116、逃亡の日々③
ガン――と、ハンマーで頭を横殴りにされた気持ちだった。
「言われた通り、今日は店じまい。お客さんには全員お帰り頂いて――アラ?」
部屋に戻ってきたラウラは、いつの間にか部屋に現れていたもう一人の来訪者に気づき、視線を止める。
「ふふ……こんなあばら家に、随分高貴な御方がいらっしゃったこと。絵でしか見たことはなかったけれど――実物は、絵なんか軽く凌駕するくらいの可愛らしい御方ね」
「っ……!」
とろり、と蕩けるような流し目で微笑まれ、サッと目をそらして息を詰める。
絵――というのは、ギュンターの生前に街に出回っていた、ミレニアの肖像画のことだろうか。それとも――今、帝都中にばらまかれているであろう、ミレニアの手配書のことだろうか。
どちらにしても、一目見てミレニアの正体に気づいたらしい。しかし、動じる様子もなければ、反乱兵に通報しに行こうとする素振りもないのは、ロロが信頼を寄せる所以なのだろうか。
「金なら言い値で払う。色々と便宜を図ってもらいたいことがある」
「あら、水臭い。貴方と私の仲よ?お金なんていらないわ」
言いながら、息をするように自然にロロとの距離を詰める。一瞬でパーソナルスペースを犯して、そっ……と細い指でロロの頬を勿体つけるように撫でた。
バシッ……
「お嬢様の前だ。下品な振る舞いは控えろ」
「”お嬢様”。……ふふ。そう。残念だわ」
音が出るほど素っ気なく払いのけられた指をそっと包んで、意味深な視線を投げる。
蠱惑的な視線に、ドキリ、とミレニアの心臓が跳ねた。
(う――嘘つき、噓つき、嘘つきっ――!)
ガラガラと自尊心が砕け散っていく音がする。
ミレニアが生まれたときから欲しくてたまらなかった、滑らかな褐色の肌も、艶やかで美しい漆黒の双眸も。長身のロロと並んでも様になるほどのすらりとした肢体も、ミレニアには逆立ちしたって得られないような豊満な胸も。視線一つ、指先一つ――すべてで男を魅了するような、大人の色香を漂わす言動も。
(何が”比ぶべくもない”よ――!こんなっ……こんな絶世の美女が相手だなんて、聞いてないわ!!!)
思わずふらり、と足元がふらつく。
「お嬢様っ!」
すぐにロロが気づいて、腕を支えてくれた。――が、もう気にしていられない。ショックが大きすぎて、立ち直れない。
ちらり、と豊かな黒髪の間から見えた耳飾りは、光り輝く純金製だ。情報屋としての収入があるせいだろうか。生活は潤沢らしい。――今現在無一文になっているミレニアとはまさに比ぶべくもない。
(しかも、ごてごてと下品な大粒の宝石で着飾るわけじゃないあたり、センスもいい――そりゃ、こんな美女から結婚を迫られたら、きっぱり断れないのもわかるわね――いえ、むしろ、どうしてその場で受け入れなかったのかしら。理解に苦しむわ……)
「お嬢様、しっかりなさってください。どこか、お身体の具合が悪いのですか……!?」
「いえ……大丈夫……大丈夫、よ……」
ショックのあまりふらついた身体を支えてくれる逞しい腕に縋りながら、何とか言葉を返す。伝わってくる体温は、いつもの安心する温かさなのに、鼻腔を擽るのがいつもの香りではないことがぎゅっと胸を締め付けた。
「おい。最初の依頼だ。お嬢様に休息を。……風呂に湯を張って寝台でやすませろ」
「いいの?ここに、客間なんてないわよ?」
笑みを含んだ声で言われ、ピクリ、とロロの眉が跳ねる。
つまり――ここに来るたびに何度も睦び合った、あの寝台しかないということなのだろう。
快楽主義者のラウラのことだ。あそこで事に及んでいるのはロロだけではあるまい。
穢れの象徴ともいえるあの部屋、それも寝台に、清廉の象徴ともいえるミレニアを寝かせることに抵抗がないといえば嘘になるが――
「背に腹は代えられない。今のお嬢様には休息が必要だ」
「あらあら、過保護なこと。依頼というからには、ちゃんと報酬をもらうわよ?」
口元に蠱惑的な笑みを描いて言いながら、ラウラは部屋を後にする。湯を張りに行ったのだろう。報酬さえ払えば仕事はきっちりやる女だ。そこの信頼だけは揺るがない。
ほっと息を吐いてミレニアを見ると、何やら複雑そうな顔をしたミレニアが、物珍しそうにきょろきょろと周囲を見回している。
「ここは、ラウラの仕事部屋です。調香したり、情報屋としての裏の仕事をするための部屋でもある」
「そう……」
ミレニアの疑問を先回りして答えると、少女は静かに頷いた。
そして、ふと一点に目を止める。
――見覚えのある、紋様が目に入った。
「ロロ――」
「はい」
「本当に、彼女は信頼が出来る人……?」
微かに震える声で言われて、疑問符を返すと、ミレニアは壁に備え付けられた本棚を食い入るように見つめていた。
視線を追って、ミレニアが言いたいことに気づき、「あぁ」と声を上げる。
「大丈夫です。……それは確かに、あの男が広めていた宗教の聖典ですが、情報屋として仕入れたものでしかないでしょう。彼女自身は、神など信じぬ無神論者です」
(そもそも、清貧を愛し、性愛に溺れることを禁じているあの宗教に、ラウラのような快楽主義者がハマるはずがない)
胸中のつぶやきは胸にしまったまま、そっと少女が見ていた本を抜き取る。
しっかりとした装丁の、やけに重厚感のある本だった。表紙には大きく”聖印”とやらが描かれている。
「抵抗がなければ、読んでみてはどうでしょうか。……あの男がクソ野郎だということがよくわかります」
「…………」
ごくり、とつばを飲み込んだ後、震える手でそれを受け取る。
ぱらり……と分厚い表紙を一つ捲った。
そこに書いてあったのは、”神”――エルムという名の謎の生命体の、ありがたい言葉。
クルサールがある日突然、そのエルムからお告げをもらい、”救世主”として民を救えと使命を得たところから、聖典は始まっている。
そのまま、あくまで伝聞調で、聖典の内容は続く。クルサールが聞いたエルムの教えを、手帳のように書き記したもの、という体裁だった。
「何――……これ……」
読み進めるうちに、ドクン……と胸が不穏に鳴る。
ざわざわと、嫌な靄が胸の内に広がっていくようだった。
そこに描かれているエルムの教えは、とても分かりやすい――理想の国家とはどうあるべきか、という、まるで君主論や帝王学といった内容だった。
本来、これらを学ぼうと思えば、小難しい論文を読み解かねばならない。時には大陸古語すら学ぶ必要がある。
それを、わかりやすい例を交えることで、平民にもわかりやすく解説しているだけだ。
「何が、”神”の教えよ……こんなもの――!」
唇が震える。ロロは、少し痛ましげに、そっと目を伏せた。
ミレニアは息をつめた後、悔しそうに声を漏らす。
「全部――全部、私がクルサールに、語ったことばかりだわ――!」
「…………」
ロロは、少女の慟哭に沈黙だけで答えた。
エルムの教えとして描かれる内容のうち、オリジナルと思しきものは、最初の一章だけだった。清貧を愛せよ、性愛に溺れるな。――それは、クルサールが語った、限られた領土の中で他国との交流が少なかったエラムイドが長く存続するために出来たといわれる教え。
だが、二章以降――その聖典に記されている”エルム様”の教えは、全て、見覚えがある物ばかり。
迷い、嘆く人々は、誰かに助けを求めて”手”を伸ばすこと。その”手”を取り、助け合うことが大切だが、互いに余裕がない者同士では、それが難しいということ。その”手”を無償で取ることが出来るのは――
「”神”――ですって……?よく、言うわ……!それは、君主の仕事よ――!」
ミレニアは吐き捨てるように言う。
自分が敬愛する父から教わり、大切にしてきた矜持を、得体のしれない生命体の言葉として伝えられていることが悔しい。
クルサールと、幾度となくかわした議論が思い出され、歯噛みする。
最初から――彼は、それが目的だったのだ。
”黒玉の君”の噂を聞いたクルサールは、きっと、自分が理想とする”神”の教えに最も近い思想を持つのがミレニアだと思ったのだろう。
効率よく、自分が民衆の支持を得るために――ギークの政権を批判し、真の政治とはどうあるべきかを”神”の言葉として語ることで、クルサールこそが次の君主にふさわしいのだと思わせるために、ミレニアに近づいた。
当時、”黒玉の君”として、民衆の間で支持を得ていたことが、クルサールの行動を後押ししたのだろう。――ミレニアの思想と行動は、この疲弊した国民たちに、何よりも甘美に受け入れられるという実績があったのだから。
「っ――!」
バタンッと音を立てて分厚い装丁の本を閉じる。――胸糞が悪くて、最後まで読むことが出来ない。
(本当に――”稀代のペテン師”だったわね、クルサール……!)
この聖典を読み、ここに書いてある行いこそが正しく素晴らしいのだと妄信し、励行する民は――さぞや、治めやすい国民になってくれるに違いない。
一人一人が、君主がなすべきようなことを、自分のできる範囲で周囲に行っていく。聖典という形で広めれば、口伝で広めるのと違い、解釈の異なりは生まれにくい。時代や場所を経ても、教えの形が変わることもないだろう。
そして、宗教という形で広めれば――責任の所在はすべて、”エルム様”だ。
クルサールはあくまで、神の声を聴いて、その通りに行動しているだけ。彼の意思で行動しているわけではないのだ。仮に今後、クルサールの言動に矛盾が生じたとしても、それは"エルム様"のせいであって、クルサールのせいではない。個人の革命家であれば糾弾されることも、"エルム様"を隠れ蓑にすることで、クルサールは巧みに糾弾を逃れる。
(民からの糾弾を受け入れる覚悟もないくせに、偉そうに君主論を語るのね…!)
ぐっと硬く拳を握りしめる。語る言葉はミレニアが理想とする思想だったとしても、その君主としての姿勢はミレニアとは相容れない。
酷く苦い気持ちで、ミレニアは噴き出す黒々とした気持ちを飲み下したのだった。




