8-3 自称山の精霊
昨年の夏頃のことだ。三名の猟師が山に入った。
罠は使わず、伝統的な弓術のみで獲物を仕留める猟師達である。
その時は、弟子である若い一名が初めて鹿を狩ることができるかどうかという、一種の試験を行っていたという。
他の熟練した二名が見守る中、弟子は長い長い時間をかけて獲物を追った。あまり思い切りのいい若者とは言えなかった。それでも最後には好機をものにし、一本の矢を鹿の胴部へと当てた。若者は完全に鹿の不意を突いた。
だが、浅かった。獲物はこの近辺では、比較的恵まれた体格だった。そのせいで、通常なら生命力の大部分を奪えたはずのポイントが、微妙にずれていたのかもしれない。
三名は逃げる獲物を追った。
鹿は文字通り懸命に、それでも少しづつ血を流しながら、エルフ達を山奥へと誘った。弟子が矢を当てた時点でかなり深くまで入り込んでいたので、最終的に、猟師達は普段なら立ち入らないようなところまで連れて行かれる破目になった。
ともあれ、立派な成果である。
弟子は自らの成長を喜び、他の二名もそれを祝福した。
異変は、倒れた鹿を解体するべくそれに近寄った時、起こった。
お前達は、麓の住民か?
間違いなく、三名はその声を聞いた。
しかし、耳ではなく、頭の中に聞こえてきた。
その何者かが、シンの探す師匠であることは、予言を聞いてやってきたマイエル達にとっては容易に想像できた。
少しだが、吹雪いてきている。
マイエルは足を止め、天を睨み、背嚢の位置を少し調整した。
山へ入ってから、それなりに時間が経っている。帰りのことはあまり考慮しなくてもいいが、その前に遭難するということもありえる。
ペースを上げた方が賢明かもしれない。
「これ、結構重いですね……」
と、後ろでシンがぼやく。
「でも今の君なら、魔法を使って余裕で運べる」
「そうですけど、魔力を払ってる。疲れるのは変わらないじゃないですか?」
「文句を言うな。私達だってそれぞれ担がなければならないものがあるんだ。体力の代わりに払える魔力があるだけマシだと思うべきだ。荷物の重さより、魔法がなければ冬場の登山も危ういような脆弱な肉体こそが、問題の本質だろう? 違うか?」
「まあ、それは……」
シンは振り返って、大分引き離されてしまったメリー・メランドの無事を確認した。
メリーとシンの運搬魔法で帰還するという前提で登っている。しかし、彼女が一番登山に向いていなかった。マイエル達は個々の装備とは別に貢物を背負っているわけだが、メリーの担当しているものは細かな日用品しかない。それでもあの調子だと、残りも全て分散してこちらで引き受けなくてはならないかもしれない。
「そろそろ、休憩が必要か」
余裕はあまりないが、現実に脱落しかけている者が出ている以上、仕方がない。
マイエルは先を行くギルダに声をかけた。
「おーい、少し休もう!」
息を整えるメリーに、シンが肉体的な疲労を和らげる魔法をかけている。
その間、ギルダがマイエルにそっと耳打ちをした。
「早く到着しないと……。メリーはもう限界です」
「わかってる。でも、まだ先がある。とりあえず貢物はここで引き取ろう」
猟師達の頭に響いてきた声の主が何であるか、まだわかっていない。
ただ、要求している品から察するに、ほぼ二足歩行だろう。
衣服が決定的だ。少なくとも、それを着ることができる形ではあるはずだ。
一応、その何者かは、生活に必要なものしか要求しないとされている。
最初の要求は、まさに猟師の弟子が仕留めた鹿そのものだったという。
食うためにそれが必要で、あと、これからも定期的に街の食料を届けてくれ、と声の主は言ったのだが、当然、何の見返りもなしに承諾などできるわけがない。まして、今回の鹿は弟子にとっては記念としての意味もある大事な獲物だ。猟師たちは断った。
すると、声の主は、この山は既に我が支配下にある、と言い放った。
だから、動植物は全て自分の所有物であり、むしろ勝手に山に入って自然の恵みを取っていくお前達の方がおかしい。本来ならば罰を下すところだが、自分は寛大なので、貢物として狩りの成果や家畜を捧げてくれれば許してやろう。何もドラゴンが食うほどの量を出せと言っているわけではない。そう、大体、お前達が生きるために必要なのと同じ分を届けてくれれば大丈夫だ。いい機会なので、服や、蝋燭などの消耗品も頼む。
そのような意味のことを、猟師達に滔々と説明したのだ。
かなりあやしいので、猟師達は今度は即座に断った。
声の主は、ではお前達の街まで下り、好きな時に好きなだけ失敬するがそれでもいいか、と脅すような口調になって言った。貢物という形であれば、自分は慎ましいお願いしかしないだろうし、お前達としても生活の計算を狂わされなくていいと思うが、どうか?
猟師達は少し悩んだ。既に魔法とも思える不思議な力の影響を受けている。誰も攻めてきやしないので、ファムルクの街には数名の保安員と、簡単な自警団が設置されているのみだ。声の主が言うように、好きな時に好きなだけ、荒らされるかもしれない。
ハッタリかもしれない。
若者ともう一名は冷静だった。とにかく話を信ずるに足る根拠が十分ではないし、貢物を供与するかどうかは、ここにいる三名だけで決められるようなことではない。最終的にどうするにせよ、まずは一度街まで戻って、意見を整える必要がある。
至極まっとうな判断であり、その二名の間ではそれでまとまりかけた。
が、残った一名が、もしかすると山に精霊が宿ったのかもしれん、という説をぶち上げ始めた。長い年月をかけ、今やっと、山の真の主がその存在を我々に示したのではないか、と言うのである。元より信心深い男ではあったが、あまりに急であったので、弟子ともう一名は不審に思った。落ち着かせようとしても話を引っ込めようとする気配がないので、なんとか宥めるために、せめて姿を見せてはもらえまいか、と猟師達は交渉してみた。
声の主は断った。
断ったが、いかにも自分は山の精霊である、と思い出したように自己紹介をした。
暴れる信心深い男を一旦気絶させ、若い弟子ともう一名の猟師は、せっかく仕留めた鹿の代わりに、様子のおかしくなった仲間を担いで下山した。自称山の精霊には、とりあえずその鹿は置いていくからもう好きにしていいが、貢物を届けるかどうかはまだ決められない、と言い残した。
そうして、ファムルクの街にこの新たなニュースがもたらされたのだが、何といっても声の主が胡散臭いので、貢物の件が前向きに検討されることはなかった。街の有力者であるアーデベス家にも話が入ったものの、父ガイエルは、くだらん、と一蹴した。
大方、余所のコミュニティから弾き出された半端魔法使いが棲み付いてしまったのだろう、ということで街の認識は固まって、狩猟への影響など不安は残ったものの、基本的には放置するという形で対応が決まった。
半月ほどは、何事もなかったかのような平和な時が流れた。
「もし、メリーが動けなくなるほど体調を崩したら、魔法を使えるでしょうか?」
活動は再開された。
マイエルとギルダが先行し、メリーとシンに後を追わせる。
「だからシンに余裕を持たせている。こう早く付きっきりにさせるつもりはなかったが、まあ、無理を言っているのは私達だ。ついてきてもらえるだけ有難い」
山の精霊とやらは相当奥に住居を構えているらしく、祭壇という名の届け先は地元のエルフでも辿り着くのが困難な場所に設置されている。そのため、普段は信心深い男を中心としたグループが運搬役を担当しているが、今回は、マイエル達が代わりにその任を引き受けた。無論、山の精霊を騙る何者かと接触するためである。
「いざとなれば、荷物を全部取り上げる。それでも駄目なら、シンから余裕を奪う」
道は険しさを増していた。そろそろ、道と呼べなくなるほどに。
所々、登攀が必要な箇所を通った。今も、シンがメリーを引き上げている。
「……それでも駄目なら?」
ギルダの問いかけをマイエルは無視したが、答えは持っていた。
メリーとギルダが運搬魔法で下山して、マイエルはシンと先へ進む。
絶対にそうする。
全員で再チャレンジするというのは、それはもちろんいいだろう。
だが、マイエルとしては、一日でも早くこの問題を解決したかった。
久々に故郷へと帰ってきたマイエルだが、家督は既に継いでいる。
留守にしていたのはレギウスの研究に付き合っていたのと、私的な道楽の為だが、少なくとも父が存命なうちは、平穏なファムルクに強いて縛られることはないと考えていたからでもあった。
領民の話を総合すると、確かに山の精霊はエルフ一名程度が生活するに充分な量の物資しか必要としていないようだ。時折、酒が飲みたいなどといった多少の贅沢を言ってはくるものの、際限なく要求が増えていくといったことはない。
身内だからというわけではないが、マイエルは自分の家が集めている税が軽いことを評価している。国が徴収する額さえ払っていれば、領主は自分の懐へ入れる分を領民からいくら巻き上げるかをある程度自由に設定できる。自由なので、低くしている。
ファムルクの生産性は決して高くないが、領主であるアーデベス家の生活ぶりが貴族としてはあまり華やかでないことが――むしろ質素なことが――それを許しているところはある。マイエルの家は豊かさを求めることよりも、領民の心証を良くすることの方を選んできた。実際にこの土地に住んでいるエルフにとっては、強くて偉い領主よりも、少し気を抜きながら生きても許してくれる領主の方が好ましかったようである。
だから、今更その程度の穀潰しが増えたところで、ファムルクの街は悲惨な事態に陥ったりはしないし、おそらく山の精霊もそこのところを見極めて要求を調整している。
ただ――とマイエルは思う。
ただ、それでもこうして冬に貢物を運搬するための労力は半端なものではないし、ファムルクが不当に搾取されている状態であることには変わりない。
余計な面倒事のために時間を割かねばならない領民のことを思うと、特別に郷土愛が強くなくとも、見過ごすことはできなかった。少なくとも、今ここにいる間は、素直にそう感じられる。
どこまで言ってもらえたかはわからないが、あの予言の先を聞かなくてよかった、とマイエルは思った。もし聞いていたら、素直に帰ってきたかどうか――。
何の前触れもなく、牛と、山羊と、鶏が、二頭、二匹、二羽、つがいで消えた。
調査も終わらぬ翌日に、同じく牛と山羊と鶏が、三頭三匹三羽、倉に保管してあったチーズや腸詰めと共に姿を消した。
さらに翌日、数は四に増え、そして、エルフが一名、行方不明になった。
街一番の器量よし、と評判の娘だった。
この段になってとうとう、山の精霊の言葉を無視することはできなくなった――というより、もう遅きに失しているのではないか、という恐怖が民の中に芽生えた。
初日は夜の間に事が行われたようであった。
二日目は、昼の間に、気が付いたら消えていた。
三日目は、家族の見ている前で、娘が見えなくなったのだった。
アーデベス家には大勢の口添え(つまり付き添い)と共に、娘を奪われた(それ以外は考えられなかった)両親が嘆願をしにやってきた。家畜の減った家からも陳情があった。今のところ何も失っていない住民からも、これ以上の犠牲が出ないうちにと対応を迫る声が多数寄せられた。
非常事態である。父ガイエルもそのように受け止めた。
だが、じゃあ行こうすぐに行こう今行こうということにはならない。
捜索隊を山班と街班の二つ、防衛隊を一つ組織するのに、どうしても一日かかった。
住民は朝を待った。
夜明けと共に、山の方角から、行方不明だった娘が見張りの前に姿を現した。
保護された娘は、見えなくなる直前の姿と全く同じであった。暴行された跡もない。
変わっていたのは、中身であった。
娘は、何を話しかけても、無表情でこう返すようになっていた。
「穏便なうちに考えを変えろ」
効果は覿面であった。
何が原因で、何をすれば事態が収拾されるかも明白であった。
あらためて、登山隊が組織された。
信心深い男を中心に据え、壊された娘も連れられていった。
その日のうちに、登山隊は戻ってきた。家畜達と共に。
牛、山羊、鶏、どれも欠けていない。娘の心も元の通りに戻っている。
ただ、加工食品だけは、戻ってこなかった。
最初の正式な要求は、一週間分の食料のみであった。
家畜を攫ったのはあくまでも脅しで、実際に食べるためではなかったことが伺えた。
登山隊が、娘も含めて、山の精霊に接触したことは確かであった。
だが、どういう会話が行われたのかを、誰も憶えていなかった。
ただただ、最初の正式な要求、だけを記憶に植え付けられて、目的があって山に入ったということさえも、山を下りてから思い出したのだという。
そして、山の精霊に対する恐怖が、取り除かれていた。
山の精霊は、ほぼ確実に精神魔法家である。
シンの力になってくれるよう頼んで、首を縦に振ってくれるかはわからない。しかし今のマイエルなら、この貢物を取引に昇格させることができるはずだ。相手はまともな素性ではないだろうが、だからこそ、交渉の余地があるように思える。
話を聞く限り、魔法の割には、破綻した精神の持ち主とも思えなかった。
そこがシンとは違う。
脅しに関しては、必要だからそうしたまで、ということだろう。家畜と娘の精神は元に戻しているし、要求を増大するようなこともせず、満たしさえすれば、後は街の都合に合わせてくれる。荷の量が多い時やどうしても手が足りない時は、数回に分けて届けても文句を言うことはないし、そうした事態が発生した次の要求は少し難易度を引き下げてくることさえあるという。
「マイエルさん! ちょっと止まらないと!」
すぐ後ろを歩いていたギルダにそう言われ、マイエルは振り返った。
かろうじて見える、というところにまでメリーとシンが引き離されていた。
「その目印っていうのは、まだなんですか?」
本格的に雪片が視界を覆い尽くしつつあった。
ギルダとメリーに引き返させるなら、おそらく今だろう。
だが、目的地はすぐそこまで迫っていた。
この山はマイエルも幾度となく入ったことがあるから、信心深い男が言った、目印の双子大岩がどこにあるかくらいは知っている。
「もう一踏ん張りだ。いや、二踏ん張りかもしれないが……とにかくすぐだ」
「この吹雪で隠れてしまっているんじゃ……」
「いいや、そんなことはない」
急に存在感が一つ増えて、マイエルは身構えた。
ギルダも、予期せぬ方向からの返答に驚いている。
頭の中だ。
「――いつもの猟師とは違うな」
声の主は女である。




