6-16 アルハラで待ってる
~
「また少し、整理しなければならないみたいね」
外で降り積もる雪を眺めながら、姫様はそう言った。
俺は火鉢に目を落としていた。ずっとそうしていた。
回復には意外と時間がかからなかった……手酷くやられたものの、俺の体に外傷はなかった。姫様達が原野へ戻ってくるまでには、ディーンの兵士に助けてもらわずとも動けるようになっていた。
「残念だけれど、エルフに与するヒューマンも少なくない」
ひとまず、この国を脅かす危機は撃退した。
俺達の勝ちだ。
しかし、素直に喜ぶ気にはどうしてもなれなかった。
あの、俺やジュンと同じ世界からきた少年――シンの存在が、新たに残った。
「きっと、色々と事情があるんですよね」
とジュンが言った。
「そうね。でも、今回のように戦場へ出てくるのは稀。裏切るような手合いは皆、報復を恐れるわ」
「……奴は、そういうことは気にしなくていいんだ。実際に裏切っちゃいないし、仮にそういう状況だったとしても、気にするような神経は通っていないと思う」
姫様は俺の方を振り向いた。
「フブキ、あなたは彼が何者であるか知ったのね?」
「そうだと思います。それは、お二人には話しておかなければなりません」
姫様は長く息を吐いた。一瞬白く視認できたが、すぐに消えた。
ジュンが立ち上がり、部屋の戸を閉める。とん、と音がする。
「やはり、あなた達と同じところから来たのかしら」
俺は頷いた。
「最初からそれに気付くべきだったんだ」
あの時、俺はマイエルを見つけて興奮していた。それが目を曇らせていたことは否めない。今思えば、そこに奴らの狙いがあったのだろう。マイエルは囮だったということだ。もう少しでも俺が冷静でいられたら、同じ世界の臭いを嗅ぎ取ったはずだ。
油断だ。
しかも、もう取り返しがつかないかもしれない。
「あっちからやってきたことは間違いない。それも、俺がいた時より先からだ」
「どうしてあなたがそれを確信できたのか、というところは重要な点ね」
それを説明する前に、質問を一つ。
「姫様――心の中を知る魔法、というのは、この世界では確認されているのですか?」
彼女は答えた。
「精神を司る魔法使いの数は、多くないわ」
「こちらの陣営には……」
「明確にどこかへ属している、という形では一人もいない」
「非公式に会ったりしたことは? 噂を聞いた程度でもいいですから、つまり、その存在がどういうものであるのか、少しでもいいからわかりませんか」
「……性質上、精神魔法家はその事実を公にした状態では人々の中へ溶け込むことができないと考えられているのよ。彼らは同じ結論に達する。自分の魔法を秘匿するか、集団から離れることでしか、命を守り通すことはできない、と……」
もし、他者の心をどうにでもできるとしたら?
その精神魔法家が善良で過ちを犯さない完璧な存在だったとしても、何なら魔法を行使しないという誓いを立てていたとしても、周囲の誰かが気にしてしまう。
誰かが、そういう存在を信用できない。
「名前は、シンだ。奴は俺の中身を見ていた。しかもその間中、俺には見られていることがわかっていた。……多分、俺からも奴の中身が見えていたんだろう」
正直言ってその時は全然そんな余裕はなかったはずだが、後からこうしてわかっていることになっていたのだから、そう納得するしかなかった。
「だから奴のことがわかった。十六歳だってこともね。本当なら、最後に俺の記憶を消すか、俺そのものを壊す、っていう手順があったんだと思う。でも、姫様が途中で割って入ってくれたから、それができないままになった」
あのままシンが魔法を完遂していたらと思うと、背筋が凍る。
「問題は、奴がどの程度の魔法使いか。つまり……」
精神をいじることそれ自体には、全く殺傷能力はないと俺は考えている。
ただ、空になることが、死ぬのと変わらないだけ。
「奴に関する知識そのものが――俺のこの考えも含めて――奴が植え付けていったんじゃないか、ってこと……」
ジュンはわかっていないという顔をしていた。
姫様は、俺がこう言う前から、よく理解していた。
その上で、
「それは考えないようにしなさい。きりがないから」
「それしか、ないのでしょうか――?」
状況から言っても、実体験から言っても……奴の魔法が強大でないという判断はできない。
心を読む。
心をいじる、精神をいじる、記憶をいじる、思考をいじる。
このどれもを、高水準で実現できるものとして考えるしかない。
ということは、だ。
助かったと思わされている可能性がある。
奴が俺を造り変えた過程でやっぱり俺は死んでいて、俺が俺だと思っているものは俺に似ているだけの別の何かなのではないか?
ややこしい。
はっきりしているのは、もう、俺は俺自身が信用ならないということだ。
「あなたにも精神魔法が使えれば、あるいは対抗する術を見出すことができたかもしれないわ。でも、そうではないのだから、もう終わっていることなのよ」
俺は頷きたくなかった。しかし、姫様の言う通りだった。
「だから、そちらの方へ話を伸ばすのはやめなさい」
確かに、無益かもしれない。気にしてもどうにもならないことを気にするのは。
だが、
「わかりました。ただ、一つだけ! もし私が――いいですかお嬢様もよく聞いてください――姫様の、そしてもっと言えば私自身の目的の妨げとなるようでしたら、迷いなく私を殺すことです。それしか、私のこの新たな病を治す方法はないでしょう」
これだけは心得ておいてもらわなければ困る。
俺はもう、脱落したも同然であると。
「そうするわ。それであなたの気が少しでも済むのなら。いいわね、ジュン?」
「え、それは、まあ……フブキさんがそうしたいなら」
「どうか、お願いいたします」
姫様は立ち上がった。
「とりあえず、それだけわかれば今日はいいわ。細かいことはまたセーラムで話しましょう」
「そうですね。あまり待たせたら皆さんに悪いですよ」
と、ジュンも姫様を通すためにまた別の戸を開こうとした。
俺は俯いたまま言った。
「もう一つ――気になったことが」
見えなかったが、二人が振り向いたのはわかった。
「奴は、私に触れようとする前も、魔法を使いました。動きを素早くしたのか、身体を強化したのか……どちらかまではわかりませんが、いずれにせよ、あれは心を読むのとは別の種類の魔法だと思います。奴は、複数の魔法を操れるのでしょうか?」
姫様は言った。
「その可能性もあるけれど――おそらくは、精神魔法の恩恵ね。誰かの心を知ることができるのなら、誰かの魔法も知ることができるはずよ。盗むことさえも。あなたの魔法は無くなっていない。そのことには希望を持つべきね。強いて言えば、だけれど」
「――そうですか」
きっと、奴には何だって出来てしまうんだろう。
以前までの俺なら、そんなものは相手にできないと匙を投げたかもしれない。
倒せるわけがない、と。その力はあまりに強すぎる、と。
奴を生かしてはおけない。
奴は、本心では自分が正しいと思っている。
本当に疑いなく、そうだと思っている。
それが何よりも許せない。
この国へ来てからもう何度目かわからないが、宴の席が設けられていた。
俺や姫様の心中がどうであれ――名目上は勝っていた。やらないわけにはいかないということだ。
フォッカー氏が俺達を称えたのには困り果てた。
集まったのは、出陣前に参上したのとそう面子の変わらないお歴々である。そこへ、今回実際に戦ったフォッカー隊の兵士達が追加されていた。さらに、首都防衛戦力が出かける間留守を守った警備隊と、その助けとなった冒険者達――ジェレミー君達も招待されている。
その前で、彼は俺のことを一番の功労者だと紹介しやがった。
よりによって、今回の戦いで一番のポカをやった俺を。
「全ては真実だったのです! このフブキ殿こそが、我々ヒューマン同盟を救いうる天災級の魔法家なのです!」
そう説明する彼の口調、瞳、一点の曇りもない。素面である。
それでこの席が白けてくれればまだマシだったのだが、半端に俺を見ていたフォッカー隊が沸いたもんだから、全体がそれに乗っかってしまった。
「ハギワラ殿、ご乱心! 私はしがない道化師でございます!」
あとはもう、笑顔が悪い意味で歪んでいないことを祈りながら、芸を披露して誤魔化すしかなかった。とにかくその場を逃れたくて、思いつくままにセーラムで一度やったことをリピートし続けたが、ディーンの人々にとっては初見なので、普通にウケてしまった。まあ、場が場だったから、何をやってもウケたのかもしれない。そのまま出ずっぱりにならなかったのが、救いといえば救いだったのだろう。あとは姫様とジュンを盾にしつつ、デニーとジェレミー君が酌み交わしているところへ逃げ込めた。
「おやおや、英雄様のご帰還だよ」
「いやァ、アンタがそんなにすげえ人だとは知らなかったな」
この二人はちょっと見ない間に急速に仲を深めていた。都も都で平穏無事とはいかなかったらしく、混乱に乗じた賊の暗躍などがあって色々と大変だったらしい。組んで仕事をした結果、意気投合してしまったそうな。
「勘弁しろよ……」
「ま、無礼講らしいから、おまえも飲んだら?」
「おう……」
お猪口と言うには少々大きすぎる気もするそれに注がれたのは、なんだかんだと理由をつけて断ってきた、米から作られるこの国特有の酒である。
こういうのはビールやチューハイよりもアルコール度数が高いから、俺みたいに弱い身では危険だという印象を未だに抱いている。
だが、今日ぐらいはいいだろうと思わなければやってられないのも事実だ。
前もあんたには言ったが、俺は決して酒が嫌いなわけではない。
えいやっと一口いって、二口吸って――これが、意外にするするとイケてしまった。
「え、うまくない? これ」
「だろ?」
ジェレミー君も上機嫌だ。
「料理も食えよ。ディーンの魚はいいぜ」
「……お、これは――」
などとやっているうちに、あっさり一杯終わってしまった。
「なーんだよ、普段言う割には飲むよなあ、おまえ」
「ほい」
とジェレミー君が二杯目を注ごうとするのを慌てて押し止める。
「いや、いや! もう結構。十分に堪能いたしました」
「嘘つけえ」
「嘘じゃないですよ。昔、お前は絶対に二杯以上飲むなって言われたことがありましてね。今でも気にしているんです」
何を気にしているって、それを言った人物の顔が深刻そのものだったのと、その時の記憶がないことに加えて誰も俺が何をやったのか語ろうとはしなかったことだ。
「そういうわけですから、」
あれだけ騒がしかった周りが、妙におとなしくなっていることに気がつく。
変だと思い胡坐のまま振り返ると、アキタカ皇帝が徳利を装備して立っていた。
――ずっと遠くに座っていたのに、いつの間に、
「え、あ、」
彼が二杯目を注いだ。ざわめきが起こった。
フォッカー氏は口を開け、あの只者とも思えぬクドウ氏でさえ猛禽のように目を見開いていた。よく考えなくても、これが異例であることは明らかだった。
これ、受けなかったらどうなるんだろう……?
俺は姫様に助けを求めた。彼女の頬にはほんの少しだけ赤みが差している。
「皇帝陛下の御厚意を無下にしてはなりません。これは命令よ」
一応、姫様も酒には酔うのか。
逃げ場が、ない。
「……――ま、まったくきょおはなんというひでしょぉあ!」
手が震えて少し零した。
二杯目の最初の一口が唇に触れ、
~
ゼニアは今日ほど己の不明を恥じたことはなかった。
フブキが酒に弱いのは知っていた。また、それをゼニアは信じ込んでいた。
座敷の惨状を見、改めて思う。
あれは事実とは異なっていたのだ、と。
フブキは酒に弱いのではない。酒で自分を失くしてしまうのだ。
経緯を知らぬ者が見たら、嵐が過ぎ去った後としか答えられないだろう。
散乱した食器は言わずもがな、戸という戸は外れ、机という机は正常な立ち位置を維持できていない。屋根は二ヶ所が破損し、そこから雪が積もり始めて久しい。
一番賢かったのは、誰よりも先に脱出を決断したデニー・シュートに他ならない。彼はフブキが事を起こす前に引き揚げた。何が起こるかを理解していたかまでは定かではないが、少なくとも身を隠さねばならない何かが起こるとは判断した。フブキの瞳へと宿った妖しき光を見極めていたことは確実である。
次点が、冒険者達となるのだろう。デニー・シュートは姿を消す直前、ジェレミー・ハギワラに何やら耳打ちをしていた。ゼニアは彼が仲間達にそれを広めたのを知っている。さらにそれが別のグループへも伝わり、冒険者達は波が引くように辞した。
二杯目を飲み干したフブキは、フォッカー・ハギワラと相撲を取り始めた。
そのフォッカー・ハギワラは今、壁に半身を埋めている。息はある。
三杯目に口をつけた時点で、ジュン・コミナトはゼニアにどんな犠牲を払ってでもこの場を無かったことにするよう進言した。早すぎるが、今がもうフブキを殺す時なのではないかとさえ言った。
だが、ゼニアが行動を起こす前に、フブキは皇帝と相撲を取り始めた。
一番愚かだったのは誰かと問われれば、このアルフレッド・アシナガヒコ・アキタカであったと言わざるを得ない――もちろんその次に愚かなのがゼニアであることは言うまでもない。
そもそも、この中年少年が妙な気を起こさなければ、回避できたことなのだ……。
腰を落としたその瞬間までは乗り気だったのだから、救いようがない。
関白クドウが身を挺して護ろうとしなければ、今頃ヒューマン同盟は跡形もなく消し飛んでいたに違いない。クドウはゼニアが責任をもって戻した。
それから先、フォッカー・ハギワラが復活してからのことは、ゼニアは正確に把握できているという自信がない。つまり彼は二回目の埋没である、ということくらいしか確かだとは言えない。
後ずさるジュンと、それに躍りかかるフブキの間へと割って入ったはいいが、一体どうやって切り抜けたのか……。ある意味では、これが最も危うい場面だった。
ジュンは座敷の片隅で、いついかなる時もそうすることが第一義であるかの如く、破れたスカートを伸ばすように押さえながら眠っている。頬には涙の跡があるが、ゼニアにはもう端女装束を元へ戻してやる気力もない。
極端に人気のなくなった建物を放浪し、ジュンが凍えぬための毛布を見つけて戻ってきたのが、今である。
「あなたなら、これで死ぬことはないと思うけれど……」
三枚かけた。いつもなら自分の身体にかかった重量を感じて飛び起きるジュンだが、この時はぴくりともしなかった。
庭から調子の外れた歌声が聞こえてくる。
「ゆぅきやこンこ、ァラレャこんコッ」
その先は口笛に切り替わった。こちらはむしろ、いつもより繊細な音であった。
ゼニアは無駄だと知りつつも、気配を消して外へ出た。
「姫様も雪食べます?」
しゃがみ込んでいたフブキが、こちらも見ずに言った。
もぞもぞと動いているが、どうやら食べているらしい。
「遠慮しておくわ。それより、今後一切、その……二杯目は禁止します」
「ああ。その方がいい」
まるで他人事のように言って、立ち上がる。
「今夜の記憶を失くしたいわ」
とゼニアはその背中へ声をかけた。
「あんまりひどかったから、向こうも何も言ってこないでしょうけれど……」
「ふふん? くっくっくっくっ――」
わざと発音してフブキが笑う。足元の雪を踏み固めながら。
「きゅっ、きゅ」
ゼニアも、音を鳴らしこそしなかったが踏み進めた。
フブキがそれを待っているのはわかっていた。
ほとんど触れ合うのではないかという距離になって、フブキは振り向いた。
妖しい笑みは健在だった。
こうも印象が違うものか、とゼニアは思った。
フブキはいつもの、道化師の格好をしている。それに加えて、ハギワラの屋敷から借りてきた上着さえ羽織っている。
だというのに、滑稽さが、今はまったくない。
残ったのは、小憎らしさと――、
フブキは、ゼニアへと覆い被さるように寄りかかってきた。
不思議と、悪い気分ではない。
だが、完全にそうなってしまう前に、ゼニアはフブキの口を手で覆った。
そのまま押し返す。
フブキは素直に自分で立ったが、微笑んだままだ。
また少し、整理しなければならない。
「あなたは誰なの?」
フブキは笑みを消した。




