8-4 黒、そして白
「――代理です」
とマイエルは言った。
「それと、本日はお願いがあって参りました……山の精霊殿」
間違いなかった。
直接、精神の中へ言葉を投げ入れられるという感覚を、マイエルは初めて味わった。だが――身構えていたほど、不快なものでもなかった。単にまだ、一方的な呼びかけをされているだけで、心の内を触られているわけではないからかもしれないが――ともかく、この声の主が自称山の精霊であることは疑いようもない。
「願い?」
「はい。ですが、まずは贈り物を受け取っていただきたい――というより、この荷を下ろしてしまいたいのです。しかし、この役目に慣れていなかったのと、雪に視界を奪われて、指定された場所をまだ見つけられておりません。申し訳ありませんが、どうか道案内を……」
返答までには、少々の間があった。逡巡だろうか。
いや、初めて見る(見ているだろう、間違いなく)マイエル達のことを警戒するのは当然だが、その気になりさえすれば、こちらの考えを知るのは難しくないはずだ。
では、これは、探っている時間か?
シンが誰かの精神を探索した時には、決まって強烈な反応が見られたものだが、今のところ、マイエルの内に異物感はない。ギルダも、突然の展開に困惑してはいるものの、反応としては同様に大人しい。精神魔法に熟達すると、対象に違和感を覚えさせないまま心の中を盗み見ることができるのだろうか?
それとも、まだ読んではいないのだろうか。
例えば、探知魔法でこちらの位置を知るだけ知って、この一帯に思念を飛ばしているだけならばどうだろうか。それで、こちらの言ったことは風魔法で拾う。複数の魔法を扱える者ならではだ。だが、わざわざそんな回りくどいことをするだろうか。
「――その必要はない。お主らはもう、すぐ近くまで来ておる。このまま道なりに進んでいけば、じきに着くだろう」
「……どこが道なのよ!」
下からメリーの叫びが聞こえてきた。声はきちんと全員に届けているらしい。
「まずは上がってくることだ。話はそこで聞く」
山の精霊が言った通りに、目印の双子大岩にはすぐ到着した。それこそ道なりに、もう一つだけ崖登りを達成すると、それまで急斜面に隠されていた平面の広場が姿を現したのだった。双子大岩はそのほぼ中心に運ばれたかのように据えられていて、その先には再び垂直に見える壁が立っている。ここまでの道よりも遥かに脆そうに見える。
うずくまるメリーから荷物を剥ぎ取るようにしてから、シンは大岩を睨んだ。
「そこに置けばいいんですかね」
「ああ。前に置いておけば、次の時には絶対に消えていると言っていた」
貢物が岩の前に集められると、再び脳裏に女の声が反響した。
「よかろう。して、願いとは、何か?」
「――その前に、一度、お姿を拝見したく存じます」
今度の返答は素早かった。
「ならん。そういうことであれば、話を聞く気はない」
「何故です?」
「わしがそうしたくないからだ」
「……なるほど? では、本題に入りましょう」
メリーの状態が気にかかるが、この際、我慢してもらうしかない。
「ここにいるヒューマンの少年に、しばらく修業を積ませたいのです。貴女の下で」
また、少し間があった。
「――何だと?」
こちらの目的を読んでいないのか?
それとも、わざと驚いた反応を見せ、試しているのか。
「失礼ながら、我々は、貴女が精神魔法家であると考えています。そして、この少年も精神魔法を操ります。しかし、彼は未熟」
そこで一度、マイエルはシンの方を振り向いた。
「――と自分では考えていて……つまり、師を求めています」
「それで、何故、わしなのだ。わしがいつ、お主らの前で精神魔法を使えるなどと言ったのだ?」
「今、こうして我々の頭の中へ話しかけていることが、何よりのご説明かと思っておりましたが……」
「かもしれん。だが、どうも妙だな――お主ら、もしや、ここにわしがいると初めからわかっていて、来たのか?」
やはり、とマイエルは思った。この存在は、知られることを怖れている。思念であっても、声色にそういうものは滲み出てくるものらしい。いや、心をそのまま飛ばしていると考えれば、むしろ隠すことの方が難しいのかもしれない。
「実を申しますと、ある程度は、そうです。詳しいことはまだお話しできませんが……」
今度は、間ではなく、しっかりとした沈黙だった。
マイエルにとっては好都合だ。説明を続けられる。
「もちろん、それなりの報酬をご用意します。条件と言った方が適切かもしれません。しかしそれも、貴女のことを詳しく知らなければ、こちらから提示するのは難しい。そういった意味で、先程は姿が見たいと申したのですが、ご協力いただけませんか」
「確信が、あるのか?」
「――は、」
「わしがその小僧より魔法に優れているという確信が、お主らにはあるのか?」
マイエルの代わりに、シンが答えた。
「はい。それは間違いないです」
「何故そう思う」
「オレは、この山に精神魔法家が潜んでいると思っていたから、自分の中に防壁を組んでいました。その防壁を、あなたは難なく突破している。それだけで、もう敵わないってわかる。しかも――もしかしたら、オレが精神魔法を使えるだなんて気が付かなかったんじゃないかな。それぐらい、簡単に入り込まれた」
くっくっ、という笑いが後に続く。
「正直、そこまで差はないんじゃないかって思ってた。オレより上手いだろうってことはわかってたけど、それでも、何をされたとしても、どうやったのかがわからない、ってことまではないんじゃないか、って思ってた。……でもそれは完全に間違いだった」
シンは突然、雪の上で平伏した。
「お願いです! オレに魔法を教えてください! もっと、使えるようにならないといけない。何故なら、戦争はもっとひどいことになるから。エルフがもっと死ぬ。それだけじゃない。ヒューマンだって、いや、これまで戦争に関わっていなかった種族まで巻き込んで、あの人はどんどん話を大きくしていってしまう。オレは見たんだ。あの人は何でもやるつもりだ。あの人が、本当に何でも始めてしまう前に、オレは止めなきゃならない。……他の人でも、止めようと思えば、止められるのかもしれない。でも、オレが止めた方がいい。オレとあの人は、同じ場所から来たから。だから、オレに魔法を教えてください。どうか、是非……」
彼は必死だったが、それは、別段、マイエルの心に響くようなものではなかった。
目的を同じくしていないからだろう。究極的には、マイエルとギルダはレギウスを取り戻せればそれでいい。戦争がこれからどうなるかということは、重要ではあっても大事ではない。マイエル達で左右できるとも思えない。マーレタリアの中枢である十三賢者に潜り込んだ今でも、それは変わらない。
山の精霊は冷やかに言った。
「わざわざ、こんな所まで来て、事情も説明せず、わけのわからんことをわめき散らす……酔狂なのは勝手だが、はっきり言って、迷惑だ。わしがお主に魔法を教えて、得があるとは思えんな。戦争がどうなろうと、知ったことではない。それでエルフが死ぬことも、ヒューマンが死ぬことも、わしには関係がない。お主は自分の言ったことが何か……当然肯定されるべきことのように考えているのかもしれん。それこそが重要であると。だが、少なくとも、わしにそれを向けるのは筋違いだ。ものを頼もうというのなら、なおさらそうだ。話にならん。わかったら、帰れ」
「――帰りません。あなたの弟子になれるまで、この山にいます。それに、あー……確かにオレは的外れなことを言ったかもしれませんが、そもそもあなたがどういう人か全く知らなかったわけですから、あなたにとって何が的外れなのかも全くわからないわけです。だから的外れであることを責められるのは心外っていうか、それこそ的外れだと思うんですが」
そんな口答えをしていいのかとマイエルは思ったが、
「――まあ、そう言われると……こちらにも落ち度はあったか」
山の精霊は意外にもこれを素直に受け止めた。
「よかろう。どうやら相当に面倒な話を持ち込むつもりのようだからな……もう少しこちらからも情報を出さねばならんか。お主らは、わしが山の精霊などではないことはわかっておるのだろうしな……正体を見せれば、納得するのか?」
「――そうこなくっちゃ。まずはお互いのことを知らないと。その上で話が気に入らなきゃ、最後にオレ達の記憶を消してから帰せばいいんだし……」
「おい、私としてはそれは勘弁願いたいんだが」
言いながらも、マイエルは少し感心した。一転、話が進もうとしている。
「おい、エルフの男」
「はい」
「そのヒューマンでは話にならん。これから先、詳しい事情はお主に説明してもらうぞ。いいな?」
「それは、もちろん、そのつもりです」
「では――」
舞う雪が、一瞬、ことごとく止まったかのようにマイエルには思えた。
それが再び動き出した時、周囲の光景が変わった。
双子大岩の奥、絶壁だと思われていた部分が、開けていた。
先に道の続く、谷のような地形に姿を変えていたのだ。
続いて、ざぼ、という音が聞こえた。
それは、ここまででうんざりするほど聞いてきた、雪を踏みしめる音と同一のものだった。何者かが、谷の向こうから、やってきていた。
そして、双子大岩の陰からそれが出てきた時、マイエルは全てを察した。
「――黒エルフ」
「その娘、相当弱っているんじゃないのか。もっと暖炉に寄せろ。おい、そっちの娘。台所にスープがあるから持ってこい。食事時で運が良かったな」
「は、はいっ」
リビングから出ていく前、ギルダはもう一度山の精霊を見た。
銀の毛髪、汚れを数百年そのままにしたとしか思えぬ肌。
無理からぬことだった。マイエルですら、目にするのは初めてのことだった。
黒いエルフ――それが、山の精霊の正体。
谷の奥に小屋があった。それがこの黒エルフの住処だった。
マイエルは言われた通りにメリーを暖炉の前へと横たえて、シンがその上から毛布をかけた。
「一体どこから見つけてきたんだ、それ」
「いや、そこの椅子にかかってたんで……勝手に使ったら駄目だったかな」
と言って、彼は黒エルフの方を見たが、彼女がそのことについて関心を払う様子はない。少し首を伸ばして、台所の方を見ているだけだ。
シンはこっそりと、耳打ちをしてくる。
「――もしかしなくても、肌の話ですよね?」
「……ああ」
そう答えると、彼は、よくわかりましたよ、と言うかのように何度も頷いた。
おそらく、出身地でも似たような問題があったのだろう。
今や、白エルフという呼称さえも絶えて久しい。それほどまでに、黒エルフの存在は現代のマーレタリアではほぼ、抹消されていた。実際、本当に知らぬ者がほとんどであろう。マイエル達のような、古い書物に触れられる層だけが、かつて白と黒のエルフがいたという記録をおぼろげながら掴むことができるのみだ。世代的に、バーフェイズ学長ですら詳細は知らないだろう。わかっているのは、禁忌だということのみである。
明らかに迫害の歴史であった。それも、成功している。
ギルダが椀に入ったスープを持って帰ってきた。ここからでも生姜の香りを嗅ぐことができる。
「飲める?」
「なんとか……」
二、三度飲ませ、
「自分で持てる?」
「なんとか……」
ともかく、落ち着くことができて一安心できたのは間違いない。
「ここまでしていただいて、ありがとうございます」
「その娘が死んだら話もできんわ。さっさと用件を言え」
「その前に、少し自己紹介をしましょう。我々はまだお互いの名前さえ知らない――いや、既にご存知なのかもしれませんが」
「聞けば知れることのために魔法なぞ使わん」
「そうですか……。ではまず、私はマイエル・アーデベスと申します」
「――丘の家の倅か」
流石に、知ってはいるらしい。
「はい」
それから、マイエルはシン達をそれぞれを紹介し、
「よろしければ、貴女のお名前も」
「名前か」
黒エルフは少し考え、
「――ミンジャナ、というのはどうだ」
偽名であることを隠そうともしないが、呼称があるだけで幾分か楽にはなる。
「では、ミンジャナさん、先程も申し上げましたが、ここにいるシンは、貴女のお力を必要としています。……切実に」
「わしが聞きたいのは、」
とミンジャナは言った。
「わしが何者であるか知ったお主らが、結局のところ何を提示できるか、だ」
「では、お話は受けていただけるということでしょうか?」
「内容次第に決まっておろう。――ま、しかし、白エルフよ、お主なら正答を導き出すことはそう難しくはあるまい」
「貴女の生活の保障」
黒エルフは、無表情にマイエルを見つめている。
「そして、貴女の生活の隠蔽。我々なら難しいことではありません」
「そうだな。お主らの手を借りずとも、実現できておる」
「――あまり、真っ当な手段とは言えませんね」
「では、お主らであれば、その真っ当な手段とやらを用意できると?」
「いいえ」
ミンジャナは首を傾げた。
マイエルより歳が上なのは確かだ。口調の割に若々しさを感じないこともなかったが、反面、おそろしく離れているようにも思える。
「でも、マシな状態なら用意できます。それも、双方にとってね。ミンジャナさん、ファムルクの領主として言わせていただくと、街の生産物を強請する貴女のやり方を見過ごすことはできません。本来なら貴女は山賊として扱い、すぐにでも討伐隊を編成して送り込むところですが、乱暴な方法は好みませんし、一領主の力で編成しうる討伐隊では貴女には通用しないでしょう。しかし、今の私は、十三賢者の力を借りることができます。貴女の存在が彼らの知るところとなれば、差し向けられる刺客は並大抵の腕ではありますまい」
それさえも退けられるならば、わざわざこんなところへ隠れたりはしないだろう。
「つまり、今度はそちらがわしを脅す番ということか? それでは、約束を違えたら、麓の街を地図から消す。……とでもわしはお主と約束すべきなのか?」
「私の取る手段は真っ当ではないかもしれませんが、合法です。――合法に、してみせましょう。きちんと、貴女用の予算を用意するということなんです。もちろん、名目は別でね。配達員を赴任させることもできるでしょう。さしたる変化はありません。領民に負担がかからない状態になるだけです。しかし、それが重要なのです。いつまでも山の精霊を続けられるとお考えではないでしょう?」
「続けられぬなら、別の場所へ移るまで」
そうやって、この女は放浪生活を続けてきたのだろうか、とマイエルは思った。生まれてからずっと――いや、生まれる前から、ずっと。
「彼の師となってくれれば、その関係を終えた後でも、貴女の生活をお守りすることはできます。少なくとも、私の生きている間は、ここに留まっていただいて結構です」
ミンジャナは目を細めた。
「悪い話では、ないと思うのですが……」
想像でしかないのかもしれないが――逃げ続けるよりは、定住の方がいいはずだ。だが、それをこの女がどう計算するのかまではわからない。
「その話を受けるとして、だ」
嘘は言っていない。心を読まれたとしても、取り引きは取り引きだ。
「不思議でならないんだがな――」
ここでようやく、ミンジャナはシンと目を合わせた。
「どういう風の吹き回しでそのヒューマンと行動を共にしているか、説明はあるんだろうな?」




