた後、ロロは振り返ることなく後ろへと問いかける。
「俺が、一体何を知らないと――」
「お前はね。――私のことが、大好きなのよ」
ひゅんっ
ベシッ……
「…………は……?」
思わず、手が滑りそうになる。今まで子気味良い音を立てて真っ二つにされていた矢が、手元が狂ったせいで間抜けな音を立て、ひしゃげるようにして迎撃された。
「お嬢様……?」
ギギギ、と音を立てるようにして首を回して視線だけで背後を振り返る。
――動揺が過ぎる。
「いつも色々と言い訳をしているけれど。――お前は、私のことが、大好きなの。大好きでたまらないのよ」
ひゅんひゅんっ
バシッ ベキッ
動揺のあまり、集中できない。――再び、飛び来る矢のうちの一本は奇妙な音を立てて迎撃された。
そんな護衛兵の動揺を知ってか知らずか、ミレニアは、どうということもないほど涼しい顔で言葉を続ける。
「紅玉宮の他の従者と比べても段違いだわ。だって、お前、護衛の間中、ずっと私を見ているでしょう」
「っ!?」
「いつもお前は気配を消しているから気づかないけれど。――ふと用事があってお前を振り返ると、いつも必ず目が合うんだもの。これって、お前はいつも左後ろから、ずっと私のことを見ているということよね?」
ぺしっ べきっ
手元を狂わせながら、必死に襲い来る矢を迎撃する。――もう、目の前のことに集中できない。
確かに、可笑しいと思われても仕方ない。普通、護衛と言うからには、警戒すべきはミレニアを取り巻く周囲の環境だ。どこからか彼女を害するような脅威が迫らないか、彼女の周囲に目を光らせるのが護衛兵のあるべき姿だ。――警護対象の本人に視線を注ぎ続けるというのは、確かに異常な行為かもしれない。
「ずぅっと私のことを視界に入れていたい、というくらい大好きってことよね?」
「いえ、あの、それは――」
「私の視界には、自分の影が入ることすら憚られるとか言っているくせに、自分はずっと私のことを視界に入れているのよ。隣に立つのも手を触れるのも名前を呼ぶのも嫌がる癖に、私を常に視界に収めていないと不安になるんだわ」
「っ……」
図星を差され、思わず息を詰める。
茂みの奥から槍を手に襲い掛かってくる男は、刃を交えることなく一瞬で火達磨にした。――感情が魔力に影響したのか、先ほどよりも強い炎が出て、男は一瞬で消し炭になる。
「私が貴族と結婚することは別に何とも思っていないくせに、同じ奴隷には嫉妬するわよね。自分よりも信頼を得ていたり、私の傍に置かれていると、不愉快そうな顔をしているわ」
「そっ……んな、ことは――」
心当たりが無くはない。たらたらと汗を出して、呻くように反論した言葉は、後半は明瞭さを失い口の中に消えていく。
ミレニアの命令で命を落として、彼女の心に永遠に根を張ったディオを、いつも羨ましいと思っていた。
最初の人生で、軍属となり二度とミレニアの傍に控えることが出来なくなった自分と、いつもミレニアの傍にいられるジルバとを比較して、苦い気持ちになっていた。
「お前は知らないかもしれないけれど――お前は、お前が思っているよりもずっと私のことが大好きなのよ。他の奴隷に素直に護衛を任せられないくらいに、絶対に自分の手で守り抜きたいと思っている。――帝都を火の海に沈めてでも、と思うくらいに」
「!」
「でもね、ロロ。――お前は同時に、とっても優しい男なの」
お前は知らないかもしれないけれど、とミレニアは重ねて告げる。
「いくら、時間が巻き戻るとはいえ、罪もない人々を何度も何度も自分の魔法で焼き尽くして、なんとも思わずにいられるような男じゃないわ。――お前は、見ず知らずのディオが理不尽な暴力に晒される可能性があると思ったら、私の命令も無視して口を閉ざすような男よ。私が哀しみに沈んで苦しみながら強がっているとき、その強がりを無理に暴くことなく、ただ黙ってずっと傍に寄り添ってくれる男よ」
いつも、その無表情な顔と寡黙な性格のせいで、一見冷たく思える青年は――彼が扱う炎よりもよっぽど熱く、温かい心を持っている。
ミレニアは、誰よりそれを理解していた。
「だから私は、クルサールが許せない」
低い声で告げられた言葉に、ロロの瞳が瞬きを速くする。
ミレニアは、はっきりとした声音で、意思を持って言葉を紡いだ。
「私を身勝手な理由で何度も殺すからじゃない。ペテンで私の大事な国民を陥れたからでもない。――こんなに優しいロロを、哀しい哀しい復讐の悪鬼にしてしまった。それが、何よりも、許せない」
「姫――……」
「ふざけないでほしいわ。私の大事なロロに、なんてことをさせるの」
ふん、と鼻息荒く言い募るミレニアは、どうやら本気で怒っているようだ。
襲い掛かってくる複数の男たちをさばきながら、ロロは驚きに目を見張る。
「時を操る魔物というのも、許しがたいわ。そいつが唆したせいで、お前は”やり直し”なんていう選択肢を得てしまった。私を失って、哀しみに沈んで、それでも時間と共に心の傷を癒して強く逞しく自由を手にして生きていくという道を奪ったのよ。心の優しいお前が、修羅のごとく振舞ううち、いつ狂気に支配されるのかニヤニヤしながら見守るだなんて、悪趣味にも程があるわ。絶対に許せない」
「それは――」
「だから、ルロシーク。――こんなところで命を落とすなんて、絶対に許さないわ」
きっぱりと。
ミレニアは、女帝の顔で言い切る。
「必ず切り抜けて、私と一緒にクルサールと魔物をぎゃふんと言わせてやるのよ。私の大事なロロに手を出したこと、必ず後悔させてやるんだからっ……!」
「――――……」
めらめらと翡翠の瞳に怒りの炎を灯す少女は、冗談を言っている顔ではない。
じんわりと――温かな熱が、心の奥底からゆっくりと広がっていく気配を感じた。
ミレニアが、ロロに執着し、生を諦めずに前を向いている。
それが――それこそが、ロロにとっての、何よりの幸せ。
「わかったわね、ルロシーク。全員を蹴散らして、クルサールと魔物に今までの報いを受けさせるのよ。そのためには、お前は無傷でここを切り抜けねばならない。いいわね?」
「――はい、お嬢様。全て、貴女の仰せのままに」
ふっ……と普段仕事をしない表情筋が、口の端に笑みを刻む。
それは、間違いなく――「ここで死ね」と言われるよりもよっぽど強く、ロロの士気を高めた結果と言えるものだった。




