103、<贄>の秘密⑥
パラパラと紙を捲る音と、羽ペンのペン先が紙を引っ掻く音がする。
「これが……こっちで……あぁ、違うわね……もっと……」
ぶつぶつと独り言を繰り返しながら、ミレニアが左手で捲っているのは、ロロがラウラから入手した、エラムイドに伝わる<贄>の伝承。既に何度も読み込まれたらしい形跡の見受けられるそれを、さらに何度も捲りながら、ミレニアは必死に考えを纏めていく。
しかし、先ほど慣れないダンスをしたせいだろうか。しばらくすると、時折舟をこぐようなそぶりが見受けられるようになってきた。
「……姫。今日は、もう、お休みになった方が」
「ん……待って……もう少し……もう少しだけ……」
左後ろから控えめに声をかけるロロに、眠そうな甘い声で抵抗する。
「エラムイドの”神”……クルサール殿……の、言っていた……エルム様……」
湯浴みをして、寝支度をしっかりと整えたミレニアは、今日ばかりはすぐに休むかと思ったが、いつも通り書斎へと足を向けた。主の気概に嘆息しながらも、ロロはその行いに否を唱えるつもりはない。髪も解かれ、ショールを肩に引っ掛けただけの、いつもと同じ無防備な姿のままで机に向かう背中を眺めながら、じっと控えるだけだった。冬の真ん中で、少女が風邪を引いてはいけないと、暖炉に少し魔法を足して、さりげなくいつもよりも温かく部屋を保つくらいのことしか出来ない。
しかし、ぬくぬくとした室温もまた、ミレニアの眠気を誘う要因となってしまったのかもしれない。先ほどから、舟をこぐペースが頻繁になりつつある。
(これは……寝落ちるのも時間の問題だな)
数度、切り上げるように声をかけたが、ミレニアは頑なだった。ロロは嘆息して、三回目の声をかけたあたりで、今日も寝落ちたミレニアを寝室へ運ぶ覚悟を決める。
「”神”の奇跡――……”神”の化身と言われた……<贄>……効果は……」
呟かれる言葉の繋がりはロロにはわからない。おそらく、神童と呼ばれた少女の頭の中では、意味のあるつながりがあるのだろう。
しばらくして、かくん、とひときわ大きく頭が揺れて、机へと突っ伏す。そのまま、起き上がることなくピクリとも動かなくなったのを見て、ロロは小さく嘆息した。
「……姫……?」
少し近寄って、期待せずに声をかけると、案の定すー……という聞き覚えのある寝息が返ってきた。
「やれやれ……」
口の中で呟きながら、視線一つで暖炉の中の火を消す。ふと外を見ると、どうやらいつもよりだいぶ早い時間だ。よほど疲れていたらしい。
(紅玉宮からの逃走後は、姫の体力に気を配らないとな……少しでも体力をつけていただくように、普段から何か運動の習慣を付けるよう、レティにでも頼んでみるか)
胸中で呟きながら、ミレニアの肩に手を置く。細く頼りない、小柄な肩だった。
「……失礼します」
言いながら、そっと身体を抱き寄せるようにして椅子から己の腕の中へと移動させ、持ち上げる。羽のように軽い身体は、本当に中身が入っているのかと心配になるほどだ。
「ん……」
抱き上げられると、寝心地の違いに気づいたのだろうか。ミレニアは腕の中で小さく呻いた後、無意識にロロの胸へと甘えるように顔を寄せる。
安心しきった寝顔は、いつものように全く起きるそぶりの一つも見せない。
「……油断しすぎだ」
ぼそり、と口の中で呟いてから、いつものように寝室へと続く扉を開ける。
満天の星空の下、デビュタントダンスをした。――少女が、もう、この国では成人女性として認められた証。それなのに、こうして男の前で無防備な姿のまま寝姿を晒すなど、無防備にもほどがある。
まして、何度も――気を持たせるような発言を、繰り返しておいて。
「――――……」
暗い寝室に入ると、明暗の差のせいか、紅い瞳が微かに揺れる。
耳の奥で、ミレニアの言葉が蘇った。
『私は、お前と踊りたいの。他でもないお前と、この曲を、踊りたいのよ』
『ありがとう、ロロ。――おかげで、決して叶わないと思っていた夢の一つが、叶ったわ』
『でも、そうね。どうせ叶えてくれるなら、もう一つの夢も――このまま、口付けをしてくれてもいいのよ?』
ぐっと奥歯を噛み締めて、いつかと同じく、不意に腹の底から込み上げてきた灼熱を飲み下す。
「人の気持ちも――知らないで」
口から溢れたのは、怨嗟に近い呻き声。飲み下したはずの灼熱が、言葉の端に宿っていた。
唇を噛みしめて、熱が外に逃げ出さぬようにしながら、そっと少女をいつものように寝台へと横たえる。小柄な体を受け止めて、キィ、と小さくスプリングが軋んだ。
『お前が幸せになりたいと思って行動する全てのことは、正しいことなの。誰が何を言っても関係ない。誰にもそれを止める権利などないのよ』
(違う――……)
脳裏に過る声に、心の中で反論する。
”女帝”の顔で、優しく告げられた言葉は、ロロにとっては絶望に等しい。
「……止めてください……俺の幸せを想うなら……俺がどこに行こうとしても――全霊を持って、止めてください……」
そんなことは、天地がひっくり返っても決してあり得ないが――それでも、ロロのことを幸せにしたいと思うなら。
ロロがミレニアの元を離れようとするなど、それはきっと、ミレニアのためを思って仕方なく、断腸の思いで決断したことなのだ。そこから先の人生を全て、絶望の闇に閉ざされてもいいと――それ以上に得られるミレニアにとっての利が大きすぎると思うから、自分の幸福を全て差し出そうと、そう決断してのことなのだ。
謁見の間で行われた儀式の後、ゴーティスの申し出を受け入れるべきか悩んだのも。
――ラウラから受け取った二枚の用紙を捨てられないのも。
すべては、ミレニアを救うためだ。心は悲鳴を上げて、決して傍を離れたくないと慟哭するのを、理性で無理やり抑え込もうとしているだけに過ぎない。
ミレニアは、いつだってロロの前で理想の主でいようとする。決して手放さない、と口では嘯きながら、ロロの幸せのためなら、といって簡単に握っていた手を放そうとする。
そして――たった一人で、真夜中、悪夢に怯えて涙を流す。
『助けて――――ロロ――』
「っ……」
以前、ここに運び込んだ時に涙にぬれた声で言われた言葉が蘇り、ぐっと息を詰める。再び、どうしようもない灼熱が喉元までせり上がってきた。
”主”としてのミレニアと――”少女”としてのミレニア。
(駄目だ、口にするな、堪えろ――)
「姫――……」
いつも通り、すやすやと規則正しい寝息を立てている少女を前に呟く声音は、いつもの数倍熱っぽい。
五年前のあの日、不意に、奇跡のように目の前に舞い降りた少女。
自由と、宝物と、生きる価値を与えてくれた。
忌まわしいと言われた瞳を、美しいと言って何度も覗き込んでくれた。
そこらの男など比にならないくらい男前な性格で――そのくせ、不意に見せる蕩ける笑みは、国を傾けると囁かれるのも頷ける美しさで。
使えるべき主としての資質は完璧で――しかし、心の隙を衝かれると、自分の前でだけほんの一瞬、”少女”の顔を垣間見せる。
「っ……」
――――惹かれるな、という方が、無理な話だった。
(駄目だ――飲み込め――飲み下せ――)
喉元までせり上がってくる灼熱を飲み下そうと喉を嚥下させ、息を吐く。熱に浮かされたような、熱い吐息が唇から洩れた。
――愛しい。
――――――愛しい。
決して口に出来ない灼熱が、出口を求めて暴れ狂う。
(今更――何を馬鹿なことを……)
必死に己に言い聞かせる。
いつから、こんな、主に対して抱くべき感情ではない想いを抱いたのか、もう、思い出すことは出来ない。
だが、自覚する前から、わかっていたことだ。
この少女は、清らかな泉に住まう、雲上人で――自分は、地を這う汚泥に塗れた、虫けらで。
(何も期待などしていない……見返りも、何も、必要ない……)
既に、少女には数えきれないくらいたくさんの物をもらった。もうこれ以上、何も望むはずもない。
想いを告げることなど望んでいない。この想いが成就することなど、望んでいない。胸を焦がすこの灼熱は、腹の奥底に仕舞い込んで、墓場まで一緒に持っていく。――奴隷の身で、こんな邪な想いを胸に抱くことすら、これ以上ないほどの不敬だと、知っているから。
ミレニアには、いつも、笑っていてほしい。危険から一番遠いところで、幸せに、穏やかに、笑っていてほしい。
それは、住む世界の違う虫けらのような自分には、決してできない所業だ。
そういうのは――同じ、清らかな泉に住まう雲上人同士だから、叶えられること。
だから、せめて――
「従者としてでいい……傍に、置いてください……一生……死ぬその瞬間まで、ずっと……」
寝台の傍らに膝をつき、懇願するように首を垂れる。ぎゅっと、己の性分を思い出させるように、胸元の黒衣を握った。服の下に、少女の色をした宝飾の気配がする。
胸の奥底で燻っている熱は、決して表に出さないように気を付けるから。
生涯、ずっと、誰より従順な”従者”でい続けると誓うから――
――だから、どうか、愛しい女を、命を賭けてこの手で守る権利だけは、奪わないでほしい。
「ん……ふふ……」
寝息を立てていた少女が小さく呻いた後、ふわりと笑みの形を作る。
いつもの見慣れた笑み。――「仕方ないわね」と言って笑って見せるときの、表情。
「っ……」
たかが、五年。――たった、五年だ。
気持ちを堪えて押し込めた期間は、取るに足らない時間のはずなのに――
最近――まるで、もう、何十年もずっと、この気持ちを押し殺しているような錯覚に陥る。
「姫――……」
そっと身を屈めて、寝台に眠るミレニアの顔を覗き込むようにして顔を寄せる。
すー……といつもと同じ穏やかな寝息が響いていた。
『――このまま、口付けをしてくれてもいいのよ?』
悪戯な声が、耳の奥で響く。
――許されないことだと言うのは、知っている。
無かったことにしなればいけない感情。押し殺して、押し込めて、その熱の余韻さえ、本来決して外に出してはいけない感情。
だけどもう――何度嚥下を繰り返しても、喉元までせり上がった灼熱が、今すぐ外に出たいと暴れ狂っている。
(――今日、だけだ。今日、だけ――)
今日の主は、少し様子がおかしかった。
まるで――自分が、この美しい少女の愛を一身に受け取る男になったかのような、錯覚をした。
(だからこれは、今日だけ――彼女につられて、様子がおかしくなっただけ――)
眠る少女に顔を寄せる。はぁっ……と熱い吐息が漏れた。
「姫――」
そのまま――熱に浮かされた頭で、『口づけをしてもいい』と言った少女唇に己のそれを寄せる。
そ……と、音もなく静かに、二つのそれが重なった。
「――お慕いしております……」
唇を離し、至近距離から小さく囁く。
その瞬間、初めて外に出ることを許された灼熱が、もっと、もっとと胸の内で暴れ始める。
(これ以上ここにはいられない――)
口付けをした瞬間から襲ってくる罪悪感。少女の清らかで美しい天女のような唇を、穢れた奴隷が汚してしまったという自己嫌悪。
罪悪感をかき消すように、すっと眠る少女の唇を拭って、立ち上がる。
(――今日だけ、だ)
これから先、少女の傍に居続けても、もうこんなことをすることはないだろう。
今日、幻のように触れた唇の感触だけを頼りに、あと何十年――この命が尽きるその瞬間まで、己の灼熱を宥めていくのだ。
ぎゅっと胸元の黒衣を握り締めて、踵を返す。
再び喉を上下させれば、灼熱の気配も共に押し流されて、再び無表情の仮面の下の奥深くへと隠されていった。




