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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第八章

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131、【断章】水辺の語らい①

 パシャパシャと小さな音が湖畔に響く。

「ふぅ……これで、いいかしら。綺麗に落ちた?」

「はい。……あとは、お召し替えを」

「えぇ。……この服、少し、気に入っていたのだけれど」

 くすり、と力無く笑って、ミレニアは差し出された衣服を手に取る。ラウラの家で準備させた、普通の町娘のようなシンプルな動きやすいワンピースだった。

「……華やかな装いで、変に男を誘っても面倒ですから」 

 ミレニアが纏っているのは、流浪の民の女たちが着る衣装だ。音楽と踊りで生計を立てることが多い彼らは、人々の目を楽しませる華やかな装いをすることが多い。

 今のミレニアが身に着けているのも、踊り子の衣装だ。くるぶしまで隠れる長いスカートは、貴族が身に着けるようなふんわりと膨らんだシルエットとは異なり、幾重にも華やかな色の布が織り込まれたストンとした特徴的なシルエット。長い袖も、頭に身に着けるスカーフも、肌を隠す面積は多いため、露出は少ない衣装だが、少し動くだけでゆらゆらと揺れる布は、嫋やかな女性らしさを強調する。

 このゆらゆら揺れるスカートのすそを持って、音楽に合わせて翻しながら、美しい足を時に露出させて踊るのが彼らの踊りだ。決して衣装の中で肌の露出が多いわけではないが、女性らしいシルエットがしっかりとわかる衣装で、見えるか見えないかというきわどい巧みさで美脚を披露しながら、ひらひらと蝶のように艶やかに踊る彼女らに、官能を覚える男がいないわけではない。

 帝都に住まうものであれば、一度は彼女らの踊りを目にしたことがあるはずだ。踊り子の特徴的な衣装を見れば、下衆な男であればその下にある艶めかしい生足を連想するくらいのことはするだろう。

「こんな肌の女に誘われてくれる男なんているかしら」

 ふ、とこぼす横顔に浮かぶのは自嘲の笑み。

「自覚してください。……貴女は、国を傾けると言われた姫なのでしょう」

「ふふふ……そんな、無表情で言われてもね。でも、お前らしいわ」

 苦い顔で言って嘆息する。

「着替えるから後ろを向いていて」

「はい」

 言われた通りに後ろを向けば、シュルシュルと衣擦れの音が響く。ロロはピリピリした空気を纏ってじっと周囲を警戒した。

 ここは、”直前”の記憶でミレニアが攫われたと思しき地点に近い。どこにクルサールの勢力がいるかわからなかった。

「でも、まさかお前が我儘を聞いてくれるとは思わなかったわ」

 着替えながらミレニアが呟く。過保護の塊と言っても差し支えないロロが、ミレニアに危険が及ぶ可能性がある寄り道を許すなど思っていなかったのだ。

 ロロは一瞬押し黙ったあと、少し躊躇うように口を開いた。

「……俺は――お嬢様の『我儘』は出来る限り叶えたいと思っています」

「へぇ……?それはありがたいけれど――どうして?」

 パサッ……と地面に布が落ちる軽い音がする。

「お嬢様は……滅多に、我儘をおっしゃらないので」

「……そうかしら」

「はい。……貴女はすぐに、自分を押し殺してしまう」

 ふ、と紅玉の瞳が陰るように瞼を伏せる。

 皇族としての教示だとか、主としてのあるべき姿だとか、そんな言葉で本心を押し隠して、必死で捕まえたと思った手を笑顔で手放す少女。

 ギュンターが死んだ時も、ディオルテが死んだ時も、従者の前だからと涙は一欠片も見せなかった。実兄たちの卑劣な策略に嵌り、<贄>に選ばれて戸惑いと恐怖に思わずロロのマントを握るくせに、ゴーティスが正論で言いくるめようとすれば、全ての恐怖を押し込めて、そっと手を離そうとしていた。本当は、夢の中で泣くほど魔物の恐怖に怯えているくせに、国家のためと言って毅然と死を見つめる横顔は張り詰めていた。

 眠っているときにしか、「助けて」と口に出すことが出来ない少女だった。

 人一倍家族の愛情に飢えて、孤独に耐えて生きてきたくせに、素直に「独りにしないで」と言い出すことは出来ず、「お前は私の物だから」と主の仮面を被って告げることしかできない少女だった。

(そのくせ、土壇場になると、「お前の幸せのために」といって、進んで孤独になろうとする――……)

 ぎゅっと拳を握ると、掌に爪が食い込んだ。

 ”最初”の記憶のミレニアは、その傾向が一番強かった。今のミレニアほど、人間味がなかったといってもいい。

 とにかく弱さを誰にも見せず、主として、皇族として、理想の姿を追い求めて振舞っていた。魂に刻まれた記憶がないせいで、今ほどの実務能力を持たなかった彼女が”女帝”になるために対外的にアピールできるのは、具体的な施策立案の実績ではなく、その心根だけだったせいかもしれない。

 その、絶対に誰にも弱さを見せない”最初”の時間軸の中で――たった、一度だけ。

 ミレニアが、泣きそうに声を震わせながら、二人だけの部屋で、『我儘』を言った。

 あの日の出来事だけは、何十年繰り返しても、忘れられない。

(そして、一番苦しい死の間際で、その『我儘』を取り消された……それもきっと、永遠に、忘れられない)

 剣闘を生業にしていたロロと違い、皇城の中に囲われて、生傷などとは無縁の生活をしていた少女だった。

 それがあの晩、信じていたはずの男に剣でばっさりと斬り捨てられ、止血も出来ぬまま大きく揺れる馬上で長距離を運搬され――

 さぞ、痛かっただろう。苦しかっただろう。――怖かった、はずだ。

 それなのに、少女は、涙の一つも流さなかった。

 それどころか――ロロの頬に手を当てて、ゆっくりと、死相の浮かんだ蒼白い顔で微笑んで見せたのだ。

 自分が死にゆくことで、残された従者が惑わぬように――死んでいく自分を忘れて、幸せに生きて行けるようにと、願って。

(あの時、”やり直し”をすると決めたとき、誓った。――これから先の人生では、この方の心の奥に隠された本音を、必ず見つけるのだと)

 滅多にそれを見せない少女だからこそ。

 それを見せてくれた時は、必ず掬い上げるのだと――

「そう。……ふふ。では、名前を呼んでという『我儘』も――」

「それとこれとは話が別です」

「……ケチ」

 間髪入れずに断るロロに、む、とミレニアが小さく膨れる気配が伝わる。

 衣擦れの音はまだ続いている。幾重にも重ねられた色とりどりの布を駆使した伝統衣装は、着用するのにも時間がかかっていた。慣れない作業に苦戦しているのだろうが、さすがに手伝う訳にもいかない。じっとロロは周囲を警戒しながら佇む。

「……せっかく、今だけの、夢みたいな時間を楽しめると思ったのに」

「……?」

 ぽつり、と呟かれた言葉に疑問符を返す。

 五年――記憶がない魂に刻まれた時間まで合わせれば数十年――毎日のように四六時中一緒にいた二人の間に、明確な言葉はいらない。空気だけでロロが言いたいことを察し、ミレニアは口の端に苦笑を刻んだ。

「今だけなのよ。――私が、ただの『ミレニア』でいられる時間は」

「……どういうことですか……?」

 言葉の意味を測りかねて、重ねて問う。パサッ……とまた一つ、布が地面に落ちた音がした。

「私はずっと、イラグエナム帝国の第六皇女として生きてきたわ。時には『異国の血を引く穢れた女』だの『魔物に対抗する<贄>』だの色々言われたけれど――それでもやはり、私はそうした肩書やレッテルが常について回っていた。『紅玉宮の主』というのも、そのうちの一つね」

「…………」

「だけど、今の私には何もないでしょう。……イラグエナム帝国は崩壊し、紅玉宮も追われてしまったわ。今の私は、何の肩書もレッテルもない、無力な一人の十五歳の女に過ぎない」

 クス、と吐息が漏れる音がする。苦笑と共に嘆息したのかもしれない。

「このまま、お兄様の下に行ったら――また、私は『第六皇女』になるわ。『イラグエナム帝国の皇族の血を引く娘』というレッテルと一緒にね。きっと、愛のない政略結婚の果てに、子供を産む機械のように雑に扱われて、ゴーティスお兄様からもヒュード殿からも冷遇されて生きる未来が、容易に想像できる」

「……ですが、今は生き残ることが第一です。――死んでしまっては、何にもならない」

「わかっているわ。お前がそのために、なりふり構わず必死になってくれているのも十分知っている。今更行きたくないなどと駄々をこねるつもりはないから安心して」

 クスクス、と笑いながら言う。シュルッ……と衣擦れの音が一つ響いた。

「だから、最初に言ったでしょう。――これは、私の『我儘』よ。きっと、ゴーティスお兄様の下に行ったら、もう二度と、こんな時間は戻らない。……今は、誰も私を『姫』なんて呼ばないの。肌の色を皆と同じ色に染めて、異民族の伝統衣装を纏って――お前と二人、結婚を控えた恋人同士、なんていう小芝居を打って、並んで歩くのよ。ふふ……お前はいつも、左後ろに控えているか、私を庇うように前に立ちはだかっているかしかなかったから、隣に並んで歩く、なんて、とても貴重な体験だったわ。市井の恋人たちは、こうやって時間を過ごすのかしらね」

「…………」

 何やら上機嫌な主の言葉に、渋面を刻んで視線を伏せる。

 ――本当に、人の気持ちも知らないで、好き勝手なことを言う主だ。

「肌の色を、偽ろうと元に戻そうと、結局お兄様たちには嫌われてしまうと思うかと思うと哀しいけれど――そこに赴くまでの少しの間、ただの『ミレニア』として、お前と二人きりで過ごした時間があった、というのは、きっと、これから先の辛く苦しい人生の中で、私の心を慰めてくれると思うのよ」

「――――……」

 ロロは、静かにミレニアの言葉を頭の中で反芻する。

「……お嬢様は」

「え?」

「……そんなに、肌の色が、気になるのですか……?」

 会話を脳裏で振り返れば、今日はやたらとその話題を口にしている気がする。ロロは、素朴な疑問を口に乗せた。

 すると、背後のミレニアがくすり、と苦笑した気配が伝わる。

「……そうね。きっと、お前が思っている以上に、私は自分の肌の色が嫌い。なるべく肌を露出しないデザインのドレスを着たりと涙ぐましい努力をしたりもしたけれど、駄目ね。昔から、健康的で色香のある小麦色の肌がとても羨ましくて仕方がなかったわ」

「……そういうものですか」

「お前は、気にならないの?」

「はい」

 ミレニアの問いに、深く考えず返事をする。――そんなことを、いちいち気にしたことはなかった。

「でも――お前、昔から、目を瞠るような褐色美女は見慣れているでしょう」

「?」

「性奴隷や、皇城で目にする貴族の令嬢たち――ラウラだって」

「……あまり、女の美醜を気に掛けたことはありません。それこそ肌の色など、いちいち気に掛けたことはない」

「!?」

 ミレニアは一瞬驚いたように息を飲み――気を取り直したように言い募る。

「ま、待って……それはきっと、お前が、幼いころから生粋の帝国民にばかり混じって生きてきたからよ」

「はぁ……」

「当たり前だから気にしていなかっただけで――わ、私を初めて見たときは、驚いたでしょう!」

 言われて、ロロは遠い記憶を辿るように視線を宙に這わせる。

 ミレニアとの出逢いの記憶は――”やり直し”た分だけあるから、数えきれない。

「生っ白くて幽霊のように不気味な女だと、そう思ったはずだわ!」

「……誰かにそう言われたのですか?」

「っ……」

 ぐっと言葉に押し黙るのは、肯定の証だろう。どうやら、幼い少女時代に、心無い言葉を浴びせて消えない傷を残した人間がいるようだ。――どうせ、彼女の十二人の兄たちの中の誰かだろうが。

 心の中でその兄たちを血祭りにあげたい気持ちに駆られながら――実際にはそのほとんどが既に生首になって城門に晒されているのだろうが――ロロはぼんやりと頭の中の記憶の海を漂う。

 何度も繰り返して、そのたびに様々な”分岐”で少しずつ変わる人生の出来事。

 それなのに――不思議と、何度やり直しても、彼女との”出逢い”だけは、毎度ほとんど何も変わらない。

「貴女と初めて出逢ったときは――皇女が目の前に現れたということに驚きはしましたが、肌の色が白いからと不気味に思ったりはしませんでした。……貴女ほどではないですが、肌の色がかなり薄い奴隷など、何度も見ていましたから、世の中に色々な肌の人間がいることくらいは知っていましたので」

「で、でも……」

「肌の白さなどより、よほど貴女の瞳の方が印象に残ったことを覚えています」


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