8-2 帰省
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「……本当に鐘の音がする」
シンは楽しそうに言ったが、反対にメリーはうんざりした様子である。
「こんなに? うるさすぎない?」
「――もしかして、街中の鐘を鳴らしているんですか!?」
と、ギルダが大声で訊ねてきたので、
「そうだ!」
マイエルは御者台から後ろを振り向き、徐々に大きくなる音に対抗して叫んだ。
「昼だからな!」
首都から馬車を乗り継ぎ、ようやく、マイエルにとっては懐かしのファムルクまで辿り着こうとしていた。このような田舎には運搬魔法家などという気の利いたエルフは関わっていない。効率だけを考えればシンとメリーでその役割は果たせるのだが、条件として、シンがマイエルの記憶を読み取り、ファムルクの情報を知る必要がある。
認めることはできなかった。
シンの魔法に一度も触られていない、ということを証明するのはほぼ不可能だが、だからこそ、自分でその効力を受け入れるわけにはいかない。
この、若くて知識も経験も不足しているヒューマンが暴走してしまった時、誰がそれを止めなければならないか――というより、止められるというのか。
魔法で言いなりになっていない者達だけだ。可能性がそこにしかない。
この少年は、マイエルとギルダの心は読みたくない、と言った。信用ならない、吹けば飛ぶような言葉だが、それに縋るしかないのが現状だ。操られていないという保証にはならないが、指標には、なるかもしれなかった。
したがって、マイエルの心の内に、この件について考えられるだけの知能が残っているうちは、精神魔法の直接の適用を選択肢にしてはいけない。もし、シンの前に心を投げ出すようなことがあるとしたら、それは死が近くに迫っている時だけだろう。
そういうわけで、今回の帰郷も、これまでのそれと同じく、伝統的な方法が選択されたのだった。
「やっと着いたんだ……長い旅だったなあ」
シンの言う通り、首都からファムルクへの道のりは、決して楽なものではなかった。それも、まだ雪も残る冬の間に辿り着こうというのだから、狂気の沙汰とまでは言えないまでも、どうしてわざわざそのような大儀を、と首を傾げる貸馬車屋は少なくなかった。とうとう道案内を買って出る者もいなくなり、マイエル自らが馬を操っている次第である。
「そうね……」
ギルダも感慨深げに頷く。
マイエルには、まだこれが正しい行動なのかどうかわからない。
シンの活力を萎えさせてしまわないためとはいえ、もう既に、丸々一ヶ月の時を費やしてしまっている。ここから目的の師匠を探し出すのに、また時間を使う。見つけてからも、シンが教えを吸収するのにまとまった期間が必要なのは間違いない。その師匠が全てを伝え終わるか、それともシンが自分で納得のいく強さを身に着けるか、落としどころがどうなるかはわからないが、いずれせよ、確実に、春を迎えるだろう。場合によっては、さらに季節が移ろうこともありえる。
それに見合うだけの成果が、果たして得られるかどうか――。
それに、バーフェイズ学長をはじめとした講師陣が後を引き継いでくれたとはいえ、魔導院へ発展途上の客人達を置いてきたのも気がかりだった。この旅の間は、マイエル達の目が届かないのだ。通信はできるだろうが、やはり田舎、常駐の魔法家がいない環境では基本的にシンに頼るほかなく、連日連夜四六時中、の密な体制は望めない。何か不測の事態が起きた場合、素早い対応はまず不可能だ。
客人達自身が引き起こすトラブルもそうだが、召喚代表の不在をいいことに他勢力がちょっかいをかけてくることもありうる。学長ならばかなり広い範囲まで面倒を見てくれるはずだが、本当に仕掛けてくるならば、相手方はそれも織り込み済みで動くだろう。そうなれば、時間稼ぎ以上のことは、あの老翁でも難しい。
――だが、結局、シンの問題に全員を付き合わせても仕方がないし、肉体的には貧弱な客人達全員を率いて冬の寒空を行くには多大な困難が伴う。ギルダが賢者の仲間入りを果たしたことで受けられた恩恵は多大なものだが、手数が有限であることは変わりない。世話を焼かせるためだけのエルフを大勢同行させる気にはなれなかったし、またそのためにシンの力量を知られすぎることも避けたかった。ファムルクが魔法開発に適した地であるとも思えない。
「ところで、ギルダ」
「はい」
鐘の音が弱まるのを待ってからもう一度振り返ると、ギルダはシンにべったりと寄り添うようにしていた。メリーもまた同様である。今やそれが彼らの距離感だった。出発前、シンはついに熱を自在に操る術を修めたハナビ・アキタニからその記憶を分けてもらい、旅の間中、ずっと、温かい状態を保っていた。
「いや……何でもない」
その光景を見続けているのが辛くなって、マイエルは前方へ目を戻した。
ギルダだけ魔導院に残る、という手もあったはずだ。
だが、ギルダは、当然、という表現を使った。
シンが行くのなら、当然、わたしも見届けます、と。
その後に「わたしたちは合わせて召喚代表、お忘れですか?」と続くのだが、マイエルの中では、当然、というギルダの声と唇の動きがいつまでも響いていた。自然な、心からの言葉であるとしか思えなかった。
戒めることはできたはずだ。
「シン」
「はい?」
自分に言い聞かせる。
いいだろう、シンが最優先だ。
この少年はそれだけ多くを占めようとしている。
「君の師匠が見つかることを、私も願っているよ」
「……ありがとうございます」
「もちろん、ただ願うだけじゃない。私の領地だ……招くからには、君を客として扱わせる。援助も惜しませない。しかし、一つ条件がある」
「それは、守れることなら、守ります」
「よく聞け。……何があっても、私の父に魔法をかけるな。これを守れなかった場合、即座に君を放り出す。絶対だ。君がいなければレギウスを助け出せないとしても、この戦争にエルフが勝てなくなるとしても、今後一切、君と行動を共にしない。いいな?」
ややあってから、
「――わかりました」
「それで、先に言っておくと、父もヒューマンが嫌いだ」
「でしょうね……」
「お久しゅうございますマイエル様! ほんにご立派になられて!」
おそらく彼は心からそう言ったのだろうが、マイエルはそれを素直に受け取ることはできなかった。
「じい、あなたはあまり変わらないな」
「ハハ、年寄りですからなあ」
アーデベス家の屋敷は、一般的な貴族のそれと比べるとあまり大きくない。だがそれでも、このファムルクの街では一等高い場所に建っているし、一等大きな鐘を併設された塔に備えている。何のことはない、特に深い意味も持たぬまま古来より連綿と続いてきてしまった習慣が、この鐘であった。
「それで、こちらのお嬢様方は……? は! もしや! まさか! つ、ついに……」
「おい、じい、勘違いするな」
「社交嫌いで女性の影もなく、一時はその筋に染まってしまったのではないかと囁かれわたくしと大旦那様をそれはそれは心配もさせたマイエル様がついにィ!」
「――ルドヴィー、そのへんにし」
「つ、ついにィイ! 未来の奥様と、お、お妾、様を」
「そうか。ついに暇を出さねばならんか」
「おおおご無体なほんの冗談ではございませぬか!」
「私としてもあなたほどのご老体にこのような仕打ちはしたくないのだがな……しかしこの世にはどうにもならぬことがある」
「ぬああ大変失礼を致しました! 何せ久方ぶりのご帰郷、このじい、ガラにもなく舞い上がって……申し訳も!」
そう言ってルドヴィーは何度も頭を下げるが、ここまでくると、ギルダもメリーも戸惑うというよりは呆れている。
「すまない。許してやってくれ」
「はあ……」
「いや、まあ、いいですけど……」
「しかしですなマイエル様――」
ルドヴィーは頭を上げた。
「冗談は冗談でございますが、このルドヴィー、全く期待をしていなかったかと問われれば答えは、否!」
「わかった私が悪かったからその話は後でしよう」
「光陰矢の如しと申されますように、我々エルフの一生とて決して悠長に構えていてよいものでは」
「いい加減にしろ! 手紙を送ったはずだろう! 彼女達はそういうんじゃない。こちらのギルダ・スパークルはレギウスの弟子で、それでこちらは、運搬魔法家のメリー・メランド女史だ」
「ええ、ええ、存じておりますとも。ご用命があれば何なりとお申し付けください」
「よろしくお願いします」
「お世話になります」
ここでやっと、目の端でシンを捉えたのか、好々爺の顔が一瞬にして消え去った。
「――それで、このヒューマンが?」
「手紙に書いたはずだぞ。彼も客だ。間違えるな」
「左様でございますか……」
「父上にはきちんと知らせたんだろうな」
「はい」
「ならいい」
シンが口を開いた。
「あの、オレ――いや、ワタシは、ナルミ・シンと申します。よろしくお願いします」
ルドヴィーはこれを黙殺した。
ベルトに下げていた携帯ベルの取手を掴み、力強くガラガラと鳴らすと、どこかで待機していた召使い達が現れる。
「さあ、お荷物を部屋に運ぶのだ! 本当にこれで全てでございますか? 馬もしっかり手入れさせましょう。ちなみに返却のご予定は……」
「充分休ませたらすぐに返していい。首都へ帰るときはメランド女史が魔法を使ってくれる」
「かしこまりました」
シンが魔力を薄く放出した。
確かに、ルドヴィーに魔法をかけることまでは禁じていない。
「ああそうだ、お風呂も用意してございますよ。是非どうぞ」
しかし、すぐにそれを引っ込めて、シンは案内されるギルダとメリーの後へついていった。
通常、父のガイエルは書斎に籠もって、出る必要が生じるまでは出てこない。
そのため、一粒種の息子であるマイエルが帰ったと知らされても、夕食の今になるまで姿を現さなかった。
「ただいま帰りました、父上」
「久しいな、マイエル。とはいえ、まだしばらくは戻らないとばかり思っていたが」
「少し、この地に留まる理由が出来たものですから」
「そうか。まあ、好きにするといい」
この食堂も懐かしかった。
身分のことを考えれば、慎ましいとさえ言える広さだ。今日は客がいるので蝋燭も惜しみなく灯しているのだろうが、普段の、父しかいない時にはかなり節約しているに違いなかった。そもそも、あまり金のかからないエルフだ。
「お客様を紹介します。まずこちらは我が友、レギウス・ステラングレの弟子、ギルダ・スパークル。十三賢者です。新しく定められた召喚代表を務めています。手紙にも書きましたが、私はその補佐役に就任しています」
父は喜んだ様子も見せなければ、驚嘆の声も上げなかった。
ただ一度、ゆっくりと頷いただけだった。
「マイエルさんには、いつもお世話になっております……」
ギルダはなんとかそういったが、明らかに手応えを感じていない様子だ。
「……えー――それでこちらが、運搬魔法家のメリー・メランド女史です。これでこのファムルクにも開通しましたのですよ、父上」
また頷かれるだけでは敵わないので、返事を促してはみたが、
「そうだな。このような片田舎にわざわざご足労いただけるとは思ってもみなかった。こんなにめでたいことはない」
父が興味を示したようには思えなかった。
「ガイエル・アーデベスと申します。大したもてなしもできませんが、お召し上がりください」
あまりに淡白な反応に、メリーも驚いている。無言で頭を下げるのが精一杯か。
「さあ、さあ、どうぞ」
ギルダもメリーも、そろそろ不気味なものを感じ始めるのかもしれない。本当に食べ始めていいのかどうか――迷っている。
だが、マイエルにとっては、これが記憶通りの父の姿である。
マイエルは先に手をつけることにした。
「……では、いただきます」
「い、いただきます」
ギルダとメリーがおそるおそる宣言し、料理を咀嚼して飲み込むところを見届けてから、父も食事を始めた。
そして、明らかに少し離された場所に椅子を設置されたシンの姿を認めた。
父はすぐにナイフとフォークを置いた。そしてマイエルに訊ねた。
「その――それは、何だ?」
予想していた反応だ。
「手紙に記したと思いますが。ギルダとメランド女史と同じく、私の客です」
かなり長い時間を、父は沈黙の為に使った。それから、
「マイエル」
「はい」
「それは、何だ――と訊いている。きちんと答えろ」
「ですから、私の客です。彼のために、今回ここへ帰ってきたのです。これは手紙には書きませんでしたが、用事は彼の用事です」
「国の用事では、なかったのか」
「ですから、彼の用事が、国の用事でもあるのです」
「――何と言ったらいいのか、わからんな……」
父は少しの間俯き、次に顔を上げた時には、合わせていなかった目をしっかりとマイエルのそれと合わせてきた。
「マイエル、お前は間違っている。それは客ではなく、ヒューマンだ。いいか、ヒューマンだ。食事時にこのようなことを言わせるな――」
「彼女達は、気にしませんよ、父上」
ただ単に事実を言ったつもりだったが、言った後でまずい言い方をしたことにマイエルは気付いた。
「不愉快だ」
父は席を立った。
「お前達が帰るまで、食事も書斎で摂る。用があればそちらから来い」
食堂からも、出ていった。
また沈黙が流れた後、シンが最初にそれを破った。
「やっぱり、オレのせい……です、よね?」
「――気にするな。それより、冷めるぞ。早く食べた方がいい」
しかし、澱みなく食事を続けることができたのはマイエルだけだった。
シンは一応完食したが、ギルダとメリーは半分ほど残した。
「悪いですけど、お父さん変ですよ」
とメリーが言った。
食後、マイエルは自分の部屋に皆を集めていた。この部屋も懐かしかった。
「シンがヒューマンだってことを差し引いても」
「申し訳ない。やはりシンは最初から別にしてもらった方がよかったな……」
「オレもそう思います。つーか明日からはもうそれで」
「そうね。本当はちゃんと事情を知ってもらうべきだけど、まず話を聞いてもらうところから始めなきゃ……それに、せっかく帰ってきたのに、マイエルさんとお父様が一緒にお食事もできないのは悲しすぎるわ」
マイエルとしては父と顔を合わせられなくても特に問題はなかったが、このままでは皆が居づらいのはわかっている。
「それはすぐに手を打とう。父は……ああだが、頑固者というほどではない。言えば出ては来るから、あまり心配しなくていい。それより、私としては、落ち着いたところで今後の方針を固めていきたいのだが」
「いや、落ち着けてないですよ。少なくともあたしは!」
メリーは顔をしかめたが、少し前までの彼女を思うと、これさえもいい傾向だった。
「ふむ……。まあ、確かに来たばかりで疲れも残っているか……。私が少し焦りすぎているのかもしれない。わかった、では今日はもう休んでしまおう。わざわざ集まってくれたのに悪かった。話し合いは明日、朝食が済んでからにしよう」
と言ったところで、部屋のドアがノックされた。
「マイエル様、よろしいでしょうか?」
ルドヴィーの声だった。
「何だ? 私達はもう休もうかと思っていたのだが、長くなるか?」
「左様でございましたか。少し、お話をお耳に入れようかと思ったのですが、そういうことであれば、また明日にでも」
「いや、入っていい。さわりだけ聞こう」
「しかし、急を要するというほどのことではございませんので……」
「いいから入れ」
何か、予感めいたものがあった。
「おや、これは皆様お揃いで」
「彼女達がいると話せないことか?」
「いいえ、そういうわけではございませんが、あまり関係のない話かと」
「案外、そうではないかもしれないぞ」
マイエルがそう言うと、ギルダとシンは顔を見合わせた。
「どういう話だ?」
「はい、そのー……実は」
ルドヴィーは言った。
「山に、何者かが棲みついたようなのです」




