7-4 鍋
股の下にある大きな身体が揺さ振られた。
「……悪いと思ってるよ。こんなクソ寒い日に付き合わせちまって」
キップは短く鳴いた。
白い息が、ひりひりするような冷気の中へと溶けていく。
「ああ、君達にはそうでもないんだったね」
馬も、冬の寒さに向けて毛が生え変わるようになっている。
ディーンで乗せてもらった馬は、その時既にキップよりも少しモコモコしていた。
そうやって寒さに耐性をつけていくせいか、むしろ冬の気候の方が馬としては元気にやっていけるらしい。逆に、夏の暑さは少し苦手ということである。
俺は眺めていた――デニー・シュートに先導されて、生徒達が訓練場で馬を軽く走らせているのを……。
「よーし、いいぞ……みんな走れてるな。この調子でー、あと三周くらい行ってみようか!」
タッタカタッタカ、揃ってはいないが規則的なリズムで、デニーを含めた十三騎が、円の丁度反対側を過ぎ去ろうとしている。
本格的な訓練に入る前の段階で、既に三人が脱落していた。
後ろを振り返る。
俺以外にもこの練習風景を見守る者達がいた。
姫様、ジュン、そして因業ババアのアデナ・グラフィスである。
テーブルを持ち込んで囲み、椅子に座ってくつろいでいる。
結局、彼女にやってもらうしかなかった。
そして、初対面で三分の二が泣かされて、始める前に終えることを選ぶ人が出てきてしまったというわけだ。
「アデナ学校の復活ですね」
と姫様は言った。
その傍らに立つジュンが、ティーポットからまだなんとか温度を保っている液体をカップに注いだ。
「冗談じゃあないわよ……」
アデナ先生は柔和な笑みを湛えていたが、本当に嫌そうな言い方をした。
もしも願いが叶うのならばもう家に帰りたい、という感じだ。
それでもこうして再び俺達を導いてくれる気になったのは、なんだかんだと言ってもアデナ・グラフィスという一人のヒューマンが姫様を憎からず思っているからなのだろう。少なくとも、義理は感じているはずだ。そうでなければ何度も戻ってきたりしない。
それに――先生には俺達が何をやってきたか、何をやろうとしているのかをもう話してある。悪いが、楽隠居は終わりだ。
間もなく騎馬隊は目の前を通り過ぎる。
この日の俺は訓練補佐としてここにいた。もちろん視察の意味もあったが、こうしてキップを駆っているのだから前者の方が主目的になっている。
俺達が勝手に進めてきた計画だ、セーラムの人々にとっては知らぬ内、急な戦力増強である。アデナ先生といえど、独力で二桁を超える志願者を相手することはできない。自分の手足となる指導官が必要なのだが……その手配が少し滞っていた。もちろん魔法家の促成栽培がセーラム王国における最優先事項であることは変わりないが、それはそれとして、どこも人手不足だ。人材を引っ張ってこなければならない=その人が今就いている職務を切り上げるか引き継がせるまで時間がかかる、というわけで、その遅れがあるうちは、こうして今ある手数だけで補っていかなくてはならなかった。
そして、それはアデナ学校だけに限った話ではない。
こんなもんジュンにやらせとけと思うが、キップでの慣れを込みで考えると、乗馬はまだ俺の方が熟達している、ということらしい。確かに、城の外へ出かけることがこれまでと比べて格段に増えたので、自然と乗る機会も増えて経験値は溜まる一方だが……。
「あっ、――ああっ……!」
列の最後尾にいた一騎が、バランスを崩した。馬が跳ねている。
姫様よりも小柄な、眼鏡をかけた少女が乗り手である。意外かもしれないが、かなり早い段階で戦場へ出ることを決意した一人だ。
「ほい来た……」
衝撃で手綱から手が片方離れてしまっている。慣れればそれでも問題はなくなるが、乗馬を始めたばかりではそうもいかない。少女は必死に掴み直そうとするが、空を握ってばかりいる。投げ出されるのは時間の問題だ。かといって先頭のデニーは間に合わないだろうし、他の生徒達に誰かを助ける余裕はない。
キップを近寄らせ、少し身を乗り出して、なんとか彼女を引っ張り上げた。
手綱がしっかり握られたのを確認してから離れる。
「そのまま! しがみつくんじゃなくて姿勢を整える!」
「はっ、はあっ……」
「ほら、踵! 蹴らないと、馬は叱られてると思いませんよ!」
暴れ馬には俺もキップもあまり近づきたくない。今のも結構な冒険だった。
あとは彼女自身でなんとかしてもらう。
――危なっかしいながらも、なんとか抑え込んだ。
「落ち着きました?」
「か、かたじけない……」
「……もう少し自信を持った状態で乗ってあげた方がいいですよ。不安な人が上に乗ってると、馬も不安らしいので……」
「ああ。助言、感謝する!」
どうしてこの明らかにか弱い彼女が戦争をやる気になったのか疑問だったが、この痛々しさで全て説明できる。多分、正常な判断力は持ち合わせていないのだろう。現実を知った時にどうなってしまうのかが怖いが、とりあえず今はモチベーションが高そうなので、そうであるうちは突っ走ってもらうつもりだ。
正直、最初に見た時は厳しいのではないかと思った。しかし、詠唱で様々に効果の変わるスペル・タイプの魔法が思いの他強力で、本人も結構な自信を持っている。どうやら魔法の存在自体がかなり嬉しいようで、それをいじくり回すことそのものに快感を覚えている節がある……。
「ちょっとペース上げて、早く追いつけよー」
と、もう遠くになってしまったデニーが声をかけてくる。
「参る!」
その背中を見送る。
彼らにはこの後、ジュンにボコられるという大変な仕事が待っている。
そういう日々が続いて、どこまでの人数が残るか――まだ、篩を振っている時だ。
逆に、やる気十分ではあるが、なかなかアデナ学校に通おうとしない人もいた。
「こんにちは……」
そこで働く男達は、この季節でも多くが半裸だ。
炉から漏れ出してくる熱で、暖房を必要としない。
何かを打ち鳴らす音が途切れなくバラバラに聞こえてくる。水の蒸発していく音も。
鍛冶屋である。
工房は広いが、とにかく物と設備が多いので体感的には狭く、入り組んでいる。あまり快適な環境とは言えないが、好き好んでここに寝起きしている客人――召喚された人々を区別してそう呼ぼうという動きがある――に会うためならば致し方ない。誠意を見せなきゃならん。こちらから出向く、当たり前のことだ。ましてや俺はしがない道化師。近頃は姫様直属の部下として三分の一くらいは見られるようになってきたものの、まだまだ苦労が足らなさすぎる。
本当なら姫様が一人一人に会って頭を下げて回るのがベストなのだが、あんまり偉いとそれもあまり有効な手段とは言えなくなってくる。俺達だけで戦うのならそれでもいいのだが、あくまでもセーラム王国の中で日本出身者の部隊を作ろうとしているのだから、周囲の目というものは気にする必要がある。それこそ、今の姫様は内部での調整に忙殺されていて、こちらまで出て来られない。それも、元はと言えば自らの秘密主義が招いたものではあるが。
ただ、元いた世界の人間同士だから、とあれもこれも俺に任せ過ぎていやしないか……なんて思わないこともない。俺自身はやる事が増えるのは苦痛ではないし(有意義ならね)、姫様の、ちょっと謎を残す振る舞い方は好きだが、それは単に同じ俺の感じ方であって、日本から新しく来た四十人の感じ方ではない。その中には、隠し事に対して疑心や反感を抱く人だっているだろう。彼ら全てに対して腹を割って話す必要はないが、少なくとも、都合よく利用されている、と思われないようにはしないといけない。そういう相手に、人はついていこうとはしないだろう。
別に最近の自分の仕事を高く評価しようというわけではないが、このままだと上手く魔法隊を設立できたとしても、姫様ではなく俺に人がついてくるなんてトンチンカンなことも起こりかねない。俺に人徳があるとか人心掌握の術に目覚めたとかそういう話ではなく、右も左もわからないままこの世界にやってきたわけである彼らが、ただ先にこちらへ来たというだけの俺にしか道標を見出せない、ということになってしまうのだ。
先人、という意味ではジュンも同じなのだから、やれることを増やすという意味でも一緒にお参りをしてみないか、とちょっとしつこく誘ってはいるのだが、彼女は彼女で姫様の侍従という立場を妙に気に入っていて乗り気じゃない。
結果、俺ばかりが世話を焼いてしまっている、という構図が出来上がっている。
困ったことがあったらとりあえずあの道化師に言え、ということは皆覚えてしまったし、この鍛冶屋に異世界人を飼ってくれと頼みもしたが、全ては姫様とセーラム王国の後ろ盾あってこそだ。俺はただ代理人として足を使っているだけにすぎない。
まずいよなあ……。
まあ、姫様だって完璧超人じゃない。それはもうわかっている。
彼女にもまだ若い部分があるということなのだろう――良いにしろ、悪いにしろ。
もうちょっと落ち着いたら、ガツンと言ってやればいいのさ。道化師にしか言えないことを。姫様はそのために、俺を手元へ置いているのだから。
出入り口に一番近かった初老の職人が、顔を上げて俺を睨んだ。何かを磨いていた。
すぐに、奥の方へ向けて顎をしゃくった。
「どうも」
軽く会釈して、その場を過ぎ去る。
五歩も進まないうちに前を遮られる。
「はいよちょっと通るよ危ないよ怪我するよ」
工具と、よくわからない何か尖ったものが突っ込まれまくっている箱を抱えて、中年男性がここは優先道路だと言わんばかりに躊躇いなくニアミスしていく。
が、一旦立ち止まって俺の方へ振り返ると、
「若ぇのは奥だよ」
「どうも」
目的の人物が奥にいることは、実はこの建物に入る前から知っている。
だから、別に何も言われなくとも迷わず進んでいける。
途中、いくつかある炉のそばを通り過ぎる。
何の気なしに見ていると、今度はふいごを踏んでいた一人がこちらも見ずに、
「あいつは奥だあ」
「どうも……」
もう結構な回数を訪問しているはずだが、ここの従業員達は不愛想な一方でこういう律儀なところがあった。
いよいよ工房の一番奥に足を踏み込む。そこが一番散らかっているように見えて――一番整頓されている。初めはその小さな炉では不十分なのではないかと思ったが、彼がそれを事実上独占していると聞いて、考えを改めた。
その青年は、まさに鉄を打っている最中だった。
一振り、また一振り、もう一振り上げたところで、停止。
「あれ――誰か来ました?」
打ち下ろす。
「すいませんねちょっと待っててくださいこれだけやっちゃいたいんで」
もちろん待つ。
手近なところに椅子のような木箱のようなものがあったので、それに座った。
やがて納得がいったように頷くと、青年は立ち上がって、少し離れた場所に置いてあった樽の中の水に、鉄の塊を通した。
じゅわああ、と長く音が続いた。水蒸気も発生する。
冷えるのを待ってからそれを持ち上げ、掲げ、あちこちを点検する。
最後に指で一回、ちん、と弾く。
浅い鍋だった。
「カラサワさんのとこに持ってこうかと思って」
そう言って渡されたが、持て余す。
「よろしければ、届けましょうか」
「マジすか? じゃあお願いしちゃおうかな」
髪はロン毛である。それを後ろで一つに結んでいる。無精ひげと、手を加えなくても整ってると言える程度に濃い眉。細面だが、体格には恵まれている。きちんとパックに分けられた腹筋と、無邪気そうな笑顔が眩しい。
召喚を初公開した時の燃える男が、このナガセさんだった。
土・火の複合。彼の興味と魔法は、鍛冶仕事に偏っている。
「それで、今日は何のご用で? この間来たばかりじゃないですか」
口ではそう言うが、微笑みながら、雰囲気は歓迎のそれである。
「ええ。しかしまあ、近況などマメに聞いておきたいこともあるので、こうして回っているのです」
「うーん、特に変わったことはないすよ。順調にいいもの作れるようになってますね」
「どのぐらい?」
「どのぐらい、そうすねえ――フブキさん、何か武器作って欲しいですか?」
「いえ、私は……そうおっしゃるということは、自信が?」
「いつか全員分作りますよ」
「それは何よりです。それで、えと、うまくやれてます? その……人間関係とか」
それを聞くと、彼は一瞬きょとん、としてからぶっはは、と吹き出し、
「ええ何でンなこと聞くんですか? やさしー人ばっかりで逆にビビってるくらいですけどね!」
召喚した四十人の中で最も心配することがないために、気になってしまうのが彼だった。この鍛冶屋は客人が就いた職業の中でも大変な方だと思うが、最初に訪問した時、彼はニッコリと笑って「いや、フブキさん、これめっちゃ楽しいすよ」と言ったものだ。魔法開発には積極的、アデナ学校への参加は二つ返事でOK、とても自殺したとは思えないカラッとした性格――なのだが、そのせいか、未だに一人でこの工房にこもって暮らしているのである。
「そうですか。それなら、うーん、もう訊くことなくなったかなあ……」
ナガセさんは俺よりも五年ほど先の未来から来ている。
召喚される前の彼はまだ大学生だったが所謂活動家の側面を持ち、結構過激なこともしていたらしい。学校で仏教哲学について勉強していた影響もあって、最終的に、腐敗の止まらぬ国政に強力な異を唱えるべく、国会議事堂の前で自分の体に火を放ったそうな。それが大ニュースになったことは、彼よりももう少し後の時間から来た人によって伝えられている。白昼堂々、跡形もなく消えた焼身自殺者――として。
俺達が召喚したせいだ。
「あ、そうだ! 新しくお願いが」
「……はい、何でしょう」
「ドワーフの国に行ってみたいんですけどね」
平気でこういうことを言ってくるのがナガセさんだった。
理由はわかっていたが、俺は問いただした。
「グランドレン帝国へ……何故ですか?」
「留学に決まってるじゃないですか! ドワーフはエルフよりも優れた技術を持っているらしいんで、間近で勉強したいんですよ。そうしたらきっと、もっとすごいものが造れるようになりますし、オレ自身も強くなると思うんですよ。一人で行けますんで……ダメですか?」
グランドレンは、三百年戦争の初期から鎖国したままだ。
その生産力でもってヒューマンとエルフの双方に武器を売りつけまくれば一番強大な国になれそうなものだが、戦争に関わった時点で面倒なことになると考えているのか、一部例外を除いては自国内だけで全てを回す謎の国――。
外交チャンネルがないわけではないから交渉自体はできると思うが、そういう事情なので、かなり難しいだろう。
「やっぱり厳しいですかねー」
ただ、姫様の持つドワーフ民族への謎のコネクションを駆使すれば、実現不可能ではないような気もするのだ。
かけあってみようと、言っていいものかどうか。
「えーと……」
返答に困った末、俺はこう言った。
「やはり単独で行くとなると色々危険ですので、最低限身を守れるならば各方面を説得できるとして、そうですね――ジュンお嬢様に魔法ありで勝てたら、許可を出せないことはないと思いますが……」
すると、さすがのナガセさんも肩を竦めた。
「フブキさん、そりゃ無茶ってもんでしょう! ジュンさんね、一回手合わせしましたけどね――どうしてあの人あんな強いんですかね。パワーは結構女の人っぽいんですけどね……、よく鍛えているとはいえだ……ものが違う感じっすね」
「――あるいは、本当にそうなのかもしれません」
「……というと?」
やはり、ジュンに使ったダイヤモンドが一番大きかったのだと思う。
俺に使われたものを俺は確認できていないが、それでも姫様が出した虎の子の一つに勝るものではなかったような気がしている。
レギウスの召喚魔法の質が、触媒の質に比例するのだとしたら?
あれほどの金剛石に喚ばれたジュンが、魔法だけではなく身体能力も通常より優れた上限で成長しているということはありえる。一人の、ちょっと大きい普通の少女にすぎなかった彼女が、全てにおいて上回っているはずのエルフの魔法部隊をいくらかでも圧倒した。その説明を少しでもしようとするなら、こうなる。
魔法のない場所から移動してきた俺達に魔力が見えているのだ、この世界へ来る召喚という過程で、体そのものを作り変えられていてもおかしくはない。
だが、このことは新しい四十人には言いたくなかった。少なくとも今は。
使われたダイヤモンドの大きさで限界が決まってしまうかもしれない程度の力を、一体誰が有難がる?
「いえ、ちょっと意味深に言ってみただけですよ。それより、学校の方へはいつ復帰される予定ですか?」
特にトラブルを起こしたわけではないのだが、彼は早くに来なくなってしまった。
それだけ、優先的にやりたいことが多いのだろう。
「うーん、まだちょっと、色々準備したいんですよね。それからじゃダメですか?」




