文久三年一月(一)
その日、わたしは月のもののせいで家事の手伝いを休んで、寝巻に綿入れをはおって部屋で縫い物をしてた。
もう終わりかけだったし、今回はそんなにつらくなかったから、今朝からいつもどおりにするつもりだったけど、お梅さんにまだ顔色が悪いって心配されたから、お梅さんがわたし用に作ってくれたお粥を自分の部屋で食べた。
お茶碗一杯分食べられたから、もう大丈夫だって言ったけど、今度は出勤してきたお松さんに心配されて、結局部屋ですごすことになった。
自分の浴衣の二枚目を丁寧に縫ってると、昼すぎにお松さんがやってきた。
「お雪ちゃん、先生が戻られたわよ。
それでね、お雪ちゃんの体調がいいようなら、お客様が会いたがってるから部屋に来てほしいって伝言なんだけど、行けそう?」
「え……?」
心配そうに言われて、きょとんとする。
朝から外出なさってた先生が、出先で会ったお客様を連れてこられるってことは、客間の用意を頼むって知らせが来たのをお松さんが教えてくれたから、知ってた。
だけど、わたしに会いたいお客様って、誰だろう。
「顔色は朝よりましみたいだけど、つらいようなら、お断りする?」
お松さんにさらに心配そうに言われて、あわてて小さく首を横にふった。
「いえ、あの、だいじょぶです。
あ、でも、身支度にちょっと時間がかかるって、先生に伝えてもらえますか?」
「わかったわ」
お松さんに伝言を頼んでおいて、急いで着物を着替えた。
知らない人に会うのは緊張するけど、先生がお呼びなら、我慢するしかない。
身支度を整えて、先生の部屋に向かった。
「雪でございます、遅くなりまして申し訳ございません」
「入りなさい」
「はい、失礼いたします」
声をかけてからそっと襖を開けると、上座に座った先生の前に、二人並んで座ってる人の背中が見えた。
片方は以蔵様だから、もう片方がお客様だろう。
予想はしてたけど、男の人だ。
深呼吸してきもちをおちつけながら中に入り、襖を閉める。
先生のほうを向いて座り、深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ。
お呼びと聞いてうかがいました」
「ただいま。
もう具合はいいのかい?」
「……はい」
「本当か?
まだあまり顔色が良くないぞ」
ふりむいた以蔵様が、じっとわたしを見つめて言う。
「……もう大丈夫です」
「そうか、だが無理はしないように」
「はい、ありがとうございます」
先生の言葉に、以蔵様は心配そうな顔をしながらも黙る。
かわりにやけに明るい声がした。
「いやあ、名前の通り色白でかわいいなあ!」
びくっとして声がしたほうを見ると、身体をわたしのほうに向けたお客様が、にこにこしながらわたしを見てた。
ゆるくうねる髪を、以蔵様と同じように後頭部の高い位置で結んでて、以蔵様と同じ年ぐらいに見えた。
優しそうな笑顔だけど、知らない人と、しかも男の人と、話をするのは、緊張する。
「……あの……」
「龍馬、いきなり話しかけるな。
すまないな、お雪。
これは坂本龍馬だ」
「え……」
びっくりして、思わずじっと見つめてしまった。
この人が、坂本龍馬様。
幕末の志士の中で、一番有名で、人気が高い人。
本で写真を見たことはあったけど、真面目な顔してたから、目の前の笑顔の人とは、イメージがつながらない。
「はじめまして、お雪さん。
俺は坂本龍馬という。武市の親戚だ。
しばらくここで世話になるから、よろしく」
にこにこ笑顔のまま言われて、あわてて姿勢を正して三つ指をついて頭を下げた。
「はじめまして、高田雪と申します。
よろしくお願いいたします」
「お雪さんは真面目だなあ。
武市や以蔵が真面目なのはもうしかたないが、女の子はもっと元気でいいんだよ」
「……あの……」
返事に困って先生を見ると、先生は苦笑してた。
「龍馬はお調子者でいつも適当なことを言うから、気にしなくていい」
「……はい」
「その言い方はひどいぞ」
坂本様の文句を、先生は黙って流す。
坂本龍馬っていう人は、武士としては無茶苦茶な人で、でもだからこそ誰もできなかったことを成し遂げたんだって、何かの本で読んだことがある。
すごいことをするすごい人、なんだろうけど、実際に接すると、ちょっと困る。
「お松に客間の準備を頼んでおいたんだが、用意できているのかな」
「あ、はい、できてるそうです」
お松さんがお客様の話を教えてくれた時に、わたしも用意を手伝うって言ったけど、おとなしく身体を休めてなさいって断られてしまった。
「では、龍馬の案内を頼む。
龍馬、長旅で疲れているだろう、夕餉まで少し休め」
「ああ、じゃあまた後でな。
お雪さん、案内を頼むよ」
横に置いてた大きな荷物を持ちながら立ち上がった坂本様が、また笑顔で近づいてくる。
「……はい、かしこまりました。
あ、あの、お荷物お持ちします」
おそるおそる手をさしだしたけど、坂本様が答えるより早く以蔵様が言う。
「お雪、やめておけ。そいつの荷物は怪しい物が多いから、さわるな。
龍馬、荷物は自分で持て。部屋でも危険な物は出すなよ」
以蔵様ににらまれて、坂本様はちょっと驚いたような顔をしてから、にこっと笑った。
「はいはい、わかってるよ。お雪さん、行こう」
「あ……はい……」
先生の部屋を出て、廊下を歩く。
後ろをついてくる坂本様は、先生ほどじゃないけど、以蔵様と同じぐらいには、背が高いみたいだ。
「お雪さんは小さくてかわいいなあ」
軽い口調で言われても、どう答えていいかわからない。
「……どうぞ、こちらのお部屋をお使いください」
「ああ、ありがとう。
すまないが、茶をもらえるかな」
「かしこまりました、すぐお持ちします」
台所に行って、お梅さんに頼んでお湯をもらい、お茶を淹れる。
客間に戻って声をかけてから襖を開けると、部屋の中央に胡坐をかいて座ってた坂本様は、周囲に荷物を散乱させてた。
こんな短時間でどうやったらそれだけ散らかせるのか、感心するぐらい、物があふれてる。
以蔵様が言ってたような、危険な物なのかはわからないけど、すごい数だ。
座る坂本様をぐるっと囲うように物が散らかってるから、近づけない。
「……あの、お茶をお持ちしました……」
おそるおそる言うと、坂本様は手元の袋から顔を上げて笑顔になる。
「ああ、ありがとう。
おっとごめん、邪魔だね、今どけるよ」
軽い口調で言いながら、坂本様は腕で畳の上をなぎはらうみたいにして、自分の前の物をよけた。
そのおおざっぱさに内心呆れながらも、散らばる物を踏まないように気をつけながら近づいて座る。
「ちょっとそこで待っててくれ」
湯呑を渡そうとしたけど、その前に言われて、動きを止めた。
「……はい」
「ん、悪いね」
「いえ……」
坂本様はなおも荷物をあさり、物をばらまく。
何かを、探してるみたいだ。
なんとなく周囲を見渡すと、ほとんどは小さな紙や布の包みだった。
「旅先で見かけた珍しい物を色々買い集めてるんだ。
この間江戸の小間物屋で買った物の中に、お、あった、これだ!」
坂本様がふいに大声をあげたから、びくっとする。
「これこれ、これを探してたんだ」
坂本様は嬉しそうに言いながら、手に持った包みの紙をめくっていく。
中から現れたのは、掌に乗るような、小さな丸い兎の置物だった。
「干支の守りらしいんだが、かわいかったから、姪っ子への土産にしようと思って買ったんだ。
さっきお雪さんを見た時に思い出した。
白くてかわいいところがそっくりだろう?」
さしだされたそれを、おそるおそる両手を重ねて出して受け取る。
焼き物なのか、意外と重かったけど、表面は白く滑らかで、耳や手足がちょこんとついてて、赤い大きな丸い目が絵の具で書いてあった。
「かわいいですね……」
思わず言うと、坂本様はにっこり笑う。
「だろう? あげるよ」
「ぇっ」
さらっと言われて、びっくりして見上げると、坂本様はにこにこ笑顔のままで言う。
「お雪さんに似てるから、お雪さんにあげる」
「……でも、あの、姪御様の、お土産なのでは……」
「うん、だけど他にもたくさんあるから、かまわないよ」
確かに、周囲には大量にお土産らしき物が散らばってる。
だけど、誰かに物をもらうなんて初めてで、どうしたらいいかわからない。
困ってると、坂本様は首をかしげてわたしを見る。
「あれ? 実は気に入らない?」
「あ、いえ、そんなことありません、すごくかわいいです」
「だったら、受けとってよ」
「でも、あの、……もらう理由が、ありませんから……」
困りながら言うと、坂本様はきょとんとして、だけどすぐ嬉しそうに笑う。
「いいなあ、新鮮だなあ、本気になりそう」
「え……?」
「うん、じゃあ、お近づきの印ってことでどう?
数日お世話になるんだし、そのお礼を兼ねてってことで」
「そんな、お客様なんですから、お世話するのは当然のことです」
「うーん、意外と手ごわいなあ、でもそれもまたいい」
坂本様はなぜかまた嬉しそうに笑うと、ちらっとわたしの背後を見た。
「!」
突然手を握られて、びくっとする。
兎を持つわたしの手を、両手で包みこむように握ると、坂本様はわたしの顔をのぞきこむようにしながら言う。
「じゃあ、お雪さんを好きになったから、下心を込めた贈り物ってことで」
さっきまでとは別人みたいな、真面目な顔と声。
その大きな手の感触と低い声に、『男の人』だって、意識する。
心の奥底に封じこんであるはずの恐怖が、顔を出す。
「……っ」
ふりはらおうとするより早く、横から伸びた手が、坂本様の手をぱしっと払いのけた。
手の中から落ちた兎が、わたしの膝の上を転がる。
びくっとして顔を上げると、以蔵様がわたしの横に片膝をつくようにして、坂本様をにらんでた。
「以蔵様……」
偶然だろうけど、やけにタイミングよく来てくれたことに、ほっとする。
以蔵様は、わたしをちらっと見ると、わたしと坂本様の間に、わたしを背にかばうように身体を割りこませた。
大きな背中に遮られて、坂本様の姿が見えなくなる。
「痛いな以蔵、何するんだ」
以蔵様の背中越しに、坂本様の声がする。
「女がほしいなら他を当たれ。
こいつは、だめだ」
「なんでおまえが口出しするんだよ」
「こいつは男が恐いんだ。
冗談でくどくのはやめろ」
「え、そうなのか。なんでだ?」
「おまえには関係ない。
とにかく、こいつはだめだ、諦めろ」
「へえ……なるほどねえ、そういうことか」
「……なんだ」
「おまえ、お雪さんといい仲なんだろ?」
「なっ……違う!」
「じゃあなんで邪魔するんだよ」
「……こいつは、妹弟子のようなものだからだ」
「妹弟子、ねえ。
おまえが弟弟子の面倒見てるとこなんて、一度も見たおぼえがないけどなあ」
「…………」
「本当に、お雪さんとできてるんじゃないのか?」
「違うっ!」
「そうか……。
前から思ってたんだが、おまえ、もしかして、女より男がいいのか?」
「なっ……なんでそうなる!?」
「だっておまえ、昔っから女っ気がないし、遊郭に連れてっても興味なさそうだったし、すぐ帰ったこともあっただろ。
よっぽど理想が高いのかと思ってたんだが、そうか、男のほうがよかったのか」
「そんなわけあるかっ!」
「じゃあ女がいいのか?」
「当たり前だ!」
「じゃあ、やっぱりお雪さんとできてるんだな」
「なんでそうなる!?」
「お雪さんみたいなかわいい子と同じ屋敷で暮らしてて、その気にならない男はいない!」
「…………」
「しかも名前で呼びあってるし。
やっぱりそういう仲なんだろう?
心配しなくても武市には言わないでおいてやるから、正直に認めろよ」
「違うと言ってるだろうが」
「なんだ、じゃあやっぱり男のほうが」
「それも違う!」
さらに続く言いあいを聞いてて、ようやく気づいた。
これは、坂本様が、以蔵様を、からかってるんだ。
途中から坂本様の声にからかうような響きが混じってきて、やけに楽しそうだ。
だけど答える以蔵様の声は真剣だし、もしかして、気づいてないのかな。
どうしたらいいんだろう。
困ってると、言いあいを続けてた以蔵様が、ふいに黙った。
「ん? どうした?」
「…………おまえ、もしかして俺をからかってたのか?」
「なんだ、やっと気づいたのか」
「……っ!」
呆れたような坂本様の言葉に、以蔵様はぐっと息を飲むと、わたしをふりむいた。
「お雪、こいつはもてなす必要などない、放っておけ。
それと、酒は出さなくていい」
以蔵様がきっぱり言うと、とたんに坂本様が焦ったような声をあげる。
「なっ、それはひどいぞ以蔵!
京はうまい酒が多いから、楽しみにしてたのに!」
「うるさい、うわばみのおまえにいい酒などもったいない、井戸水で充分だ!」
「ひどいぞ以蔵、横暴だ!
お雪さんっ、お雪さんからもなんとか言ってやってくれっ」
「ぇっ」
「やめろっ」
以蔵様の横から顔を出した坂本様がわたしに手を伸ばそうとするのを、以蔵様が叩き落とす。
「なあ、お雪さんっ」
「しつこいぞっ」
以蔵様の身体の左右から、坂本様がひょいひょいと顔をのぞかせては、わたしへと手を伸ばしてくる。
それを以蔵様が叩き落とす。
まるで遊んでるみたいだ。
ううん、坂本様は、遊んでるんだろう、楽しそうだ。
以蔵様は、本気で怒ってるみたいだけど。
口出しできない雰囲気に困ってると、ふいに声がした。
「何を騒いでいる」
「先生!」
以蔵様があわててふりむく。
部屋に入ってきた先生は、物が散らばった部屋と近い距離にいるわたし達を順に見て、眉をひそめる。
「何をしていたんだ?」
「武市、いいところに来た、おまえからも言ってやってくれ。
以蔵が俺に酒を飲ませないって、意地悪言うんだ」
坂本様が、困ったような顔と声を作って言う。
「なっ、意地悪じゃありません、こいつが、お雪をくどこうとして俺をからかったからです!」
以蔵様の叫びに、先生はさらに眉をひそめた。
「そうか……だったら以蔵の判断は正しい。
お雪、龍馬には酒を出さなくていい。
世話もお松にさせるように。
おまえはなるべく龍馬に近づかないようにしなさい」
「なっ、ひどいぞ武市!」
「……かしこまりました」
坂本様がショックを受けたような顔で叫ぶけど、わたしはほっとした。
坂本様の軽すぎる雰囲気は、なんとなく苦手だ。
「お雪さんもひどい!」
「自業自得だ」
坂本様はさらにショックを受けたようにがっくりして、以蔵様が勝ち誇ったように言う。
その様子がなんだかおかしくて、思わず笑ってしまった。
坂本さんの口調が岡田さんより軽い(ようにお雪に聞こえてる)のは、お雪が坂本さんに『お調子者』という印象を持ったのが翻訳に影響してるからです。




