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文久三年三月(二)

 朝から、なんだか以蔵様の様子がおかしい。

 会話がないのはいつものことだけど、なんだか、さけられてる気がした。

 何か、以蔵様の機嫌をそこねるようなことを、してしまったんだろうか。

 先生は『気にしなくていい』っておっしゃってたから、理由をご存知なんだろうけど、教えてくださらなかった。

 気にしなくていいって言われても、やっぱり、気になる。

 悩みながら、以蔵様が稽古をしてる奥庭をめざす。

 先月呉服屋さんに頼んでおいた生地が入ったって連絡があったから、受け取りにいきたかった。

 今日の以蔵様には、なんだか声をかけにくいけど、取り寄せるのに日数がかかってしまったから、今日中に布を取りにいって縫い始めたい。


 決心を固めて、建物の角から、そっと奥庭をのぞき見る。

 以蔵様は、いつものように上半身裸になって、木刀で素振りをしてた。

 もうだいぶあったかくなってきたから、飛び散る汗も多い。

「……あの、以蔵様」 

 おそるおそる声をかけたけど、素振りの重い音にかき消されたのか、以蔵様はふりむかなかった。

 いつもなら、声をかける前に気づいてくれたけど、今日は、わたしに気づかないほど集中してるみたいだ。

 決心がみるみる崩れてく。

 朝のことを思い出すと、もう一度声をかけてみる勇気はなかった。

 音を立てないようそっと歩いて、その場を離れる。

 攫われたらどうするっていつも心配されるけど、こっちに来てから外で攫われそうになったことはないし、一人でも、大丈夫だ。

 台所にいたお梅さんにでかけることを伝えると、心配されたけど、大丈夫って答えて屋敷を出た。



 屋敷から呉服屋さんまでは、わたしの足では、片道二十分ぐらいかかる。

 ズボンでスニーカーだったら、もう少し早かっただろうけど、着物で草履だから、よけい時間がかかってしまう。

 しかも、着物で歩くことにまだ慣れてないうえに、歩幅が小さいから、道ゆく人にもどんどん追い越されてしまう。

 でも、未来と違って、分刻みで行動しなきゃいけないわけじゃないから、人の流れを邪魔しないように気をつけながらも、のんびり歩いた。

 いつもなら、道沿いの店を見たり、すれ違う人の着物を観察したりもするけど、今日はなんだか、おちつかなかった。

 考えなくても、その理由はすぐわかる。 

 以蔵様が、いないからだ。 

 最近でかける時は、いつも以蔵様と一緒だったから、一人でいることにおちつかない。

 だけど、どうしてそんなふうに思ってしまうんだろう。

 前は、ひとりが当然だったのに。

 こっちに落ちてきて以来、いろんな人が優しくしてくれたから、贅沢になってしまったのかな。


 最初の頃は、以蔵様が、恐かった。

 本の中では知ってたけど、実際に会うと、『知らない男の人』だったから。

 月のものでめまいを起こした時や、部屋で押し倒された時みたいに、『男の人』だって思ってしまうと、恐かった。

 だけど、『以蔵様』は、恐くない。

 大久保様の使いの人から助けてもらった時も、恐い気配に飛び起きてふるえてた時も、以蔵様にすがると、安心できた。

 先生は、どんな時でも『先生』で、安心できる。

 だけど、以蔵様は、『男の人』に思えて恐い時と、『以蔵様』だと安心できる時がある。

 自分でも変だと思うけど、そうとしか言いようがない。

 どうして、なんだろう。


 考えこみながら歩いてると、横の店から出てきた人とぶつかりそうになった。

 あわてて身体を引く。

「すみません……」

「おおっと、なんだ、小さいかわいこちゃんだなあ」

 それは、浪人っぽい身なりの、若い男の人二人だった。

 まだ午前中なのに、お酒のにおいがした。

 二人が出てきたのは、小料理屋みたいだった。

 朝から、ううんもしかしたら昨日の夜からずっと、飲んでたんだろうか。

 思わず後ずさると、二人はにやにや笑いながら距離を詰めてくる。

 目の前に男の人二人に立たれると、わたしには壁みたいだ。

 横によけようとしても、同じように横に動かれて、通れない。

「……あの、すみません、通してください……」

 おそるおそる言うと、なぜか二人は大声で笑った。

「よし、おまえ、酌をしろ」

「ぇっ」

「あっちの店で飲みなおしだ、ほら来い」

「あっ」

 腕をつかんでひっぱられて、あわてて踏ん張ろうとしたけど、変な力がかかったせいか、右の草履の鼻緒がぷつっと切れる。

「きゃっ」

 足が滑って、ひきずられるように前のめりに倒れそうになったけど、腰に力がかかって、途中でふわっと体が浮いた。

「え……あ」

 びくっとして見上げると、わたしの腰を抱えてたのは、以蔵様だった。

 以蔵様はもう一方の手を伸ばし、わたしの腕をつかんだままの男の手首をがしっとつかむ。

 ぐいっとひねって、わたしの腕から男の手をひきはがした。

「い、いてでてで!」

 悲鳴をあげた男は、以蔵様にどんっと突きとばされて、連れの男にぶつかって、一緒に地面に倒れこむ。

「いってえな、何しやがる!」

 身体を起こした男達は、以蔵様を見たとたん、一気に青ざめた。

「失せろ」

「ひ、ひいぃぃいい!」

 簡潔すぎる言葉を投げつけられて、男達は悲鳴をあげながら逃げていく。

 その姿が人混みにまぎれて見えなくなって、ようやくほっと息をついた。


「……あの、以蔵様、ありがとうございました」

 おそるおそる見上げると、以蔵様はちらっとわたしの足元の草履を見る。

 ひょいっと向きを変えられて、腕に乗せるように抱えなおされた。

 以蔵様はそのまま膝をかがめて、わたしの草履を拾う。

「……あの」

 渡された草履を受けとると、以蔵様はわたしを抱えたまま歩きだした。

 ちらちら向けられるまわりの視線が痛い。

 いくらわたしが子供みたいにちっちゃいとはいえ、抱えて歩いてたら、めだつのは当然だ。

 だけど以蔵様は前を見たまま、すたすた歩く。

 おろしてほしかったけど、おそるおそる見上げた以蔵様は、朝餉の時と同じような、わたしをさけてる雰囲気だった。

 抱きかかえられてるのに、息がかかるぐらいの距離なのに、なんだか、遠い。

 結局何も言えなくて、うつむいてじっとしてた。

 


 屋敷に帰り着くと、以蔵様は玄関からじゃなく台所の裏口から入った。

「え、あれ岡田様にお雪ちゃん、どうしたんですか?」

 昼餉の用意を始めてたお梅さんが、わたし達を見て驚いたような声をあげる。

「鼻緒が切れただけだと思うが、念の為に足を診ておいてやれ」

 以蔵様はわたしを見ないままそう言って、土間のあがり口にそっとわたしをおろしてくれた。

「あ、あの、ありがとうございます……」

「…………」

 なんとか言ったけど、以蔵様はわたしから目をそらしたまま、裏口から出ていった。

「あら、お雪ちゃん、どうしたの?」

 台所に入ってきたお松さんが、わたしに近寄ってくる。

「あ、の、……呉服屋さんに行く途中で、酔っぱらいに、からまれて、でも、以蔵様が、助けてくださったんです」

「腕に抱えて帰ってきたのよ、びっくりしちゃった」

 お梅さんが笑いながら言うと、お松さんはあわてたようにわたしの横に膝をついて、顔をのぞきこんでくる。

「どこか怪我したの!?」

「あ、いえ、あの、鼻緒が切れてしまっただけなので……」

「そう? ならよかったけど……やっぱりひとりで行かせたのは失敗だったわね。

 岡田様に行ってもらってよかったわ」

「え……?」

 きょとんとして見上げると、お松さんはなんとなくからかうような顔で言う。

「お梅さんから、お雪ちゃんが一人で出ていったって聞いて、心配になってね。

 岡田様に、『お雪ちゃんが一人で出ていったんですけど、一緒にいけない用事があるんですか』って、聞いてみたの。

 そしたら岡田様、何も言わなかったけど、あわてて身支度して、お雪ちゃんを追いかけていったのよ」

「……そう、だったんですか……」

 それで、あんなにタイミングよく現れて、助けてくれたんだ。


「だけどお雪ちゃん、そもそもどうして岡田様と一緒に行かなかったの?」

 お松さんに不思議そうに言われて、言葉に詰まる。

「……あ、あの、……稽古に、集中してらっしゃるみたいだったから、声かけられなくて……。

 まだ朝だし、一人でも大丈夫かなって思って……」

「今まで大丈夫だったのは、岡田様と一緒だったからでしょ?

 お雪ちゃんはかわいいんだから、一人で出歩いたら、からまれるに決まってるじゃない。

 いい? これからは、絶対一人で外に出ちゃだめよ?」

 お松さんの言葉は、まるで小さい子に言い聞かせるみたいだった。

 お松さんには三人息子がいるけど、本当はもう一人娘がいて、だけどその子は十歳になる前に病気で死んでしまったらしい。

 わたしと顔が似てたらしくて、お松さんは自分の娘みたいにわたしを心配して世話してくれる。

 『母親の愛情』がどういうものか、母親の顔も知らないわたしには、よくわからない。

 だけど、心配してくれるのは嬉しいから、小さくうなずいた。

「……はい」





 その後、以蔵様に改めてお礼を言おうと思ったけど、急用ができて外出なさった先生についていってしまわれたから、会えないまま夕方になってしまった。

 取りにいけなかった生地は、お梅さんが買い物ついでにお店に寄ってくれて、丁稚さんに頼んで届けてもらった。

 先生と以蔵様は、日暮れ頃に帰ってきたから、夕餉は一緒に食べたけど、やっぱり以蔵様はわたしから目をそらしたままだった。

 最初の頃の、警戒されてるのとも違う、だけど明らかにさけられてる雰囲気に、どうしたらいいかわからなくなる。

 嫌われたのなら、助けてくれるわけないけど、でも、だったらさけられる理由がわからない。

 夕餉の後、自分の部屋でいろいろ考えたけど、結局わからなくて、考えるのに疲れてしまった。


 以前なら、誰かにさけられたら、ああ嫌われちゃったんだなって、すぐ諦めた。

 他の人よりちょっぴり優しくしてくれた人が、急に冷たくなったら、やっぱり嫌われたんだなって、諦めた。

 どうしてって思っても、どうしようもないから、諦める癖がついた。

 だけど。


 以蔵様には、嫌われたくない。

 諦めたくない。

 この先ずっと、さけられるのは、いやだ。

 

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