文久三年三月(三)
勇気をふりしぼって、以蔵様の部屋に向かう。
襖の前に座り、何度も深呼吸してから、声をかけた。
「失礼いたします、あの、お雪です……起きてらっしゃいますか?」
おそるおそる出した声は、ふるえてしまったけど、なんとか言えた。
だけど、答えはなかった。
行灯の灯りがもれてるから、起きてらっしゃるはずだけど。
もしかして、灯りをつけたまま寝てしまわれたのかな。
迷ってると、小さな声がした。
「……なんだ」
答えてくれたことに、ほっとする。
「申し訳ありません、あの、……少し、よろしいですか?」
「……ああ」
「ありがとうございます、失礼いたします」
深呼吸してから、襖を開けて中に入る。
以蔵様は、布団の上に胡坐をかいて座ってた。
「……申し訳ありません、もうお休みでしたか……?」
「……いや、起きていた。
……何か、用か?」
以蔵様は、答えてくれたけど、目はそらしたままだった。
それがやけに悲しくて、近づけなくて、襖の前に座る。
どうしてさけられるのか、聞きたかったけど。
ここに来るだけで、勇気を使いはたしてしまった。
でも、せめて、お礼だけはちゃんと言おう。
深呼吸してから、姿勢を正して、三つ指をついて頭を下げた。
「朝は、助けていただいて、ありがとうございました」
「……何度も礼を言われるようなことじゃない」
「でも、ちゃんと、言いたかったんです。
……お松さんから、聞きました。
お松さんから、わたしが一人ででかけたって聞いて、あわてて追いかけてくださったんだって。
本当に、ありがとうございます。
……稽古の邪魔をしてしまって、申し訳ありませんでした」
もう一度深く頭を下げて、ゆっくり頭を上げる。
以蔵様は、うつむいてじっと自分の手を見てた。
ふいに顔を上げて、わたしを見る。
「腕は、大丈夫だったか」
「え……?」
「あの時、男につかまれてただろう」
「……あ、はい、あの、平気です」
あの後確かめたら、赤くなってたけど、痛みはたいしてないから、平気だ。
「…………」
以蔵様は黙って立ち上がり、枕元の行灯をつかむ。
わたしの前まで歩いてくると、行灯を横に置いて、胡坐をかいて座りなおした。
「見せろ」
「……え?」
「腕をつかまれたところを見せろ」
「……あの」
じっと見すえられて、視線をさまよわせる。
さけられるのは悲しかったけど、今詰めよられるのは困る。
だけど、黙ったままじいっと見つめられて、根負けしてそっと袖をめくり、おそるおそる左腕を伸ばした。
つかまれたのは、肘より少し上のあたりだった。
行灯の黄色がかった灯りでは、わかりにくいけど、まだうっすら赤い気がする。
以蔵様はじっとわたしの腕を見つめた後、うつむいてぽつりと言った。
「悪かった」
「え……?」
腕を引いて袖を戻して、きょとんとする。
「何がですか……?」
「……おまえに、また、怪我をさせた」
「あ、でも、あの、これは、以蔵様のせいじゃありません。
以蔵様は、助けてくださいました」
あわてて言ったけど、以蔵様はうつむいたまま小さく首を横にふる。
「……稽古の途中で、おまえが来たのは、気づいていた。
声も、聞こえていた。
だが……気づかないふりをした。
一人で出るなと、今までさんざん言っていたのに、一人で行かせて、……怪我をさせた。
悪かった……」
「…………」
気づいて、聞こえて、たんだ。
じゃあ、どうして。
「……わたし、以蔵様に嫌われるような、何か、してしまったんですか……?」
おそるおそる言うと、以蔵様の肩がぴくっと揺れる。
やっぱり、嫌われちゃったのかな。
そう思っただけで、涙が出そうになって、ぎゅっと手を握りあわせてなんとかこらえる。
「違う、おまえが何かしたわけじゃない、俺が……」
言葉をとぎらせた以蔵様は、ため息をつく。
「…………昨夜、先生に、おまえの嫁ぎ先について相談された」
「え……?」
「……近いうちに、俺達は土佐に戻る。
危険だから、おまえを連れていくことはできない。
だから、おまえを預けていけるような、そしておまえが受け入れられるような相手として、どんな男がいいかと、相談された。
そのことを、いろいろ考えていて、……おまえに、どう接したらいいかわからなくなって、さけてしまった。
悪かった……」
「……っ」
いくつものショックに、言葉が出ない。
先生と以蔵様が、土佐に戻る。
連れていってもらえない。
誰かに、嫁ぐ。
土佐に戻ったら、捕らえられてしまうのに。
足手まといになっちゃうのはわかってるから、連れていってもらえないのは、しかたないとしても。
そのために、誰かに嫁げって言われるとは、思わなかった。
だけど、この時代は、成人も結婚も早い。
先生が結婚したのは二十歳だけど、お松さんは十六歳、お梅さんは十七歳で結婚して、何人も子供を産んで、三十六歳のお松さんにはもう孫がいる。
十九歳になったわたしは、結婚を考えたほうがいいってことなんだろう。
先生が、わたしのことを心配してくださるのは、嬉しい。
だけど、わたしは。
「……お雪」
そっと呼ばれて、びくっとして顔を上げると、以蔵様は、悩むような苦しそうな顔で、わたしを見てた。
「……もし、先生が、見知らぬ男を連れてきて、この男に嫁げとおっしゃったら、……どうする?」
「……っ」
うつむいてぎゅっと手を握りあわせて、必死にきもちをおちつける。
もし、先生が、そうおっしゃったら。
「……嫁ぎます」
「……先生の、ご命令だからか?」
「……はい」
「どんな男かわからない、酒を飲んだらどなりちらして暴れるような男かもしれない。
それでもか?」
まるでわたしを試すみたいな問いかけに、ぎゅっと唇を噛んだ。
「…………はい」
「……おまえは、まだ男が恐いんだろう?
大丈夫なのか?」
「…………平気、です。
それに、先生が選んでくださった相手なら、きっと、良い人だと、思います」
声がふるえないよう気をつけて答えると、以蔵様は、大きくため息をついた。
「おまえの『平気』は、信じない」
「え……?」
意味がわからなくて、おそるおそる顔を上げると、以蔵様は、なぜか悲しそうな顔をしてた。
「おまえの『大丈夫』は、気にならないという意味で。
おまえの『平気』は、我慢できるという意味だ」
「…………」
「さっき、腕の怪我について聞いた時、おまえは『平気』だと答えた。
だが実際には跡が残っていた。
半日経っても跡が残るほどなら、痛みもまだあるだろう。
なのにおまえは『平気』と言う。
だから、おまえの『平気』は、信じない」
「……っ」
だから、見せろって、言われたんだ。
そんなこと、自分では、全然気づいてなかった。
どうして、以蔵様は、気づいたんだろう。
「……でも、先生の、ご命令、なら……」
混乱しながらも言うと、以蔵様は小さく首を横にふる。
「先生は、おまえに我慢をさせたいわけじゃない。
だからこそ、俺に相談を持ちかけられたんだと思う。
だが……俺がいくら考えても、それが本当におまえにとって幸せなのかは、わからない。
おまえは、どんな相手なら、安心できる?
『大丈夫』だと言える?」
「……………………」
混乱続きで、まともに頭が動いてない。
ぼんやり考えて、思いついたことをそのまま言葉にする。
「……安心、できるのは、……先生と、以蔵様、だけです……」
「…………」
「だけど……本当は……」
「……なんだ?」
「…………嫁ぎたく、ない、です……」
「…………」
「今のまま、ずっと、先生と、以蔵様と、一緒に、いたいです。
先生のお世話を、させてもらいたいです。
先生の、お役に立ちたい、です……」
嫁いでしまったら。
わたしにできることは少なくなる。
この時代は、人の行き来はとても大変だから、土佐に戻られてしまったら、もう二度と会えないかもしれない。
まして、今土佐に戻ったら、先生は。
「…………もしも、歴史を変えることが、できなくて。
もしも、先生や以蔵様が、……亡くなって、しまわれるとしても。
わたしは、……一緒に、いたいです。
最期まで、ずっと、先生に、ついていきたいです……」
わたしを信じるって言ってくれた、わたしを守るって言ってくれた、わたしの味方だって言ってくれた、初めての人。
わたしにとっては、神様にも等しい、ううん、それ以上に、大切な人。
誰に嫁いだとしても、きっと、先生以上に大切には思えない。
それは、夫になる人にも、その人を選んでくれた先生にも、失礼なことだろう。
それでも、先生以上には、きっと無理だ。
「……昨夜先生に相談された話には、続きがある」
ためらいがちに言われて、ぼんやり視線を上げる。
「……なんですか……?」
以蔵様は、困ったような顔で目をそらして、ぼそぼそ言う。
「……俺が、おまえの夫の条件として思うことをお答えしたら、先生は、『その条件にすべてあてはまる相手を一人だけ思いつく。おまえだ、以蔵』と、おっしゃった。
弟子の俺の嫁なら、会うのを遠慮しなくていいし、土佐に連れていっても問題ない、いっそ自分の養女にしようかと、楽しそうにおっしゃっていた」
「え…………?」
あまりにも意外な内容に、頭が真っ白になる。
以蔵様の、嫁。
先生の、養女。
わたしが……?
身動きさえできないわたしから目をそらしたまま、以蔵様はひとりごとのように小さな声で言う。
「……俺は、先生に出会って以来ずっと先生を第一に考えているから、女に興味を持ったことはなかった。
深い仲になったとしても、俺が優先するのは先生だから、うまくいくはずがない。
むしろ、先生についていくには、女は邪魔だと思っていた。
だから、妻を持つ自分を想像できなくて、混乱して、おまえをさけてしまった。
なのに、おまえが一人で出かけたと聞いて、やけに焦った。
あわてて追いかけて、おまえを見つけた時は、ほっとした。
おまえにからむ奴らを、……殺したいと思った」
言葉を切って、以蔵様は自分の手に視線を落とす。
そういえば、あの男達は、以蔵様を見てやけに青ざめてた。
わたしは抱えられてたから、見えなかったけど、殺気を感じるほど恐い顔をしてたのかな。
「……おまえを、守りたいと思う。
だが俺は、守る剣は知らない。
殺す剣しか、使えない。
今まで、自分でもおぼえてないほどの命を奪ってきた。
それを後悔してはいないが、……血まみれの手でおまえを守ることは、結局はおまえを傷つけることになるだろう」
ぐっと拳を握った以蔵様は、何かを決心したような顔で、わたしを見た。
「おまえが先生と一緒にいたいなら、先生に殉じることになっても後悔しない覚悟があるなら。
俺の妻になるより、先生の養女になるほうがいい。
先生の養女になって、どこにも嫁がないですむように、俺からも先生にお願いしてやる。
先生は、このことに関して『命令』はしないから、自分で考えて決めろ、その答えを受け入れると、おっしゃった。
おまえが本気で望むなら、願いをかなえてくださるだろう」
「……………………」
強い力をこめて握られたままの以蔵様の拳を、じっと見つめる。
「……わたしは、剣のことは、わかりません。
でも、以蔵様の剣は、守る剣だと思います。
だって、敵の命を奪うのは、先生やご自分の命を守るため、でしょう……?」
刀を持てば、一振りで誰かの命を奪える、力強い手。
だけど、恐がるわたしの背中を撫でてくれた、優しい手。
「……以蔵様の手が、血まみれでも、かまいません。
わたしを守ってくれたからだって、わかってますから……」
以蔵様が誰かの命を奪うところを、実際に見たことはない。
だけど、見たとしても、きっとこのきもちは変わらない。
そっと、手を伸ばす。
以蔵様の拳に、おそるおそる指先でふれる。
以蔵様は、ぴくっとふるえたけど、わたしの手をふりはらおうとはしなかった。
「だから、……嫁ぐ相手が以蔵様なら、……嬉しいです」
『平気』でも、『大丈夫』でもなく、嬉しい。
だけど。
「……わたしの幸せを考えてくださって、ありがとうございます。
だけど、わたしには、以蔵様の妻にしていただく資格も、先生の養女にしていただく資格も、ないんです。
わたしは、この時代の生まれじゃなくて、武士の家系でもなくて、見た目子供で、グズで、馬鹿で、役立たずです。
歴史の知識で、ほんの少しお役に立てたかもしれないけど、それだけです。
なのに、このお屋敷でお世話になって、先生に後見人になっていただいて、以蔵様に守っていただいて、分不相応な幸せをもらってます。
これ以上何か望んだら、罰が当たります」
こっちに落ちてきて以来、いろんな人に優しくされて、忘れてしまってたけど、頭が真っ白になったおかげで、思い出した。
わたしは、親にさえ捨てられた、いらない人間なんだってことを。
生きてられるだけで幸せなのに、それ以上何かを望む資格なんてないってことを。
先生を慕うきもちは変わらないけど、それを先生や以蔵様に押しつけちゃいけないんだ。
「……だから、わたしは、京に残って、先生が選んでくださった相手に、嫁ぎます」
視線を上げると、以蔵様はまっすぐにわたしを見てた。
見つめ返して、ゆっくり笑った。
「先生と以蔵様が、無事でいてくださるなら、わたしは、『大丈夫』です」
先生と以蔵様が生きててくれるなら、それ以上何もいらない。
たとえ二度と会えなくても、二人の幸せを祈りながら、生きていける。




