124、修羅の道③
少女と二人、静かな夜に会話した。
翡翠の瞳が、何度も何度も、昔のように、忌まわしいと言われてきた瞳を嬉しそうに覗き込む。
――時が止まればいいのに、と何度思ったかわからない。
「……姫」
「なぁに、ルロシーク」
歌うように囀る声で呼ばれる名前が、嬉しかった。
彼女の笑顔を曇らせるようなことはしたくなかった。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかない。
最後は、自分から切り出さずにはいられずに、ついに本題を口にする。
「何故――クルサールの申し出を、拒否されるのですか」
「お前――……知っていたの」
翡翠の瞳が驚いたように瞬き――ふっと少しだけ笑顔が曇る。
ズキン……と胸が、痛みを発した。
「……疲れて、しまったのよ。もう。色々なことに」
窓の外の星空を見上げてポツリとこぼされた虚ろな言葉は、少女の隠されていた本音のようにも思えた。
しん……と静寂が部屋を満たす。海の底に沈んだような、耳が痛くなるほどの静けさが充満していた。
「……内緒よ。お前は『特別』だから、教えてあげる」
ふ、と少女の美しい面に宿ったのは、深い深い寂寥を湛えた笑みだった。
ぎゅ……と固く拳を握り締める。
「どうして――……」
「だって――今の私に、生きていても楽しく愉快な事なんて、無いと思わない?」
哀しい哀しい笑みのまま、力無く少女は語り掛ける。
出逢ってから初めて――少女の本音を、見せてもらっているようだった。
「お兄様たちからは、これからもきっと、ずっと、恨まれる。――私が息をしている限り、ずっと、ずっと、私の首を落としたいと思うような方々ばかりよ」
「姫――……」
「クルサール殿と結婚したとて、結局女である私は物扱いだわ。彼はきっと、国を治めるよき助言者として私を欲しているだけ――私を愛しているわけではない。民に好かれ、民を良き方向に導くのに最適な妃という存在を欲しているだけよ。私個人を見てくれているわけではない」
「ですが……」
「クルサール殿がどれほど心を砕いてくれたって、私には”神”の教えを信じることも、広めることも出来はしない。”神”に守られ、”神”を敬い生きてきた歴史をもつ国の民は、”神”を軽視する妃を受け入れるかしら?――受け入れるはずがないわ」
ミレニアはそっと手元に視線を落とす。長い漆黒の睫毛が、白い頬に影を作った。
「知り合いもいない遠い異国の地。逆立ちしても理解のできない風習。民の理解も得られず、生涯ずっと、針の筵に座らされることがわかっているそこに嫁いで――私は、何を”幸せ”として生きればよいのかしら」
ぽつり、ぽつりと弱音が零れ落ちていく。
きっと、十五年間――誰にも零すことのできなかった、彼女の弱音。
「紅玉宮の皆は、素晴らしい従者ばかりよ。昔から仕えてくれていた者たちも――今、仕えてくれている者たちも。生きる意味がわからなくて、人生に疲れてしまった私に、必死に毎日を豊かにしようと努力してくれる。一生懸命、私の笑顔を作ろうと、毎日毎日努力してくれる」
そう言って、寂しげな笑みを浮かべる。
「でもね。……どうしても、心から笑うことが、出来ないの。彼らのためにも笑わなくては、と思うのに――出て来るのはいつも、”主”としての笑みばかり。――――お前が傍にいてくれた頃のように、心から笑えることは、無くなってしまったわ」
「!」
クス、と吐息だけで笑みを漏らす。
翡翠の瞳が、揺れていた。
「国のため、民のため、私に仕えるたくさんの従者のため――そう思って、これが最善なのだと、断腸の想いでお前をお兄様の元へやったのに。――今更、毎日後悔するわ。お前のこの美しい瞳を見られなくなって、私の毎日は彩を無くしてしまったの」
ドクン……と心臓が音を立てた。
「だから私は、『誇り高い死』を受け入れたいの。国のため、民のため――私の我儘のために、ここで、彩を無くした日々を、終わらせたいのよ」
言い切って、カップの中を飲み下す。冷え切った紅茶が、身体に染みわたって行った。
「……駄目ね。従者の前で、弱さを見せるなんて、主失格だわ」
「姫――」
「ゴーティスお兄様の元はどうかしら。少し短気なところは玉に瑕だけれど、ああ見えて、一度懐に入れた人間に対する情は、驚くほど篤い方よ。ゴーティス殿下のためなら、と言って戦場で命がけの特攻をするのも厭わぬ、という兵士が沢山いる方だから――」
にこり、とミレニアは笑いながらロロを見る。
――見慣れた”主”の微笑み。
「私などより、よほど優れた”主”だわ。資質もある。能力もある。私のところにいたときよりも、お前も己の力に合わせた仕事をもらえているでしょう。東の森の魔物討伐で目覚ましい成果があったと聞くときは、大抵お前が出兵したときだと聞くわ。素晴らしいお兄様の元で、たくさんの活躍の場を与えられ――お前も、働き甲斐があるでしょう」
「っ……そんなはず――あるわけがない――……」
ぐっと頬を苦悶に歪め、ミレニアの言葉を否定する。
少女にそんなことを言われるのは、苦痛以外の何物でもなかった。
「ぇ……?」
「俺の”主”は――姫だけです」
ぎゅっと無意識に、胸の首飾りを握り締める。
「俺は、ゴーティス殿下のために死ぬことは出来ない。泥水を啜って、醜く足掻いて、ただ生き残るために毎日必死に息をします。虫けらのように、醜く、汚く、生きるしかできない」
「ロロ……?」
「俺が、”人”として生きることが出来るのは――アンタの傍にいるときだけだ――」
「――――!」
ミレニアの瞳が、大きく見開かれる。
「勝手に俺の幸せを決めないでください。俺の幸せは、俺が決める。――俺は、ゴーティスのために死ぬことは出来ないが、アンタのためなら命を捨てることも厭わない。アンタのために生きて、アンタのために死ぬ。――それが、俺の、幸せであり、俺の生きる価値だ」
「ロロ……」
「……笑ってくれ。頼むから――生きて、幸せそうに、笑っていてくれ。アンタを失ったら、俺も、生きる意味を失う」
「!」
「どんな形でもいい。――俺は、アンタに、生きていてほしい」
後悔をしているとしたら、自分の方だ。
どうして、あの時――自分から、少女の元を離れるなどと言ってしまったのか。
日常から彩が無くなったのは、自分も同じだ。少女が傍にいない毎日は、ひどく味気なくて、つまらなくて――生きている意味すら、よく分からない。
「……私、ね」
しばしの沈黙の後――そっと、吐息に音を乗せるようにして、ミレニアが息をひそめて囁く。
「亡くなったお父様に、約束したの。お前を手に入れるとき――これが、人生で、最初で最後の我儘だと」
「……?」
「だから、私にはもう――我儘を言う資格は、残されていないのだけれど」
ぎゅっと小さな手を握ってから、ゆっくりとロロを見上げる。
今にも泣きそうに、翡翠の瞳が揺れていた。
「もしも、一つだけ――あと一つだけ、我儘が許されるなら――私、やっぱり、お前が欲しいわ」
「――!」
「もう一度、お前を傍に置きたいの。――今度はもう、手放さないと、約束するから。ずっと、ずぅっと、お前と一緒に生きていきたいの」
「姫――」
「お前が毎日傍にいてくれるというのなら――針の筵にも、笑いながら座ってみせるわ。愛のない結婚も、お兄様方からの憎悪も、何もかも受け入れて見せる。――お前が、私の人生の”幸せ”になってくれるなら」
吐息を震わせ、少女が声を紡ぐ。
身体が勝手に、動いていた。
ミレニアの足元に膝をつき、最高位の礼をする。
五年前のあの日と同じ――生涯違えぬ、忠誠を誓う。
「貴女は一言、命じればいい。俺は、貴女の――貴女だけの、騎士です。姫が命じれば、俺はどんなことも、命を賭して叶えてみせる」
「ロロ――」
「どうか、命令を。――また、あの日のように、俺に命じてください。それが、俺にとって、何よりの喜びであり、幸せなのだから――……」
瞳を閉じて、首を垂れる。
今すぐ少女に首を討たれても構わない、という全幅の信頼と忠誠の証。
「っ……生涯ずっと、私の――傍に、いて」
「はい」
「一生、ずっと、私の傍で――ずっと、ずっと、私を守りなさい」
「はい」
「もう二度と――傍を離れたりしないと、約束して」
「――はい。必ず。――――いついかなるときも、必ず、貴女の、お傍に」
静かに星が瞬く夜――
誰もいない二人の世界で、固い約束が交わされた。




