104、<贄>の秘密⑦
最近眩いばかりだった春の日差しは厚い雲の奥へと隠れている。少し肌寒く、今にも降り出しそうな曇天の下、ロロは紅玉宮の一画へと足を向けた。
こういう天気の日は、どうにもあの悪夢のような夜を思い出す。まるで感傷に浸るかのように、ロロは『勇敢な守り人』と名付けられた墓標の前に佇んだ。
同じことを考えた者がいたのだろうか。墓標の前には、彼の髪色を思い起こさせるような黄色い花が手向けられていた。
肌寒い春の静寂の中に、ペキッ……と枯れ木を踏む音がして、鋭い視線を背後へと投げる。
視線の先には、シャンパンゴールドの華やかな髪をした青年が、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「何の用だ」
「いえ、別に。……決行の日まで、あとひと月ほどですからね。貴方に教えてもらった逃走経路を、実際にこの目で確かめておこうと歩いていたら、見慣れた背中が見えたもので」
しゃあしゃあと嘯く青年に、いつもの得体のしれない不快感が押し寄せる。
相手にわからない程度に片目を眇めてそれをやり過ごし、ロロはクルサールから目を離した。
「それが、ミレニア姫が、絶対にエラムイドに持っていくと頑として譲らなかった少年の墓ですか」
「……あぁ」
言葉少なく同意の声を漏らす。
ミレニアがクルサールの求婚を受け入れたときに出した条件のうちの一つだ。
紅玉宮にいる元奴隷の従者たち全員をエラムイドに連れていくこと。
その中には――墓の中に眠るディオも、しっかりと入っていた。
彼を置いて行くことは出来ない、置いて行けと言うならエラムイドには赴かない、とミレニアは決して譲ることはなかった。
それ故クルサールは、まずはミレニアの身柄だけを先んじてエラムイドに逃がすことになるが、後から必ず逃亡に協力した元奴隷の従者と、ここに造られた墓の主をエラムイドに移送すると約束したのだった。
「奴隷に墓を作るなど、異例のことだと聞きましたが――さすがはミレニア姫。素晴らしい人格者ですね」
「……」
「死した者との記憶は、実際の物よりも美化されて心に残ると言います。……きっと、この墓に眠る少年も、ミレニア姫の心に深く根を張り、居座り、誰よりも甘く、切なく、永遠に彼女を優しく苛むことでしょう」
「――何が言いたい」
ギロリ、と紅い瞳がクルサールを睨む。空気が自然と尖るのを、抑えることは出来なかった。
「一般論を言っているだけですよ」
相変わらず、感情の読めない張り付けたような笑顔を見せて、クルサールは言ってのける。
「私たちが信じる死後の世界と、帝国民が信じる死後の世界は異なる。私たちの信仰では、善良な魂を持った者は、死後、魂が天に上り、死後の世界で生の苦しみから解放されて暮らすのだと言われています。逆に、悪の魂を持った者は、天に上ることが出来ず、地下深くにある地獄に閉じ込められる、と」
「…………」
「ここに眠る少年は、どちらに行ったのでしょうね?……安らかに、天に昇れていることを祈るばかりです」
言いながら、彼らの宗教にのっとった形式なのだろう――額の前で何かの印を切ってから、瞳を閉じて墓標に祈りを捧げる。
たっぷりと時間をかけて祈りをささげた後、紺碧の瞳がロロを振り返った。
「そういえば――貴方は、『騎士』という存在をご存知ですか」
「……聞いたことくらいは」
すぃっと紅い瞳が左下に移動したことなど気にも留めず、クルサールは言葉を続ける。
「その昔――まだ帝国もエラムイドもなかったような、本当の太古の時代――人々が身を寄せ合い小さな集落で暮らしていた時に実在していた、身分だと言われています」
「……」
「今の『貴族』と呼ばれる身分の前身だと言われている『騎士』ですが――実態は、今の貴族とは全く異なるものだったとか」
言いながら、紺碧が再び墓標へと縫い留められる。
「それは、己の信念に従い、己が定めた人物を絶対の『主』と仰ぎ、全身全霊を掛けて、主と主の家族と屋敷を守り抜く。主の報酬を目当てに働くのではなく、本人の高潔な信念に従い生きる。主は、報酬として、金だけではなく、唯一無二の主に仕えることが出来る『誇り』を与える――そんな、高潔な主従関係だったようです」
「……そうか」
「主はそのうち王となり、騎士はそのうち、貴族となった。……ですが、王が貴族に与えたのは『誇り』ではなく領地と民。そのあたりから、徐々に貴族の中から高潔な騎士の精神は失われ、今や完全に腐敗しきった貴族社会が出来上がりました。……私の国では、『騎士のようだ』という褒め言葉は、金や権力に媚びることがない者を差し、『神の行いを正しく世に広める高潔な者』という意味で使われます」
クルサールは、そっと墓標に手を当てる。
「この少年の話は、ミレニア姫に聞きました。ここに眠るのは、まさに『騎士』と呼ぶに相応しい。……己の信念に従い、たった数刻、時を共にしただけの少女を絶対の主と頂き、命を擲った。――なかなか出来ることではありません」
「……そうだな」
「――貴方は、ミレニア姫の『騎士』になれますか?」
ザァ――
春の風が吹きすさび、墓標に供えられた黄色い花を揺らしていく。
「……どういう意味だ?」
表情を揺らすことなく、風が収まるのを待ってから、ロロは静かに問いかける。
「いえ。他意はないのですが――ミレニア姫は、貴方を酷く買っているようでしたので」
ふ、と金髪の美青年が口の端に笑みを刻む。
感情を読ませない、完璧な笑顔。
「神の行いを体現するミレニア姫こそ、私の伴侶として相応しい――それは今も変わらぬ思いです。ですが、彼女は、貴方の前では時折”人”のようにふるまうことがある」
「…………」
「私の大切な方を、俗世に塗れた価値観に染めることは避けたい――……貴方には、ぜひとも彼女の『騎士』として生きて、死んでほしいと、思っていますよ」
それは、クルサールなりの牽制だったのだろう。
ロロは、左下にすぃっと視線を移動させ――
「言われなくても」
ぽつり、と一言、端的に返事を返しただけだった。
◆◆◆
クルサールが来ていることを知ったミレニアは、少し時間を取れないか、といって彼をティーセットが並べられた応接室へと通した。いつもの柔和な笑みを浮かべて快諾した彼は、先ほど墓標の前でロロを牽制したことなど微塵も感じさせない様子で、にこにこと笑いながらミレニアを見ている。
「お招きいただき、ありがとうございます。計画は順調に進んでいますか?」
「えぇ、おかげさまで。ロロがよく働いてくれますの。ねぇ、ロロ?」
「は……」
目を伏せて、いつもの定位置で軽く頭を下げる。
クルサールとの情報連携は万全だ。一番使えそうな逃走経路はもちろん、不測の事態が起きたときの予備の経路までしっかり話し合っている。軍務に赴くたびに少しずつ軍人たちについて探り、彼らの勤務体系について当たりを付けて調べを進めれば、どのタイミングで交代が起こり、どんな順路で見回りをするのかがわかってきた。
「当日、ミレニア姫を抱えて走るような事態が起きないことを祈るばかりですね」
「まぁ。……ロロ、お前、余計なことを言ったわね」
「……事実と懸念点をお伝えしただけです」
恨めし気に振り返る主に、視線を外して答える。ミレニアに運動の才能がからきしなことを伝えたのが、どうやら不服らしい。
逃亡計画では、最初の数日はロロとは別行動になる予定だった。その間、ミレニアの身に万が一が起きたときの懸念を、ロロはしっかりと伝えていたにすぎないのだが。
計画では、ミレニアの誕生日の夜、まずはロロが逃走経路と真逆の位置で火の手を上げ、騒ぎを起こす。集まってきた兵士たちを相手に衆目を引き付けている間に、ミレニアはこっそりと部屋を抜け出し、クルサールと合流。非公式の抜け道を通って二人で城の外に出て、クルサールの手引きで引き入れたエラムイドの従者たちと合流し、ミレニアを引き渡す。クルサールは城の中に取って返し、ロロが引き起こした騒ぎに乗じてミレニアが逃げたと言う情報を流す。二つ目の情報で混乱が極まる中、ロロは追っ手を振り払い、独りで城を抜け出す。
従者に引き渡されたミレニアは、荷馬車の荷台の中に隠れるようにして帝都脱出を図る手はずになっていた。荷台に積みこむ荷物の半分は、ミレニアの逃亡生活で必要になるであろう着替えなどだ。事前にクルサール経由で従者の手に渡るように手配されているため、当日は身一つで逃げればいい。
「荷馬車に隠れる、だなんて……まるで演劇の中のお話ね」
「しばらく狭く苦しい体勢をお願いすることになりますが……ご容赦頂ければと思います」
「ふふ、大丈夫ですわ。初めての経験で、少し、楽しみなくらいだもの」
軽やかに笑うミレニアはどこか楽し気だ。
(追いかける途中で、いくつか森に埋めた必要物資を回収していけば、追っ手の目くらましにもなって一石二鳥だ)
ロロが逃げる方向がミレニアが逃げる方向だと思い、追いかけてくる兵士がいることだろう。脇目もふらず東の森に入って行くロロに、たたらを踏んでくれれば儲けもの――構わず追いかけてこようと、きちんとした装備や軍隊編成もなしに、身一つで魔物の巣窟に入り込んで切り抜けられるような男など、ロロ以外にはいないはずだ。
翌日以降に軍を編成して東の森を探すころには、ミレニアを乗せた荷馬車は帝都を脱出しているだろうし、ロロ自身もさっさと取る物を取れば東の森を後にして、ミレニアを追いかけて合流地点を最速で目指す。
合流すれば、そこから先は、つかず離れずの位置で護衛に当たればいい。万が一の事態が起きても、必要物資を持っているロロが、ミレニア一人を抱えて馬を走らせれば解決だ。その場合、荷馬車に遭ったはずの着替えだのなんだのは、途中で買いそろえながらエラムイドに向かうことになるだろうが。
「今日も、逃走経路をこの目で確かめてきました。こちらの準備も万全ですよ。あとは、決行の日を待つばかりです」
言いながら、用意されたカップに手を伸ばし、クルサールは温かい湯気を湛える紅茶をこくりと一つ飲み干す。
「あとは、ミレニア姫。貴女の”やり残したこと”の進捗次第ですが――いかがでしょうか?」
湯気の向こうで、穏やかな微笑が作られる。
ミレニアは、こくり、と一つ頷いて、持ってきた紙の束を机の上にどさり、と乗せた。
「我儘を言ってしまい、申し訳ありませんでした。――ですが、おかげで、調査は一つの解を見出しました。これがその報告書になります」
「ほぅ……これはこれは。我が国でも、<贄>の研究資料としてここまで膨大な量を一人で集めた者はいないのではないでしょうか」
クスクス、と笑いながらクルサールはそっと紙の束に手を伸ばす。
「拝見しても?」
「勿論。――貴殿の国の存続にも関わる、大事な調査記録ですから」
余裕の笑みをたたえる青年に、こちらも余裕の笑顔で対応しながら、ミレニアは胸を張って紙束を渡す。
クルサールはずっしりと重いそれを手に取り――表紙を見て、色を失った。
「――――な――」
いつも、完璧な笑顔を湛えている青年から、全ての表情が抜け落ち、青ざめる。唇が中途半端に開き、意味のある言葉を紡げないでいるクルサールの代わりに、ミレニアはそっと報告書の表題を諳んじた。
「――未発見の魔法属性”光”と<贄>の伝承についての考察と検証――」
鈴を転がすような美声が響く。
――歴史が、動き始めていた。




