123、修羅の道②
“最初”の記憶は、“最新”の記憶とはだいぶ異なった。
「――――――誰だ。貴様は」
同じだったのは、初めの出逢いだけ。
醜く汚いヘドロの塊のような、文字通りの『世界の肥溜め』――そこに舞い降りた、女神のような少女がいた。
「命令よ。お前は、一生、ずっと、私の傍で、私をずっと守りなさい」
冗談みたいにあっさりと、重たく冷たい枷を外して、そんなことを命令した。
「ルロシーク。大陸古語で、<紅蓮の騎士>という意味よ。皇女の護衛として、ふさわしい名でしょう」
宝石みたい、と言って忌まわしい瞳を覗き込んだ彼女の瞳こそ、翠色の艶やかで美しい宝石のようだった。
「今日から、お前は私の物よ。勝手に傍を離れることは許さないわ」
年端もいかない小柄な少女は、女帝のような風格で、鍛え抜かれた剣闘奴隷にそう命じた。
――物扱いされることなど、慣れていた。
それでも、世界の肥溜めから救ってくれた少女に報いるため、どんな酷い扱いを受けても甘んじようと――
「……姫は、本当に、俺の瞳を――何度も眺めますね」
「えぇ。大好きだもの。――嫌とは言わせないわよ。お前は私の物だもの」
待っていた日々は、肥溜めの中から想像していたものと、全く違った。
少女は青年に書物を与え、丁寧に教育を施した。
「……姫」
「えぇ。なぁに、ルロシーク」
敬語と所作を覚えるまで、何年もかかった。それでも辛抱強く、少女は笑顔で教えてくれた。
手足が軽い。羽が生えたように、軽かった。
どこへでも行ける手足を与えておきながら、少女は、笑顔で言ってのける。
「お前は私の物よ。ずっと、ずぅっと傍にいて」
枷などもはやどこにもないのに、歌うようなその一言で、心ごと少女に縛り付けられた。
――いつしか少女に惹かれている自分に気が付いた。
だからこそ、辛かった。――他でもない自分が、彼女の枷になっていた。
「っ……そんなこと、従者のお前が心配することではないわ!」
奴隷を買い上げた皇女の貰い手は、どこにもなかった。
“最初”の記憶では――少女は、“最新”の彼女ほどの頭脳を持ち合わせてはいなかったように思う。
女帝になりたいと夢を描いて努力をしていたのは同じだ。彼女の君主としての資質は素晴らしく、その思想も矜持も、どの皇族よりも優れていた。
だが、優秀ではあったものの、公衆浴場の建設や奴隷解放施策などといった、少女が”最新”の記憶の中で発案した施策は何一つその世界に存在していなかった。
だから、少女は支度金をどこからも用意が出来ず――彼女の貰い手は、どこにも見当たらない。
「約束してください。もしもこのまま、姫の婚約がどことも纏まらなかったら――足枷になっている俺を、必ず売り払うと」
それが、本来の“物”としての扱われ方だった。彼女の幸せのために、彼女に売られるなら、本望だった。
しかし、彼女は頑なだった。ロロを手放すくらいなら、生涯独りで生きるのだと言わんばかりの頑なさだった。
だから――カルディアス公爵家との縁談も、なかった。
ディオルテと名付けられた少年と出逢うこともなく――魔物による帝都の大規模侵攻に巻き込まれることもなかった。
その代わり、ギュンターの崩御後、かなり早い段階からギークによる冷遇が始まり、紅玉宮の予算が大幅に削られていった。少しでも気を抜けば、いつでもミレニアを市井に堕とせるよう、周到な準備が成されていた。
圧政に苦しむ民に心を痛め、魔物の脅威に震える民に心を痛め――それでも何一つ出来ることがない少女は、満足に従者に給与を支払うことすらできなくなり、哀しみに沈んで行った。
美しい翡翠の瞳に影が宿り――それを悟らせまいと、昼間は気丈に振舞う少女に、胸が痛んだ。
だから――自分から、告げた。
「――俺を、売ってください。第六皇子ゴーティスに。魔物討伐に苦心する今、国防を担う帝国軍元帥として、俺の戦力は、喉から手が出るほど欲しいはずだ。そうすれば、紅玉宮にまとまった金が、入ります。……姫の代わりに、俺が、民を、守ります」
ミレニアは、酷く哀しい顔をした。寂しそうに、今にも泣きそうに顔を歪めて――
「――わかったわ。お前がそう、望むなら」
何も言わずに、最後は“女帝”の顔で、受け入れた。
そうして、紅玉宮での生活が終わる。――天国のようだった幸せな日々が、終わりを告げた。
「――66番。仕事だ」
奴隷時代をなぞるような毎日が始まった。
ミレニア以外の人間に、名前を呼ばれることは不愉快だったため、番号で呼ばれることをよしとした。ゴーティスの手下がいつも兵舎にやってきて、まるで奴隷小屋の看守のような言葉を発する。
ミレニアの強い望みで、日常生活で枷を嵌めることだけは避けられたが、出兵の時はいつも手枷を嵌められた。ミレニアとの契約のおかげで、日常的に理不尽な暴力を振るわれることはなかったが、いつも差別意識たっぷりの視線にさらされていた。
毎日毎日、東の森に赴いては、魔物を葬るだけの日々。
味気のない日々に、生きている意味を自問自答しそうになるが、これが敬愛するミレニアのためなのだと――これがミレニアを守ることにつながるのだと思い、無理矢理己を納得させた。
兵舎の中から出られぬ身で、ミレニアの様子を探ることなど出来はしない。それでも、彼女が幸せに暮らすことを祈らない日はなかった。
毎晩、寝る前に、首飾りを眺めた。
とろりとした蜜のような、美しく大きな翡翠の首飾り。
これを見れば、いつもこの宝石と同じ色の瞳が、下から嬉しそうにロロの瞳を見上げるように覗き込んでいた幸せな日々を思い出す。
もう、顔を見ることも、声を聴くことも出来なくなった主だが――胸の奥に燻る愛しさだけは、いつまで経っても色褪せなかった。
そうしてどれだけの日々が経ったかわからぬまま――ある日、兵舎に、見知らぬ男が尋ねてきた。
「初めまして。貴方がロロ――ルロシーク、ですか」
「……誰だ貴様は」
「申し遅れました。――私の名は、クルサール。ミレニア姫の、将来の夫です」
感情の読めない笑みを仮面のように張り付けて、金髪碧眼の美丈夫はそんなことを言った。
そこで初めて知らされる事実。
ミレニアが兄たちの陰謀によって<贄>として一年後に東の森に送られること。唯一それを避けるためにはクルサールと結婚するしかないが、本人はそれを嫌がっていること。紅玉宮の従者たちには全て暇を与えて、代わりに奴隷たちを従者として与えられていること。
「私は、ミレニア姫を助けたい。何としても、です。――そこで、貴方の存在を知ったのです、ルロシーク。貴方はミレニア姫に、特別な信頼を得ていたとか。どうか、ミレニア姫を助けるため――協力しては、くれませんか」
見知らぬ男に名前を呼ばれる不快感はあったが、事情を聞けば、協力は惜しむ気にはなれない。快諾して、クルサールと密談を交わす毎日が始まった。
そのうち居ても立ってもいられず、周到に準備をして、ある晩こっそり兵舎を抜け出した。護衛兵時代に辺りを付けておいた逃走経路の知識を使って、紅玉宮の中へ忍び込む。
紅玉宮に赴いたことが露見すれば、ゴーティスは烈火のごとく激怒するだろう。激しい折檻が待っているはずだ。
それ自体は正直どうでもいいが、万が一、反抗の意志が強いとして、ミレニアとの契約を保護にして日常生活でも枷を付けろと言われてはたまらない。――最後の手段として、<贄>として東の森に送られる前に、ミレニアを攫って逃げる選択肢だけは、残しておきたかった。
気配を殺して夜の紅玉宮へと足を踏み入れる。護衛兵時代にいつも部屋から見ていたミレニアの書斎には、今日も明かりが灯っていた。
(<贄>の秘密を探そうとしているとか……本当に姫は、いつも自分を差し置いて、民や従者を優先してばかり――……)
ぐっと奥歯を噛みしめて無意識に胸元の翡翠に手を触れる。
いつだって、強い横顔で、従者が心配することを拒絶する少女だった。凛とした瞳で、弱さを暴かれぬよう、必死に強がって両足を踏ん張っていた。
そんな少女が、どうか、どこかに弱音をこぼせる場所を見つけられたらと――
「っ――!」
ガキィンッ
「ヒュゥッ――賊の癖に、なかなかやるねぇ」
死角から飛んできた三日月刀を受け止めると、軽薄でシニカルな響きを持った声が聞こえた。
咄嗟に刃を振り払い、対峙すると――
「な――貴様は……!」
「おやぁ?こいつぁ驚いた。ハハッ……随分と懐かしい顔じゃねぇか!」
剣闘奴隷時代に、幾度となく手合わせさせられた好敵手が、見慣れた黒い装束を纏って、皮肉気な笑みを浮かべていた。
「お前が、姫の護衛になっていたのか――!」
「ぁん……?そういうお前さんは、なんだ、その服。――軍人にでもなったのか?」
ジルバと名付けられたかつての好敵手は、ロロの装いを見て、怪訝そうに片眉を跳ね上げる。
ズキリ……と訝しむ視線に胸が痛んだ。
「そうだ」
「へぇ……?あのお嬢ちゃん以外の貴族の下で働こうなんざ、お前も酔狂な奴だな」
「……好きで働いているわけじゃない」
チッ、と大きく舌打ちして答える。
――ジルバの黒衣が、羨ましくてたまらない。
叶うなら、ずっと――ずっと、あの装束で、ミレニアの傍に、控えていたかった。
「姫に逢いに来た」
「へぇ……?なんでまた――」
「ロロ!」
外のやり取りが聞こえたのだろうか。書斎から、ミレニアが叫びながら飛び出してきた。
「みっ、ミレニア様、危険です――!」
「大丈夫よ!ロロ……!あぁ、本当にロロなの――!?」
菫色の瞳の侍女らしき少女が涙目で止める手を振り払い、小柄な体が廊下に躍り出る。
ふわりと広がる、夜空の色をした長い髪。とろりとした蜜を湛えた大きな翡翠の瞳。雪のように白い肌。
記憶の中にある少女よりも少し大人びたミレニアが、顔いっぱいに歳相応の喜びを浮かべて、身体ごとロロに向かって突撃した。
「――姫」
「ロロ――!ルロシーク……!」
腹のあたりに飛び込んできて、そのままぎゅぅっと抱きしめながら少女の声に名前を呼ばれると、ドクン、と胸が高鳴った。
「姫……ご無沙汰しております」
「ロロっ……ロロ、逢いたかった――逢いたかったわ……!ずっと、ずっと、お前に逢いたかった……!」
縋りつくように力いっぱい抱きしめられて、己の手の行き場に困る。
美しく清らかな少女を抱きしめ返すには――己の手は、穢れすぎていて。
「あぁ――ロロ、今日はどれくらいここにいられるの?ゴーティスお兄様は私と逢うことを許しはしないでしょう。怒られてしまうかしら。すぐに帰らなければならない?」
「いえ……殿下には黙って、兵舎を抜けてきました。部屋にいるように偽装をしてきたので、しばらくは大丈夫です」
「本当!?」
ぱぁっと少女の顔が目一杯輝く。
ドキン……と心臓が一つ、飛び跳ねた。
護衛兵の時代に見ていた、従者の処遇に胸を痛め、国の行く末を憂いていた哀しい瞳ではない。誰にも弱みを見せまいと、凛とした強い横顔でもない。
今、目の前にあるのは――ただの、十五歳の、歳相応の、愛らしい少女だった。
「レティ、こんな時間に申し訳ないけれど、お茶を淹れてくれないかしら?お菓子は要らないから、すぐに私の部屋に運んで頂戴。……あぁ、ロロ、お前に逢ったら話したいと思っていたことが、たくさんあるのよ」
翡翠の瞳をうきうきと輝かせて、ミレニアはロロの手を引っ張る。
毎晩見ていた宝石よりも、ずっとずっと、美しい瞳。
「……はい、姫。……貴女の許す限り、貴女のお傍におります。……ずっと。ずっと――」
愛しい。
――愛しい。
ゴーティスの元に赴いてから、我知らず凍てついていた心がゆっくりと溶けていくのがわかる。
ただ呼吸をするだけではない。ただ心臓を動かすだけではない。
少女の傍にいると――生きる、という意味が、根底から覆っていく。
やはり、この少女の傍こそが、自分の”生きる”場所なのだと――改めて、自覚させられた夜だった。




