107、運命の夜①
その日は、外から見れば一見、いつも通りの一日だっただろう。
紅玉宮の従者たちは、いつも通りに働いていた。――その実、ミレニアとロロだけは夜に供えて、昼間しっかり寝入っていたのだが、それを外に悟られぬよう、とにかくいつも通りに動き続けた。
そして、ミレニアは夕方ごろに起き出して、軽く湯浴みをしてから少し早めの夕食を取り、部屋へと戻る。
レティが手伝ってくれた身支度は、その昔、マクヴィー夫人が紅玉宮に誰もいなくなっても独りで着られるようにとプレゼントしてくれた、市井の民が身に着けるような簡素なワンピース。髪も、美しさではなく機能面を重視して一つに結い上げてくれた。極めつけに、夜の外気に触れても大丈夫なようにと、少し厚手の外套を纏わせてくれる。
「ありがとう、レティ。――下がっていいわ」
「はい。……ミレニア様。どうか、ご無事で」
「えぇ、貴女こそ。必ずエラムイドに迎え入れるから、少しの間、待っていてね。また、必ず一緒にお茶をしましょう」
ぎゅっと手を握って、束の間の別れを惜しむ。レティの菫色の美しい瞳は、暗がりでもわかるくらいに潤んでいた。
涙目のまま礼をして、レティが退室する。しん……と昏い部屋に静寂が落ちた。
「…………」
ドキドキと、心臓が緊張に早鐘を打つのがわかる。そっと心音をなだめるように、首元の紅い首飾りへと指を触れさせた。
いつだって、自分を守ってくれた、紅玉の首飾り。
身一つでいい、と言われたけれど、どうしてもこれだけは荷物に紛れ込ませることなく、肌身離さずつけていたいと無理を言った。
(外に出しては目立ってしまうでしょうけれど……ロロのように、服の中に入れていれば、問題ないわよね……?)
チャリ……と金の鎖を引っ張り、服の下へと仕舞い込む。その上からぎゅっと抑えて、緊張をほぐすように大きく深呼吸をした。
今日――祖国を、後にする。
他国へ嫁ぎ、他国から、この国を救う手立てを考えるのだ。
まずは、<贄>の制度の真実を公にすることだ。早くエラムイドに慣れて、その土地の民の生活を知って、クルサールが考えてくれているという皆が納得する方法というのを一緒に考えて、一刻も早く、エラムイドもイラグエナムも、魔物の恐怖から解き放ちたい。
(ロロが騒ぎを起こすまで、部屋で待機していればいいのよね……?あぁ、手持無沙汰で緊張するわ……)
ぎゅっと首飾りを握り締めて、ドキドキする心臓を必死になだめる。
これから数日、ロロとも別行動になる。――きっと、それも、緊張の理由の一つだ。
五年前、初めて出逢ったあの日から――数日も顔を合わせず離れていたことなど、一度もない。
「大丈夫――……」
言い知れぬ不安が胸を覆いそうになって、思わず口に出して自分に言い聞かせていると――
「――――ぇ……?」
ふわり……
見覚えのある光が、視界の端を横切った。
「!」
バッとそちらを見ると、それは確かに、空中に浮かんでいる。
五年前に、初めてあの美しい青年の元に導いてくれた”幸運を運ぶ妖精”に違いなかった。
「ぁっ――待って!」
ふぃ――
空中に浮かぶ不思議な光の粒は、いつものように唐突に、ミレニアを誘うように明滅した後、迷うことなく部屋の外へと出て行った。
咄嗟に、それを追いかける。
――五年前から、決めていた。
この不思議な光の粒にだけは――何があっても必ずついて行くのだ、と。
ガチャリ、と扉を開けて廊下へと踊り出る。しん……と静まり返った廊下は、十五年間見慣れたはずなのに、なぜかやけに不気味に感じられた。
ふよふよと浮かぶ光の粒は、ミレニアが部屋を出てきたことを確認するかのように留まっていたかと思えば、すぃっと再び迷いなく進み始める。
「待って――!」
一瞬戸惑うが、まだロロが騒ぎを起こすまでは時間があるだろう。光を追いかけて、ミレニアは馴染んだ廊下を走った。
パタパタと小柄な足音が響く。いつものヒールではなく、走りやすい平たい靴は、ふかふかの絨毯を踏みしめた。
(あら……?この方向は――)
光は、ミレニアを誘うように魅了しながら、つかず離れず、決してミレニアが光を見失わない距離で先導する。
進んでいく光の方向に見覚えがあり、ミレニアは軽く首を傾げた。
とにかく、ついて行こう――そう決めて、光を追いかけ続けて――
「ぁ――……」
光がある部屋の前で止まり、パッとはじけて消えた。
ここが目的地、ということだろう。
「――……何故……?」
ミレニアは不可思議な現象に思わず扉の前で首をひねる。
そこは、ミレニアの専属護衛に割り当てられる部屋――ロロの私室に他ならなかった。
(ここに、誰かいるのかしら――?)
首をかしげながら、とりあえずドアを叩いてみようとして――
ガチャッ
「――!?」
「動くな――!」
中から急に扉が開かれ、飛び出てきた男が剣を首筋に突き付けた。驚きすぎて、一瞬呼吸が止まる。
紅い瞳に殺気を纏って出てきた男は――相手がミレニアだと気づいて、驚いたように目を瞬いた。
「姫――!?どうして、ここに――」
「ひ――……ぅ……」
「っ……!すみません――!足音が聞こえたので、つい……」
黒衣の護衛兵は、青ざめている主に気づいて慌てて剣を下げる。へた……と思わず腰が抜けて、廊下に座り込んでしまった。
ロロの本気の殺気を受けて、恐怖と安堵にはくはくと蒼い唇で息を吐くミレニアに、申し訳ない気持ちで落ち着かせるように背中をさする。
「どうされましたか……?何か、計画に変更でも――?」
「っ……」
バクバクと心臓が鳴りやまず、上手く言葉が紡げない。ぶんぶん、と頭を横に振って何とか否定の意を表す。
「それでは、何故――?第一、ジルバはどこに……?今日はアイツが護衛担当だったはずです」
「――――」
言われて、はたと思い当たる。
血の気が引いた顔のまま、バッと思わずロロの顔を見上げた。
不思議な光に導かれて、自室を出たときに一瞬感じた、不気味な違和感――
それは、いるはずのジルバが、そこにいなかったという事実。
(なんで――……?)
夕食を食べ終わり、レティと最後の身支度と別れを済ませている間、ジルバは万一に備えてぐるっと紅玉宮の屋内を回ってから部屋に来ると言っていた。その後、ロロが騒ぎを起こしたら、クルサールに引き渡すその瞬間までを、彼が護衛するはずだった。
敷地内全てを見回りに行ったわけではないならば、レティとの別れを済ませて光を見つけるまでの時間で、十分に戻ってこられたはずだ。
「もしかして――いない、のですか……?」
すぅっとロロの視線が厳しくなる。こくこく、と頷くと、ロロは一瞬で纏う空気を尖らせ、ミレニアを支えて立ち上がらせた。
「姫。――歩けますか」
「ぇ……えぇ……なんとか……」
やっと落ち着いてきた鼓動と呼吸の合間に、絞り出すようにして返事をする。
「良かった。――何か、異常事態が起きているかもしれません。俺の後ろについて、決して離れぬようついてきてください。不安で足元がおぼつかないなら、マントを握っていてもいい。……俺が、あの男のもとまで護衛します」
「えぇ。頼むわ、ロロ」
すぅ――と音もなく双剣を抜いた護衛兵のマントを、縋りつくようにぎゅっと握る。鍛え抜かれた広い背中が、異常なほど静かな屋内でも、ミレニアに安心感を与えてくれた。
(おかしい――……やけに、静かすぎる……)
今日は、ミレニアの逃亡計画の当日だ。当然、従者たちは皆、計画を知っているはずだった。
誰も彼も、ミレニアを至上の主と頂く奴隷ばかりで、決して逃亡計画が露見しないよう、細心の注意を払ってきた。今日も、表向きには普段通りの生活をしていると思わせるため、通常通りの勤務シフトで各自仕事にあたっていたはずだ。本来であれば、今も彼らの気配がそこかしこにあってしかるべきだった。
しかし、今――紅玉宮の中に、その気配が不自然なまでにない。
(奴隷たちが、姫を裏切るとは考え難い……何か、不測の事態があったとしか思えない)
ロロは、ぎゅっと双剣を握り締めて、クルサールとの合流地点へと慎重に歩を進めていく。
「ロロ……?ど、どこへ向かっているの……?」
「従業員用の裏口です。姫は通ったことがないでしょうが――何か、異変が起きているとしか思えない。最短ルートで、合流地点の裏庭に向かいます」
本来であれば、ミレニアは騒ぎが起きたのを確認してから、中庭に続く出口からするりと抜け出て、裏口へと向かうはずだっただろう。だが、万が一、何か異変が起きているとすれば、当初の予定通りのルートを取るのは危険だ。敵の待ち伏せの可能性もある。
高貴な身分であるミレニアが使うことなど考えられていない従業員用の裏口は、近くに従業員たちの控室もある。こんなにも不自然に静まり返っている理由もわかるかもしれない。
そんなことを考えながら裏口へと向かっていくと――それを発見して、ロロは思わず足を止めた。
「ろ、ロロ……?どうし――」
急に歩を止めて動かなくなった護衛を不思議に思い、そっと伺うようにロロが眺める先を見る。
「な――!」
思わず、絶句した。
視界の先には、裏口があった。従業員用に作られている、粗末な建付けの簡素な扉。
その内側に――頽れるようにして、何人もの奴隷たちが、夥しい量の血を流しながら倒れていた。
(なんだこれは――!)
ぞくり、と黒衣の下の背筋を嫌な汗が伝っていく。
おそらく、倒れているのは従業員控室にいたであろう従業員たちだ。彼らが総出で、満身創痍になりながら、裏口の扉の前に折り重なるようにして倒れ伏している。
まるで――その身体で扉を守る、肉のバリケードのように。
「ぅ……」
「!っ――ジルバ!」
「姫!お待ちください!」
手前で倒れていた男が、小さく身じろぎしたのを見て、ミレニアは名前を叫びながらロロの背中から飛び出す。慌てて追いかけ、不意の敵襲に供えて神経を最大限に尖らせた。
「ジルバ!――ジルバ、しっかりなさい!」
「ぅ……ぐ……」
ミレニアが身体を引き起こす。レティが着せてくれた外套にべったりと紅い血潮が付着していったが、構っている余裕などなかった。
「酷い怪我……!すぐに傷口を――!」
「っ……逃……げ、ろ……」
手当をしようとしたミレニアを制するように身じろぎして、苦悶に呻きながらジルバは言葉を絞り出す。
「何があった――!?」
ロロが鋭く問いかけた。
ジルバの布のランクは、赤だった。この皮肉屋で従順とは言い難い性格のせいで、万年赤布に甘んじていただけで、実力だけで言うなら、青布を付与されてもおかしくないくらいの強さだったことを、何度も対戦したロロは知っている。
動きの読みづらい三日月刀の曲芸のような剣筋も、軽業のような身のこなしを助ける風の魔法の扱いも、嫌になるくらい見事だった。
その彼が――こんな致命傷を負う敵襲とは、一体どんなものなのか。
(傷口は、剣――魔物じゃ、ない――!)
サッと視線を走らせれば、頽れている奴隷たちも皆、剣で襲われたような傷跡ばかりだ。
だとすれば――なおのこと、わからない。
青布に匹敵するほどのジルバと、ミレニアのためならば命すらなげうつ奴隷たちに、これほどの傷を負わせた敵とは、いったい何者なのか――
ドンッ
「「――――!」」
裏口の扉が、外から何か重たい衝撃によって揺らされる。
ドンッ ドンッ
「な……何――!?」
「っ……!」
やはり、頽れた奴隷たちは、最後の最後――命尽きるまでここで、ミレニアの命を守ろうと、肉のバリケードを築いていたらしい。
粗末な扉を打ち破ろうと、何かの衝撃が外から加えられているようだった。
「聞け……二階、の……レティ、の部屋――」
「!」
ジルバが、ロロの胸元を乱暴につかみ、引き寄せながら呻く。
「窓から、風の……道を……作った……!消える、前に、そこから――」
「わかった!」
血の匂いのする吐息交じりの言葉に頷き、ミレニアの手を引く。
「ロロ!皆が――」
「っ……今は、こちらへ!」
「でもっ……!」
後ろ髪惹かれるミレニアに、ジルバはふっと片頬を歪めて、いつもの皮肉な笑みを作った。
「大丈夫、さ……嬢ちゃん……あんたを守るのが、俺らの仕事――」
それは、強がり以外の何物でもないだろう。
ずるり、と壁に身体を預けるようにしながら、ゆっくりと相棒の三日月刀を手に立ち上がる。
「そこの伝説の奴隷とやり合って死線をさまよった日に比べれば、こんな傷――どうってこたぁない、さ」
強がりも、ここまで来れば立派なものだ。大量の血を失って蒼い顔をしながらも、ゆらりっ……とおぼつかない足取りで、何とか重低音を響かせている扉に向かって三日月刀を構える。
「気を、付けろ……奴ら――おかしな、動きをする――!」
「っ……恩に着る――!加勢に来るまで、耐えてくれ――!」
ミレニアを抱え、ロロはかつての好敵手に背中を預け、踵を返して走り出した。
「へっ……いらねぇよ、んなもん。さっさと嬢ちゃん連れて、トンずらしてくれりゃいいんだ……専属護衛サンよ」
「ジルバ!っ……ジルバ、必ず生き残りなさい!いいわね!」
ミレニアの悲痛な叫びがこだまする。
ニィ……とシニカルな笑みが、奴隷紋が刻まれた左頬に浮かんだ。
「女神様の鼓舞付きたぁ、やる気が漲るねぇ……俺のクソみたいな人生も、捨てたもんじゃぁなさそうだ」
クッ……と喉の奥で嗤って、失血多量でふらふらする頭に無理やり活を入れる。
ドンッ ドンッ
足元に転がり、頽れている奴隷たちは、息があるものが半分――既に息絶えてしまったであろう者が半分。
その全員が、ミレニアのために、ここで命を終えて肉の盾になることを選んだ者たちだ。
「さぁて――こちとら、分不相応な名前もらってんだ。百年前の英雄の名に懸けて、こっから先は、通さねぇぞ……!」
ギラリ、と普段の飄々とした空気からは信じられぬほどの凄絶な光をその瞳に宿し、ジルバは迫りくる脅威に愛剣を構えるのだった。




