8-7 次の予定、そして
扉の先には、また扉があった。
しかし今入ってきた際にくぐったそれとは違う。両開きの、腕の力だけで押すのが少し難しい重さの、分厚い扉であった。
マイエルはギルダと顔を見合わせ、部屋の中へ――書庫の中へと、入っていく。
「……これほどのものとはな――」
見事、と形容する他はない。
通常の空間の広がりに則していれば、容易に両隣の部屋を――その前に屋根でさえ――突き破っているであろう、棚の並び。確かに書庫だ。
あまりにも立派過ぎる、書庫。
「これ、一体どのくらいの広さなんでしょう……?」
マイエルはランタンを前方へと掲げた。
光が奥の闇へと吸われていく。
「掃き清めるだけで、どれほどかかるかな」
魔導院の図書館と比べてしまえばその規模は劣る。だが、個の収集しうる蔵書としては、マイエルでさえこれ以上のものは知らなかった。入っている品の質を確かめるまでは何とも言えないが、もしこれが黒エルフ代々の蔵書ということであれば、その価値は計り知れない。
「とりあえず、普段ほとんど立ち入らない、というのは本当なんですね」
床に積もった埃を見ながら、ギルダはそう言った。
「どうかな。彼女なら足跡を付けずに移動できてもおかしくはない――まあ、それはどうでもいいことだ。取りかかろう」
そして、棚の中身を改めていった結果――、
「……参ったな。今までずっと埋もれていたのか、これも、これも、これも、これだって――大発見だぞ」
「もう! サボってばかりいないで少しはこっち手伝ってくれたらどうです!? わたしだけじゃ何日経っても運び終わりませんよ!」
「あ、ああ……悪い」
階段状の踏み台を下り、傍らに置きっぱなしにしていたハタキを手に取る。
その横を、書物を抱えたギルダが通り過ぎていく。足を止め、
「そんなにすごいものばかりだったんですか?」
「持って帰りたいほどに、な。許してはくれないだろうが」
「あっちの棚、空にしましたから。上から埃落としていってくださいね」
「わかった」
ハタキを見つめる。
「……何日かかることやら」
「そう思うなら――」
「あーすまないすまない」
ただ、ミンジャナは作業の監督などしないので……日を追う毎に、ギルダも手を止めて書物に没頭することが多くなった。書庫の掃除自体が料理や風呂焚きと比べると遥かに重要性の低い仕事であることは明らかであったし、そもそもが、ミンジャナに余計な質問をしない代わりの、この新しい業務である。
「要は、やることさえやっていれば、勝手に読んでもいい――ということですよね」
「そういうことだろう」
「わたし達のことを受け入れてくれているのでしょうか。少しづつでも」
「そうかもしれない。……いや、わからない」
ここへ来たばかりのことを思えば、立ち入れる領域が増えたという点でミンジャナとの関係が進歩していると考えることはできる。
この山小屋は、マイエルとギルダだけで管理するにはあまりに中身が大きすぎる。その代わり、寝起きする部屋や倉庫以外の、つまり必要のない場所は、鍵が付いていないが何故か開かない扉によって固く閉ざされている。この書庫もその一つだった。
それを開放してくれたくれたわけであるから、そこまでは気を許した、と取れないこともない。
「見られても問題ないから、ここを与えて満足させようとしているのかもしれんぞ」
「――言われてみると、そうかも。少なくとも、マイエルさんは満足しそうですし」
「ああ。ここにいる間ずっと退屈するのではないかと思っていたが、僥倖だったよ」
「イヤミのつもりだったんですけど……」
「そう言うな。心奪われているのは確かだが、私なりにミンジャナの見落としがないか探してもいるよ。しかし――」
本の頁をいくらめくっても、黒エルフの過去が暴かれぬのも確かだった。
本を閉じる。
「ここには我々が本当に求めている情報は、眠っていないのかもしれんな。加えて彼女の口から何も語られない以上、謎は謎のままで、そういう意味では――我々の先祖は、相当に上手くやったのだろう」
「わたしは諦めませんよ」
とギルダは言った。
「ここには、魔導院にある書物よりもっと古いものがたくさん置いてあります。それなら、三百年戦争が始まる以前の世界の様子がわかるかもしれません」
「ギルダ、君は、」
「エルフとヒューマンが、まだ戦っていなかった頃の、記録です。そこに――希望が、あると思いませんか?」
「希望……だと?」
「マイエルさんは、戦争が続いていて欲しいと思いますか? ……今でも。センセイを奪われた、今でも」
「私は――」
この少女は自分との衝突を怖れないのだろうか、とマイエルは思った。
今、この段階でお互いが反目し合ったら共倒れになるということを、少しでも考えなかったのだろうか? ギルダの召喚魔法は替えがきかない。十三賢者の肩書きも、間違いなくギルダ自身に着せられたものだ。だが、彼女だけでここまで来ることはできなかったはずだ。シンの精神魔法で抑え込みができるのもそうだが、様々な雑事をマイエルが担当しているからこその、今の状況ではないか。
決して自惚れではなく――誰が欠けても、どうにもなるまい。
シンはともかく、レギウスを取り戻すという共通の目的と縁を持っているからこその、マイエルとギルダではないか。これまでも、そして、これからだって、上手くやっていくことを前提にしないで、どう目的を果たすというのか。
「世の中は、いくらか混沌としていた方がいいと思っている。私の世代でも平時を体験したことはないが、戦争状態ならば、知ったふうなことばかり言う曖昧な連中は鳴りを潜めるものらしい。結果、通り難い理屈も通りやすい……私のような魔法家は研究がしやすくなり、レギウスのように生来運の薄い者にも、好機が回ってくるというものだ。何より、その方が愉快だ。――だが、ここ最近は、わからなくなった」
もし、マイエルが自分の力だけで勝手にレギウス奪還の方法を模索し始めたら、ギルダはどうするつもりなのだろうか。マイエルと同程度に知恵の働く者を、自分で見つけてくることができるのだろうか? それとも自分で、知恵を絞るのか? シンと共に。
この娘にできるだろうか? その覚悟があるのか?
マイエルと決別する結果に終わるとしても、押し通したい思想なのか?
――見捨てられるのは、こちらか?
「わたし、最近思うんです。シンを見ていて――確かに、ヒューマンは憎むべき存在かもしれません。でも、戦争をしていなかった頃が、エルフとヒューマンにはあった。確かにあったんですよ! 誰も、何も知ろうとはしませんが……それに、戦争をしていなかっただけで、仲もずっと悪かったのかもしれません。でも、確かめるまでは!」
不意に、マイエルはギルダの瞳の中に、異質な何かを読み取った。
「……それを確かめるまでは、手を取り合って暮らしていた可能性も、残っている。違いますか? そして、大昔のわたし達にそれができていたなら、いつか戦争を乗り越えて、エルフとヒューマンが手を取り合うことも、不可能ではないんじゃないかって――そう思うんです。それが、もしかしたら――ヒューマンを根絶やしにするよりもずっと近道なんじゃないかって……マイエルさんは、そう思いませんか」
思わない。
エルフはそう思わないはずなのだ。
それを、今更、この娘に説教することが――正しい、という認識は、マイエルの中で変わってはいない。この先変わることもないだろう。しかも親友の教え子だ。レギウス不在の今、補助的にとはいえマイエルが導いていかなくて
――既に、一度、ギルダはそのマイエルの正しさを否定しようとしている。
おそらくは、それがいかに大それた、無謀な、自殺行為であるかもわからないまま。
その前提を思うと、最早シンからの悪影響で凝り固まりつつある彼女の新たな価値観を溶かし砕いていく試みは、とてつもない疲労をマイエルに予感させた。ある意味、魔法で心の内を操られているよりも、性質の悪い相手だ。
「ギルダ、君はもう、そういうことなんだな?」
妥協は――こちらのすることか。
それが年長者の振る舞いというものなのか?
「私の目的は、レギウスを取り戻すことだけだ。そこを勘違いしてもらっては困る。いいな? つまり、君達の目的に協力することはできない。戦争を左右するとか、エルフとヒューマンの関係の在り方だとか、そういうことにまで首を突っ込むつもりはない」
「それでも、わたしは探したいんです。シンと同じように……」
叶わぬだろう。おそらくは。
「そうか。だったら、好きにするといい。私は知らん」
「……マイエルさん」
「それでいいか?」
「――はい!」
これ以降のギルダは、より一層、書庫の清掃に打ち込んでいった。
放っておくといつまでもそれを続けようとするので、同時に治癒魔法の修業時間がどんどんと削られていったが、師匠がよかったのか、この頃にはもうギルダはそこそこマシな使い手に成長していたので、マイエルも強いて止める気はなくなっていた。
ここから何が出てくるか、ということの方が、圧倒的に重要だった。
そして、ついにある日、見つけた。
「魔力を供給することによって召喚魔法の効果が得られる装置、か……」
気分転換にと、書庫の最奥部の方を試しに採掘してみた結果だった。
「間違いないのか?」
「はい。間違いなく、そう書いてあります」
「信じ難い。魔法家がいなくても召喚ができる装置なんて、そんな都合のいい話があるか?」
「それは、わたしも驚きましたけど……でも、とても嘘を書いているようには……」
「この装置を稼働できれば、シンを何人も召喚できると考えていいんだろうか?」
「さあ、そこまではわかりませんが、とにかく、わたしの代わりに召喚を行ってくれるのは確かです。記述が確かなら、魔力を供給することさえできれば、側にいなくてもいいし、休んでいても勝手に動いてくれるはずです」
「だが、太古の遺物だ。満足な状態で保存されているとは限らん。そもそも、相変わらずそこにあるかどうかさえあやしい」
「でも、探す価値はあるはず」
「それが、現在の蛮族領であってもか?」
「当然です」
「簡単に言うが、そこで苦労するのは君じゃなくて外務代表なんだぞ、まったく……。それに運よく見つけたとして、修復のことを考えると……」
「やります。やってみせます。やるしかないでしょう?」
まさか、ここまで直接的に現在の状況へと食い込んでくる発見があるとは、マイエルも予想だにしていなかった。やはり、これを逃す手はない。
「――やれやれ、これでは春からの予定はしばらく埋まったも同然だ」
「早速、シンに知らせましょう」
「そうだな、じゃあ――」
その時、書庫の扉が――重いはずの扉が――勢いよく開け放たれた。
息を切らしたシンが、薄暗い部屋の中へ入ってきたのだった。
「……どうしたんだ、そんなに慌てて。いいものを見つけたから、今君を呼ぼうと思っていたところだが、何かあったのか?」
シンは言った。
「――やりすぎた」
「やりすぎた? 何をだ」
マイエルはシンの切迫した表情に気付いた。
それでいて、どこか――諦めたような色にも。
「オレは、師匠に勝った」
拍子抜けだった。
「それは……おめでとう。では、これで修業は終わりということか?」
「多分、そうです。というより、続けられない」
――ようやく、シンの言ったことの意味を掴みかける。
「おい、待て……何をやった」
「確かに今日は、いつもより激しかった。師匠も、珍しく気合が入った魔力の動かし方で……オレは、オレ達は、そうだ、きっと師匠さえ知らなかった。精神魔法の使い手が揃うことなんて、まずないことだから、わからなかったんだ」
ギルダも不安そうにヒューマンの少年を見る。
「どういう、こと……?」
「気が付いたら、後戻りができないところまで来てたんだ。共鳴だと思う。ものすごく深いところまで。二人分の意識を、入れたらいけないところまで。そこでやっと、俺と師匠は、どちらかが相手を完全に負かさないと浮き上がれないことを知った。出入口が一定の形をしていないからだ。どちらかを薄っぺらく作り変えないと、もう一方が出ていく分の空間がない。そうしたら師匠は、当然のようにこっちへ来て――抵抗するしかなかった」
シンの言っていることを理解することは難しかった。
相変わらず、精神魔法家の視界は抽象表現で彩られていた。
ただ、予期せぬところで、本気の殴り合いが始まったのだろうということは、わかった。
「君は――君は、それで、勝ってしまったのか」
「自分でもそうなるなんて思わなかった! それに、そこまで深いところにいると、一度強い流れを心に命じたら、ちょっとやそっとじゃ歯止めが利かなくなる。だから、ああ――オレは、もう一度同じことをできないかもしれない」
「すまない……どうか、もう少しだけでもいいから、私達にもわかるように言えないか?」
シンは一度俯いてから、
「師匠の心は、もう元には戻らないかもしれない」




